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52-1:【レイル島】サユリ

- 52 -



 ――十八年前――




 東大陸から遠く離れた絶海の孤島。化体族が住むレイル島である。


 ここレイル島では、穏やかな日常が繰り返されていた。


「サユリ」


 背後から呼ばれ、庭の掃除をしていたサユリは一つに結わえた赤い髪を揺らして振り返った。汚れた作業衣を着た黒髪の若者が立っていた。


「やあ。元気?」黒髪の若者、ハルキは、はにかみながら尋ねた。


 サユリは手にしている(ほうき)を地面に真っすぐに立てた。「あたしってそんなに元気がないように見える?」


「え?」


「毎日訊くじゃない。元気かって」


「あ、いやあ」ハルキは鼻の頭を掻いた。「挨拶さ。サユリがいつも活発なのは知ってるよ」


「じゃあいちいち訊かないでよ」


「……そうだな」


「活発にもなるわよ。ここじゃ」サユリは住み込み先のシロハゴロモ亭の建物に目をやった。


 レイル島の南部の海辺に位置するシロハゴロモ亭は、一階は食堂、二階は臨時の宿となる空き部屋を有している。高齢の主人夫婦に子供はなく、サユリのような頼れる身寄りのない若者を積極的に引き取っていた。


 サユリの母親はサユリが生まれてすぐに亡くなった。化体であるウサギのときに野生の鷲に急襲されて帰らぬ人となった。父親はサユリが十二歳のときに入水自殺をしている。晩年は気分の落ち込みと酒の依存に苦しんでいた父だった。一人取り残されたサユリ。自分一人で暮らせると主張するも、幼い上に二日に一度は豚の姿で過ごすものなのだから到底無理がある主張だと領長に却下され、シロハゴロモ亭へと移ることになった。


 シロハゴロモ亭の敷地は広い。庭掃除とて楽ではない。早々に済ませたいところだがハルキはまだサユリの前から離れない。


「で、何か用? こちとら労働中よ」


「ああ。用というか。ほら、俺、また今度北部のほうにいくことになっただろ。またしばらくサユリと会えなくなる」


 両親を亡くしているハルキはシロハゴロモ亭を住居とすることもあれば、ほかの地域の知人友人の家に住まうこともある。季節や求められる仕事内容によって彼の住み込み先が変わるのだ。


「それで?」


 ハルキは深く息を吸った。「今度、丘の花畑へ遊びにいかないか」


「いかない」


 サユリの即答にハルキは口を開けたままで止まった。


「女将は休みをくれないわ。豚のときに十分休んでるだろって思ってるわよ」


 ハルキが異をはさもうとするも、その前にサユリが言葉をつないだ。


「それに。誘うんならひげくらい剃ってから誘いなさいよ」ぼさぼさ髪も整えなさい、とも付け足したかったが面倒くさいから省略した。


「あ、それじゃ剃って――」


「剃ってもいかないわ」


 ハルキは取りつく島もなく口まわりのひげをなでた。彼女の箒を動かす音がしっしっといっているように響く。


「サユリー!」


 突然の気軽い呼びかけに思わずサユリの顔は変な笑顔になった。元気な声とともに、庭の裏から一人の女性が走ってきた。


「チズル」サユリは彼女の名を呼んだ。


 みっしりと肉付きのいい体を揺らして近づいてくるのは、同じくシロハゴロモ亭に住み込んでいるチズルだった。気詰まりな雰囲気を変えるきっかけとしてちょうどいいが、ハルキと一緒なことにサユリは少し居心地の悪さを覚えた。


「あっ、ハルキ」彼に気づき、チズルの声色が若干高くなった。


「やあ。チズル。元気かい」


「とっても」チズルは乱れた前髪をなでつける。「ハルキは?」


「ん……。まあまあかな」


 二言三言会話したのちハルキは持ち場へ戻るために去っていった。チズルの下膨れの頬が紅潮している。サユリはチズルの顔をじっとのぞき込んだ。


「な、なんだい」


「別にぃ」


 本人は明言せずとも、チズルがハルキを好ましく思っているのは周囲には知れたことだった。あんなやぼったい男のどこがいいんだか、とサユリには不思議でならない。


「それよりサユリ、知ってる? ケイゴとアズミさんが結婚するんだって」


 サユリは思いもよらなかった報告に目の形を大きくした。「へえ。知らなかった」


「そうだよね。あたしも今さっき裏のおばちゃんに聞いてびっくり。二人が特別仲よくしてるって噂は聞いたことがなかったのにさ」


 その二人はそういえばともに太陽グループだったと、サユリは思い至った。サユリやチズル、今帰っていったばかりのハルキら月グループとは、本体と化体の後先が逆だ。月の日の今日は噂の二人は化体の姿であり、ケイゴは猿、アズミは男の姿で過ごしている。


「でもまあ、さほど意外には感じなかったよ」チズルはわけ知り顔でつづけた。「ケイゴってちょっと変わってるけどよく見れば男前だものね。頭もいいし。アズミさんとお似合いだ」


「そうね」


 そうか、アズミさんと。と、サユリは海がある方向に目を向けた。


 サユリよりも六歳年上のアズミは役所に勤めている。美人で明るくて竹を割ったような性格の彼女は皆から好かれていた。サユリは彼女に女性としての憧れを持つ一方、自分にないものを持っている彼女に劣等感を抱いていた。


「あたしも役所で働きたかったわ」サユリの心の声が漏れた。


「しっ。女将に聞かれでもしたら大変だよ」


 二人はわざとびくびくした物腰でシロハゴロモ亭の建物を見た。聞かれていないことはわかっている。女将は高齢で体が悪く、外に出ることはほとんどない。そして近づいてこようものならすぐに気づく。


「だいたいあんたが望んだところで無理な話さ。役所の事務員になれるのは異性の化体を持つ人だけなんだから」


「わかってるわ」


 毎日ヒトの体で働けるのが役所の事務員の必須条件である。豚の化体を持つサユリは望む資格すらない。こればかりはどうしようもない。


「しかも体だけじゃなく頭も大事だ。あたしのようにヒトの化体だとしても、勉強ができなきゃ、役所なんて堅苦しい場所でしかないさ」


 チズルは笑うがサユリは笑わなかった。頭が悪くてもヒトの化体を持っているだけ羨ましい。


「サユリはここの仕事が合ってるよ。料理は上手だし掃除や洗濯だってそつなくこなす。野良仕事だって速い。将来一緒になる人は大助かりだよ」


「将来一緒になる人ねえ……。どこのどの人なんだか」


 かつん、かつん、と、ゆっくりと杖をつく音が二人の耳に届いた。サユリは箒を持つ手を動かした。


「いってたらきた」チズルがささやいた。


 食堂の入口から腰の曲がった老婆が出てきた。シロハゴロモ亭の女将である。


「チズル。使いから帰ってたのかい」女将は左右の大きさのちがう目でチズルを見据えた。


「ちょうど今、さっき」


「さっさと報告せんかね」


「……すみません」


 女将は鼻から大きく息を吐き出した。チズルは少し肩をすくめた。


「あんたたち」前傾の姿勢で杖に体の重みをあずけている女将が切り出した。「今日から忙しくなるだろうから頼んだよ」


「何か急用でも?」サユリが尋ねた。


「マルコスたちが島にくる」


 ええー、と両手を上げて驚きをあらわにしたのはチズルだった。サユリは驚きを表に出さなかった。


「サユリ。マルコスたちがきたら、掃除やらなんやらはチズルにまかせて、あんたは厨房にかかりきりになるんだ」


「はい」サユリは声が上ずらないよう注意した。


 女将は再度、深く息を吸って吐いた。大きなため息はこの小柄な老婆の癖であった。用件をいい終えた女将は杖をついて食堂の中へと戻っていった。


「もっと前からわかってたはずだよね。早くいってくれればいいのに。こっちだって忙しくなる心構えってもんがさあ」チズルはぶつぶつと不満をこぼす。


「本当。困っちゃうわ」サユリの声はさほど困ってはいなかった。


 もっと早くからいっておいてもらえればきっちりと身繕いできたのにという不満はある。しかし浮き立つ気持ちが勝つ。サユリにとっては朗報だったのだ。


 そろそろ時期だとは思っていたが、この日が突然やってくるとは。年に一度交易のために来島する西大陸の商人マルコスと、彼の船を航走させる船員たち。その船員の中に、サユリが再会を期待する男性がいた。


 二年前。初めて「彼」はレイル島にやってきた。島外の客はシロハゴロモ亭に寝泊まりする。サユリはじっくりと客を観察できる。ガラガラした船員たちの中で「彼」だけは異質だった。品があって洗練されていた。こんな船乗りもいるのだなとサユリの印象に残った。


 次の年も彼は爽やかな海の風とともに姿を見せた。この年は船主であるマルコスの仕事が忙しく、一泊しただけで帰るという駆け足の旅程であった。サユリが港まで見送りに出た際に彼は声をかけてきてくれた。名前を呼び、またの再会を望む言葉を口にした。そのときの彼の笑顔がサユリのまぶたに焼きつき、今日までのあいだ、彼を思い出さない日はなかった。


 クオグリスという名の青年。今年もレイル島にやってくるだろうか――。


 先ほど、めでたい話題で名前が出ていたケイゴ。彼がクオグリスに似ていることに気づいてから、サユリは少しだけ彼を意識するようになっていた。しかしケイゴは太陽の日のグループ。サユリがヒトの姿のときに彼は猿。彼がヒトの姿のとき、サユリは豚。どうにも仲が発展しないのはわざわざ頭で考えなくてもわかっていることであり、ケイゴに対しての気持ちが恋心と呼ばれる域まで達しない理由として十分だった。


 庭掃除を終えたサユリはシロハゴロモ亭の二階から海を眺めた。港も見える。


 その日サユリは何度も窓の前まで足を運んだ。しかしその日はマルコスの船が目に入ってくることはなかった。




 次の日も彼らは現れなかった。天候、海、船や船員の具合。複数の条件がそろわなければならなく、航海の予定が遅れるのはよくあることだとサユリだってわかっている。わかっていてももどかしく感じた。




 さらに二日が経過した。


 豚の姿で散歩していたサユリに、男の姿のチズルが声をかけてきた。船が見えたらしいと。しかし様子が変だと。ともに海へ向かった。


 港ではない岸辺に集っていた島民たちは不穏な顔つきでいた。島に近づく船が、皆が知るそれよりも小さかったからだ。マルコスの船は生活に必要な様々な品から嗜好品や書物まで大量の荷物を積んでくるので、その小さい船はマルコスの船としてはあり得なかった。


「す、すみません。遭難してしまいまして……」


 来島者の正体はひどくくたびれている人間だった。西大陸に住む小金持ちな男が北の島まで仲間と旅に出るも、機関部品が故障し、航行の自由を失って漂流したのだった。陸に上がれる安堵と新たな不安に包まれてレイル島に足をおろしたのは、半人種など初めて目にする人間の男女七人。うち二人は衰弱している。


 レイル島の有力者は彼らの船の状態を調べたのち、彼らの処置について話し合った。彼らの証言のとおり、海難事故の末にレイル島に漂着したのは疑いようはなく、心身ともに疲弊している彼らに他意はないと判断した。常時監視を付けるのを条件に、船の修理と彼らの回復が済むまでのあいだ、島に滞在することを許可した。


「人間よ。怪しい動きを見せれば命はないと思え」レイル島の長であるオキノは正面切って警告した。


 歴代の長の中でも最も長としての使命感にあふれていると呼び声が高いオキノ。人間に対して毅然とした態度を示す彼、通称「領長」を、島民たちは頼もしく思った。漂流者からすれば脅威だった。人を殺すのを辞さない姿勢の長。そしてヒトの知能を持った種々の動物が島中にいる。半人種たちにいつ食われるやら襲われるやら、気が気でなかった。




 それから三晩過ぎた。当初のマルコスたちの到着予定から一週間が経とうとしていたが、彼らはいまだ現れない。


 直前の事例もあり、漂流を心配する声が島民からぽつぽつと上がり始めた。島の長であるオキノは翼竜の化体を持つムゲンに沖の調査をさせようとした。


 その矢先にマルコスの船が到着した。マルコスの身内に不幸があったために出発が遅れたのだった。彼らの到着の知らせにサユリは胸をなでおろし、そして胸を弾ませた。

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