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50-5:神の答え

〈裁きの段にあらず〉


 ――目が覚める思いだった。


 夢から覚めたという表現がより近いか。


 神の答えは可否ではなかった。裁きの段にあらず。考慮の段階でもないということ?


 とりあえず「可」の意味は含んでない答えだった。絶句した。


「そんな……」ケイの声には失望の色がにじんでいた。


「どういうこと」ユリアは困惑している。


〈真実を明らかにす。さすれば機が熟す〉


 真実。僕の胸にざわっとするものがあった。


〈天王エミアス。手引きせよ〉


 球体の光が消えた。元のしんと浮かぶ球体に戻った。


 神はいってしまったようだ。おぼつかない浮雲漂う空気を残して。


「おれのいい方が、よくなかったのかな」


「これこれ。神の声を思い出すのだ。とある真実を明らかにすると。話はそれからだと。こういっておったではないか。お前さんがどれだけ素晴らしい演説をしようが関係はない」


 うな垂れるケイの肩に僕は手を置いた。ケイは顔を上げ、少し僕を見つめてから何度かうなずいた。


「神のいいつけどおり、私が真実へと導こう」


「真実というのは……」僕は天王に問うた。


「ハヤテ。本当のお前さんについてだ」


 ぐらりと傾きそうになる体を足の裏で支えた。


 なんとなくそうではないだろうかという気はしていた。それでも天王の口から明言され、僕の心臓は重しが乗ったような調子になっては体の軸を揺るがせた。


「まずはそこを明らかにせんことには、先に進むことはできん」


 僕が描いていた順番としては、人間になって、化体という存在が消えて、そこで初めて本当の自分がわかる……という、そんな順番だった。突然結末から知ることになるとは。


 ひとまず。天王にいっておきたいことは。


「僕の事情について、知っていたのですね」


 天王にはまだ特異な性質について伝えていなかった。


「いったろう。()()()とな」


 僕は納得した。それもそうだ。野性味あふれる鋭い眼。すべてを見通してしまえそうだと僕は先にも感じていた。天王は神と交信する術を持つ超俗的な存在なのだ。この身の性質など、ハヤテという男の本体など、清流の藻を見るように見透かせてしまうんだろう。


「さて」天王は本題に移ろうかという気配を見せた。


 僕は吸っていた息を止めた。


「今日のところは休むがよい」


「えっ」僕自身の耳にけっこうな音量として届いた。


 呼吸を止めていた分、大きな息に乗って声が出た。


「お前さんたちは今日はもう刺激を受けすぎた。この宮殿まで長い長い距離を移動し、神族と会い、私と会い、地王にも会い、そして神と交信した。自覚がなくともお前さんたちは心身ともに疲弊している。よって休息を勧める」


「真実を教えてくれるのは、明日に持ち越しっちゅうことかいね」リャムが尋ねた。


「お前さんたちの返答次第だ」


 僕は返事ができなかった。いったんここで、時間を置く? 本当のハヤテについて明らかにすると告げられた上で一晩待てというのは、生殺しに近いものがあるのではないだろうか。


 真実を得られる状態にあるのだから早く得てしまいたい気持ちがある。しかし、なぜか真実を明らかにする方向に完全に舵を切れない自分もいる。今か、後か。今日か、明日か。


「一つの参考として。王の宮殿に泊まれる機会はめったにない」天王がいった。


 天王に返すべき答えが出てこない。


「そう、だな」ケイが口を開いた。「そうさせてもらおうぜ。ここまで到達できたんだ。あとは焦らずに、万全の状態で、迎えるべきものを迎えよう」


「賛成じゃ。突っ走らずに休むことも大事じゃ。もちろん兄貴がよければですが」


 僕が、よければ? ()()が、よければ?


「な、ハヤテ」


 ハヤテという名前を呼ばれて頭が自然と浮くようにすっと上がった。ケイが物柔らかな表情で僕を真っすぐ見据えていた。


 僕はうなずいた。たしかに、今ここで真実の開示を求めたって、ただの焦りでしかないのかもしれない。


「了承した」天王が話に区切りをつけた。


 ユリアが僕の体に抱きついてきた。ユリアの体の強張り、そしてわずかに震えている呼吸から、緊張しているのが十分に伝わってくる。


 僕を、カレを、想ってくれているからこその緊張だ。まわりのほうが神経をすり減らすものかもしれないな。


 僕はユリアを抱き寄せた。深く腕の中に包む。人の温もりを感じてそっと目を閉じた。


 ――忘れろ――


 頭がキンとし、天王の茶の香りがよみがえった。僕はカッと目を開けた。


 マナと呼ばれる球体が視界に入った。とても無機的に浮いている。


 だれも何もしゃべっていなかった。香りは漂っていない。つまり僕が感じたのは幻だ。


「お兄ちゃん?」ユリアが怪訝そうに僕の顔をのぞき込んだ。


 僕は自分の体が固まっているのに気づいた。「……さっきの、茶の香りを思い出してしまって……」


 香りよりも気になるのは。〝忘れろ〟。突如として頭の中に響いた。男性の声、だった。だれの声かはわからない。


 なぜ、忘れろ? 何を忘れろ? なんの脈絡もない。突発的に浮かんだだけにしては妙に引っかかる。僕の記憶の中にあったものだろうか。覚えはない。でも完全に無関係とも思えないのは――。


「お、おい。また顔色が悪くなってるぞ」


「座ったほうがいいですけえ兄貴」


 同時に声をかけてきたケイとリャムに僕は「黙って」と言葉を投げていた。


 はたと我に返った。


「ごめん。考え事をしてて……」


「うらたちに謝る必要なんてないですけえ」


「ああ。それよりお前の具合が心配だよ、ハヤテ」


 もう外部を向く思考となった。僕の内部で儚いながらもきゅっと凝縮していた〝忘れろ〟の具体像は散ってしまった。細かくて透けるように薄いそれらをもはや拾うことはできない。


 ユリアはまるで、母さんがユリアを心配するような面様で、僕を見つめている。そんなに僕は今、顔色を悪くしているのか。どうして僕は、ハヤテという男は、こんなにも例の香りがだめなんだろう。


「ここを出よ」天王が指示した。


 部屋の外へと出た。扉の近くに召使いらしき人が立っていた。


「ハヤテはついて参れ」


 ん、と僕だけでなくほかの仲間も喉の奥で声を出した。引っかかりを感じる誘いだった。


 僕の返事を待つことなく天王は背中を見せて歩きだした。僕以外の三人は手持ち無沙汰な様子でその場に立っている。足を動かす気配はない。やっぱり、僕だけついてこいという語り口、だったよな。


「お三方はこちらへどうぞ」召使いらしき人が三人にいって反対側へと歩きだした。


 急に別行動となる方針に僕たちは狐につままれたような顔で見合ったが、「じゃあ」というしかなく、そういって別れた。




 長い通路。無言で天王の後ろを歩く。いつもより歩幅を広くして速く足を動かさないと追いつかない。


 なんだろう。どこにいくんだろう。僕にだけ真実を教えてくれる、のだろうか。質問する機は過ぎた。天王の後ろ姿は特に、容易く話しかけられない雰囲気がある。


 とある部屋に通された。ベッドが一つある寝室だった。


「もう休むのだ」


 僕は閉めた戸の前で、晴れの日の小川でも眺めている心地になった。美しい装飾が施されたベッド。どこまでも白くて清潔な布は眩しく感じるほどだ。


「王の宮殿とは、神に最も近い場所である」天王は説明口調でいった。「お前さんの感覚は、神の影響下で鋭くなっている。物事を敏感に感じ取りやすくなっているのだ」


 だからもう今日は休めということか。……たしかに、何度も具合を悪くするのでは、皆に心配をかけるだけだ。


「残りの三人は食事会へと案内する。お前さんも空腹であれば、あそこに食事がある」


 部屋の隅のテーブルの上に、何か食べ物が盛りつけられた皿が置いてあった。準備がいい。


「あいにく私の食事会では茶が欠かせんのでな」


 ああ、と僕は納得した。「それなら僕は休んだほうがいいですね」


 天王は僕にその大きな体を向けた。虎の顔はどこまでも勇ましい。いろんな意味でずっと見てしまいそうになる。


 天王は僕の頭に手を置いた。「よくぞここまできたものだ」


 僕の体がじわりと温かくなった。天王の黒い手袋越しに、何か聖なるちからをもらっているかのようだ。


「次に目が覚めたとき、真実が明らかになる」


「明日……ですか」


 明日ということは、真実を受け止めるのは、カレだ。


「ゆっくり休むがいい。ハヤテよ」


 天王が部屋から出ていった。


 一人になったとたんにどっと疲れを感じた。僕は革鎧を脱いだ。


 天王は、ハヤテという男の真実について知っている。どちらが本体でどちらが化体なのかを知っている。だから、僕は自然と天王を観察する目になっていた。どこかで真実の一端を表出すかもしれないと思った。しかし天王に隙はなかった。虎の顔には微妙な表情の変化はまったく出ない。天王の思考はまったく読めない。さすがは天王だと、そう結論づけるしかないくらいに盤石の固きを認知させられた。


 ベッドに腰掛けた。軋む音はいっさいしない。


 休むのはいいが、一つ気がかりがある。「僕」としてケイやユリアやリャムに再度会えるのかということ。


 今夜はみんなと過ごしたかった。まだちゃんとお礼をいってない。僕が本体だったらこれから先も飽きるほど感謝の気持ちを伝えることができるけど、本体がカレであるならば、その機会はもうないかもしれない。


 可能性としては、半々。それはそうだ。答えは二つに一つなのだから。


 別に命が尽きるわけじゃないのに、そういう気分だ。あるいは、自分の人格が消えるというのは死と同義なのだろうか。


 背中をそっとベッドに沈めた。


 昨晩カレはカレ自身のことを残酷だと評していた。姫にノエルを愛していると告げた後であり、また、エデンレイル領の黒蠍を闇に葬った場面を深く思い返したことから、そんなふうな物の見方になっていたようだが、僕はカレが残酷だとは思わない。


 黒蠍を仕留めたのは、いずれエデンレイル領に移り住むであろうレイル島の民を守る目的があったからだ。ノエルを愛していると姫に告げたのも残虐性からではない。雑多な感情があってどれか一つを理由としてつかみ上げるのは難しいけれど、その中には優しさがあったのはたしかなんだ。ユリアもその優しさを感じたからこそ、カレに感謝してるといっていたんだ。


 カレはいうなれば、大事な何かのために、保身の壁を打ち破ることができる性質なんだ。


 僕はユリアに向かって、ノエルを愛していると告げることはできないだろう。ユリアを傷つけたくない気持ちがある。それは、ユリアに嫌われたくない気持ちと並列している。つまり、ユリアの心を守るのと同時に、僕自身の心を守っているんだろう。


 僕はまた、カレのように黒蠍を殺せたのかは疑わしい。僕があの日あの状況に置かれていたら、自分の手を汚す覚悟は生まれただろうか。手を下したのはカレだという状況でさえ自分の手が血に染まってしまったような感覚になっていた僕に、壁を越えることはできたか。カレのような覚悟や強さを持っていると、僕は胸を張っていえるだろうか。


 光と闇。カレは僕との関係性をそうたとえていた。カレは僕を光側に据えてくれていたけど、見方なんてどこから見るかによって変わってくる。いずれにしても、光あるところに闇があるのであって、僕たちは互いがいるからこそ、それぞれの自分があるのかなと思う。


 太陽ハヤテ。


 不思議な境遇だった。君もそうであるように、僕は、自分が本体としてハヤテの体に残りたいなど、そういった執着はない。たとえ命が尽きるのと同じ状態だとしても、その状態に恐怖することはない。


 だって、どちらが消えようとも、もう一方の記憶の中でずっと生きつづけるのだから。

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