50-3:天王の茶
「神に会わせていただけるのですか」僕の声にわずかに驚きと興奮の色が出た。
天王は答えるより先に鈴を鳴らした。茶を用意しようといっていた。鈴はだれかに茶の用意を命ずる合図なんだと思った。
天王は黒い手袋をはめた指を一本立てた。「神は一段階高いところにいる」
僕たちは上を見上げた。
「その高さではない」天王はきっぱりといった。
僕は視点を変える。「住む世界がちがうということですか」
「そのような捉え方でよい。だから神に会うというのは実際にはできん」
「話がちがうわ!」
「しかしながら、神と交信はできる」天王は怒るユリアを制した。
「神の分身やそのような何かと会話ができるということですか。さっきの地王のように」ケイが尋ねた。
「そのような捉え方でよい。神との対話に使われる部屋がある。のちほど案内しよう」
広い室内が一瞬しんと静まった。
「神との対話を認めてもらうには、もっと何か課題のようなものをこなさなければならないと思っていました」僕は静かになった理由を含ませていった。
「そうよ。試練があるって聞いてたわ」
「しょせんは下界の住人らの妄想じゃ。下界は苦労多き物語を好むからのう」リャムはあたかも自分が下界の住人ではないかのようにいった。
「試練か」天王はつぶやいた。
いや、つぶやいたといっても相対的にそう見えただけであって声自体ははっきり大きくてよく通る。天王のふとした所作もそうなのだが、繊細さというものがない。粗野なのではない。豪胆なのだ。ヒトのように二本足で立って言葉を自由に操ってはいるが、全体から伝わってくる雰囲気は、あえてヒトか野獣かで分けるなら、ヒトよりも豪胆な野獣の雰囲気のほうが強い。と僕は感じる。
「お前さんたちにとっての試練はさておき。神族が本質を見抜けないでどうする。つまらぬ詮索をせずとも本性など見えるのだ」
納得する。天王はすべてを見通せるような眼の力がある。
「うらの過去も丸裸にされてるかもしれんね。恥ずかしいけえ」
「あんたはどれだけ悪行を仕出かしてきたのよ」ユリアがリャムに遠慮ない指摘を入れた。
銀の瓶とカップが台に乗って運ばれてきた。
「この宮殿でしか飲めん自慢の茶だ。一息入れるがいい」
召使いらしき人がカップに液体を注いでくれた。僕は茶の類いはあまり得意ではない。でも遠征中に何度か口にする機会はあったし、飲めないことはない。
ケイがまずカップを手に取った。「あれ? この香り、どこかで」
「なんじゃケイ、天王の茶に覚えがあるなぞ知ったかぶりを――」次にカップを取ったリャムが言葉を切った。「兄貴待った!」
僕はカップに伸ばしていた手を止めた。ふわりと温気を帯びた香りが鼻に届いた。――血が引くような感覚に襲われた。上半身は力が抜ける感じがしながらも足は動いていた。僕はその場から走り去っていた。
「あっ、そうだこれ! ハヤテ!」
「お兄ちゃん、どうしたの!?」
十分に離れた場所で立ち止まった。口にあてていた手を下ろす。
「前にもハヤテは同じ香りで具合を悪くしたことがあって……」
「知らないわ! いつ!?」
「ハーメット領の街を見て回ってたとき。ユリアがいなかったときだ」
「別世界通りっちゅう場所を歩いてたんじゃ。占いやら変な術やらの店が並んどる通りじゃ。こういった店では天目香っちゅう香を使うことがよくあって、うらたちが通ってるときも道までにおいが漏れとった。太陽兄貴はそれを吸ったとたんに今の兄貴みたいな状態に陥ってたけえ」
僕は仲間たちの会話を背にして呼吸を整える。そう。あの日あのときカレが味わったのと同じだ。
心臓がどくどくと早鐘を打っている。急に駆けだしたせいだろうか。胸ばかりか頭までもどくどくいっている。
「甘くてすんと剥く香り……。まちがいない。においの強さにはちがいはあるけど、おれたちが通りで嗅いだのと特徴が一緒だ」
「この茶は、元々はこの宮殿にのみ生息していた植物から作られている」
天王が説明してくれている。だが、そちらのほうはまだ振り向けない。
「数百年前、あわて者の神族が植物の種を落としてしまった。その種は地上に落ち、それから各地へ広まったのだ」
「その広がった植物から天目香が作られたにちがいないけえ。なんせ天目香は人を惑わす効果があるとされる不思議な香だからの」
「この飲み物にも人を惑わす効果があるってわけ!?」
「いや、天目香はあくまで雰囲気を高めるためのものであって、本当に人を惑わすかは眉唾っちゅうところじゃ。もし明らかな効果があるなら表向きには使用禁止になってるはずだしの」
「ハヤテは単純にこの香りがだめなんだと思う。紅茶なんかは元々苦手だし」
僕は深呼吸をした。深く息を吸えるようになったのは回復へのよい兆候だ。
小走りの足音が近づいてきた。ユリアだった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
ユリアが背中をさすってくれた。いつもは僕がユリアの面倒を見ている側なのに。なんだか変な感じだ。ふっと僕の口元がゆるんだ。
召使いらしき人が水を持ってきてくれた。僕はすぐに飲み干した。水を飲んだら頭がすっきりした。
「もう大丈夫。ありがとう、ユリア」
天王の御前に戻った。カップに入った茶は片付けられた。
「すみません。せっかく出していただいたのに」僕は天王に詫びた。
「なに。こういった嗜好品は好き好きだ」
仲間たちがまだ心配そうに僕を見ていた。僕はもうすっかりよくなったと告げた。本当に、気持ち悪く感じていたのが通常どおりの体調にまで回復した。水を飲んだのが効いたのかもしれない。
天王の宮殿の中にある水。そういえばどこから汲んできているのか。
茶の原料になる植物もよく考えれば謎だ。雲よりも高いこの場所で、どのように育てているのか。
仕組みというのか定義というのか、存在しているもののあり方が下界とはちがうような、そんな不思議さに包まれている。
目の前に立っている天王についてもおおよそ下界の者が定義できる存在ではないのだろう。すべてを見通せそうな鋭い眼光。その眼は敵だとか味方だとかを思わせない。そこにはただ畏怖がある。警戒というのではないが、決して油断してはならない。そんな、ある意味での動物的な感覚を呼び起こさせる。




