50-4:神との対話
天王に連れられ、神との対話に使われる部屋へと移った。
そこに広がる空間は、図で表すなら簡単なものだった。
数十本の太い柱が円を描いている。その円の中心に、大きな球体が浮いている。ただそれだけである。それだけではあるが、この空間が非常に複雑で高度なものを内包していることは疑いようがなかった。
この空間から醸し出される雰囲気――幻想的であり未来的であり古代的でもあるような多元性を持つこの雰囲気――を、言葉で的確にいい表すには、下界で学んだ言語では概念が追いついてなくて事足りないのではないかと、そんなふうにさえ思う。
「あれは〝マナ〟だ」天王が浮いている球体を指していった。「マナには神のちからが宿っている」
名前を持つその球体はとにかく超俗的だった。直径は、馬車の車輪の五倍くらいあるだろうか。泡のごとくとても軽そうにも見えるし、水晶玉のごとくとても重そうにも見える。いずれにしても上昇も沈みもせずにしんと空中に浮いているのが謎めいた印象をあたえる。球体の色合いは全体的に透明であり、もっといえば球体の中に水と氷が入っているかのような複合的な透明であり――、また表面か中かどこにあるのかはわからないが真珠層のような光沢のあるとりどりの色彩が乱舞していてえもいわれぬ複雑性と妖美の機微を秘めている。
この超俗的な球体は、下界の者の今の技術力では到底作り出せそうにない。まごうことなき下界の住人である僕たち四人は神秘なる塊をただ見上げて静まっていた。
というよりは、僕たち四人はここへの移動の最中からすでに口をつぐんでいた。先頭を歩く天王の大きな背中を見ながら、それぞれが足だけを前に進めていた。この世の最も崇高なる儀に向かっているあいだにどんな会話が必要だったというのだろう。
この神秘の球体を眼前にした今も同じだ。すごい。きれい。そんなふうに口に出すことはできるが、一体それになんの必要性があるというのか。どんな言葉もどんな会話もただ陳腐になるだけだ。
「神に呼びかける前に、百年懺悔について確認する」
天王が語りかけてきたことによって、魅惑的な球体からやっと目を離すことができた。
「あらゆる罪悪も百年のあいだひたすらに懺悔しつづければ神にゆるしを請える、というのが百年懺悔の考え方だ。百年経てばゆるされるという意味ではない。神がゆるさぬと判断すればゆるされぬものであるし、またゆるしを請う者はその可能性について忘れてはならない。――どのような結果であれ、受け入れる覚悟はできているな」
僕たち全員が了承している旨の返事をした。
「――マナに向かって祈りを捧げよ」天王は大振りの首飾りをつかみ、球体に差し向けた。
僕は再び球体を真っすぐ見据えた。胸の前で両手を合わせる。目を閉じる。
神への祈りは僕たち化体族にとっては同時に懺悔でもある。気負い立つつもりはないが、今は背中に重いものがずしりとのしかかっては自然と姿勢が深く沈むような感じがしていて、その重みは化体族皆の思いのような気がしてならなかった。
静寂があたりを包む。深淵にいるかのようだ。深く深い境地に入った。
「偉大なる神よ。我らが祈りに応えたまえ」
天王の口上のいくらか後、だった。閉じたまぶたの向こう側から光を感じた。
僕は目を開けた。
ぼうっとした。ときが止まって感じた。何も反応できなかった。
例の球体が光り輝いている。結果としてはそれだけだが、僕は祈りに没頭していたためか一瞬この場の場景を忘れていて、だからマナと呼ばれる球体を認識するのに時間を要し、その間に目に映っていたそれについて、月、太陽、そういった何か天体に見えてしまっていた。あまりにも日常からかけ離れた中で僕は思考や時間の感覚が一瞬止まった。僕は広く大きな錯覚の海に溺れていたようだった。
そうして現状と自分の認識が一致した今、僕は悟った。いよいよこのときがきたのだと。
球体はずっと光を発したままだ。一色だけではない。様々な色の光が伸びている。光の脚の長さもまちまちだ。
〈祈りし者たちよ〉
僕は体全体で息をのんだ。海から顔を上げてようやく呼吸をしたかのようだった。くるとわかっていても、実際にきて、体の芯から震える感覚に襲われた。
おりてきた。頭上から、神のものとしか思えない声が――。声、といっていいのだろうか。僕たちが口から発する音声とは響き方がちがう。空から降ってくる優しい恵みの雨のような、全体を包み込むような感じがあって、すっと胸に染み込んできた。「声」以外に表現の仕方がわからないから声とする。
その声を発する本体があるとして、本体の見た目の想像がつかないのはもちろんのこと、種族や性別や年齢なんてまるで見当がつかず、元よりそういった属性のようなものはないんだろうと確信せざるを得ないあらゆる判断基準を超越した風情が、その声だけからも伝わってきた。だから頭上からおりてきたのは神の声である以外に判断のしようがなかった。
「おお。神よ。応答くださり感謝申し上げます」天王が気っ風のいい挨拶をした。
いよいよ神の声であると判明した。ケイも、ユリアも、リャムも、心奪われたように光り輝く球体を見上げている。
〈是を求めしその心を聞かせよ〉
神の二言目。やはり慈雨のごとく心の土壌に染み入るような触りのよさがある。
天王よりも一段高いところにいる神は、もっと威厳に満ちた声をしているかと思っていた。もちろん不可侵の荘重さはあるのだが、それはたとえば王が全身から漂わすような硬質的なものではなく、安らぎに似た性質を含んでおり、気を抜いたら魂が近づいていって神の気配と同化して溶けてしまいそうな、そんな本能的に帰依してしまうようなおもむきさえある。
「ここに辿り着いた者の声を聞きたもう」
天王の合図によって、ケイが一歩前に出た。
ケイはいい顔つきをしている。神の慈雨のような声に触れて緊張は消えてなくなった様子だ。余計な力が抜けてる中でも集中していて、とても頼もしい。
「レイル島のケイです。化体族を代表し、私が化体族の意思をここに告げます」
僕はレイル島の景色と、あの島に住む皆のことを思い浮かべた。
「今より百年前に、エデンレイル領のダイモン、そして一人の天人族が、自然の理に反するおこないをいたしました。天罰が下され、エデンレイル領の民は化体族として新たな歴史を刻むこととなりました。私たちは化体族としての誇りを培う一方、本来の種である人間としての精神もまた忘れることはなく、その自我意識は脈々と現在まで受け継がれてきました」
そのとおりだ。化体族。人間。どちらの精神も僕たちの中にある。
「化体族は百年のあいだ心から懺悔をしてまいりました。この足跡を認めてくださるのであれば、どうか、私たち化体族の切なる願いをお聞き入れください。私たち化体族は、罪の赦免及び人間への回帰を望みます」
ケイはいいきった。百年のあいだ、化体族がこのときを待ち望んでいた。
今生きている化体族、もう亡くなっている化体族。正確な数などわからないが、とにかくたくさんの化体族がこの日を夢見ていた。自分たちがここまで辿り着いたのも、そういった無数の化体族の強い思いがあってこそだ。
自分たちがやれるだけのことはやった。あとは神の答えをもらうのみ。




