49-3:鳥人族との別れ
シトヘウムスさんは遠くを見つめた。「私は若かりし頃に地図の外へ飛び出してみたことがある。本当の世界を求めて、などと大層な考えは持っていなかったが、単純に興味があって、いけるところまでいくことにした」
「へえ」意外だ、という感情を乗せて僕は相槌を打った。
「いうまでもないが、我々はずっと飛びつづけはできない。休憩も睡眠も当然に必要だ。しかし地図の先はどこもかしこも大海原。体を休める場所がないのだ。海の上で力尽きたくなければ、途中で引き返すしか手立てはない。結局私は何も得ぬまま戻ってきた」
「なるほど……。空を飛べる能力があっても、要所要所に足を落ち着ける場所がなければ」
「先には進めぬということだ」シトヘウムスさんは僕の語を継いだ。「鳥人族は本物の鳥のように、水に浮けはしないのだからな」
僕は少し上を向いた。本物の鳥を探そうとしたけど、ここらにはいなかった。
「あるいは都度進路を変え、何百、何千、幾度となく挑戦すれば、休憩地点となる小さな島の一つも見つけることもあるやもしれぬ。だが、次の休憩地点はあるのか、運よく食料は入手できるのか等、世界を知るには課題が多い。どのみち、私はもはや自由に旅に興じれる身ではない」
笑い声が聞こえてきた。ユリアとケイが岩に腰掛けて水筒の水を飲んでいる。リャムはチコリナットと木の棒を振り回して遊んでいる。
「チコリナットは、地図の外へ出かけたことはあるのでしょうか」
「こういった扱いに注意を要する情報は、ごく一部の識者で統制されている。ばか正直で向こう見ずな者には情報は渡らない」
チコリナットは知らないようだ。まあ、知っていたら、黙っていられずに僕たちにすでに話していたかもしれない。
「僕も向こう見ずなところはあります」
僕というよりカレのほうが、その傾向はある。
「そんな僕に、どうして貴重な情報を教えてくれたのですか」
すっきりとした風が横から吹いた。
「お前が今、私を訪ねているからだ」
ん、と僕は喉の奥で疑問の声を出した。
「お前が今この瞬間にこの場にいなければ、私からお前にこの話が渡ることはなかった」
一回り二回り外側にある理由を話された感じがした。
「お前の妹が今の情報を耳にすれば、興奮して騒ぐだろう」
ユリアはリャムから木の棒を奪い取って空をぶんぶんと斬っている。僕の視線には気づかない。
「はい。まちがいなく大興奮です」
「騒げばおのずとチコリナットにも筒抜けとなる。チコリナットは今すぐにでも新たな世界を探しに飛び出すかもしれん」
なるほど。シトヘウムスさんは情報を明かす相手も状況もよく見てるんだ。こうやって一対一で対話する機会がなかったら、本人のいうように僕に情報が伝わることはなかったんだ。おそらくこの先もずっと、僕が知る機会はなかった。
「ともあれ」シトヘウムスさんは踵を回した。「今見えているもの、今当たり前だとされているものがすべてではない。ということだ」
一つに結わえた長い灰色の髪を日に透かして彼はこつこつと歩きだした。
「僕にそれを……伝えたかったのですか」
そんな気がした。
「そう受け止めるならそれでいい。お前の自由だ」
僕は彼の大きな翼に向かって微笑んだ。「知ることができて光栄です。ありがとうございます」
彼の後ろを歩く。鳥人族の翼は美しく、すべてを包み込むような優しさが感じられる。
鳥人族の多くの人は何百年も生きている。彼らからすれば、十七年しか生きていない僕などは、まだまだ知恵も知識も浅い若輩でしかないだろう。現に、僕の視野は狭かった。
レイル島が狭いのは住んでいたときから感じていたことだけど、レイル島の外へ出ればそこには広い世界が広がっていると思っていた。でも僕が認識していた世界は、まだまだ狭かったんだ。
世界はもっともっと大きい。まだ見ぬ広大な世界が存在する。こんなにもわくわくすることはない。僕は、ハヤテという男は、理屈じゃなく本能の一部として旅が好きなんじゃないかと思う。
休憩を終えて再び空へ舞い上がった。道となるものなど何もない、果てしない空間を突き進む。
景色が移ろいゆく。藁の家の集落。乾いた荒原。砂地の中にぽつんと緑の一画があるのは、大海の孤島のようだ。大きな足跡らしきものがびっしりと刻まれている湿地。蜘蛛の巣みたいに複雑に入り組んだ河川。
どんなに腕のいい画家でも描ききれない壮大な風景を悠然と上から見下ろす。これ以上の贅沢はないかもしれない。きっと毎日飛んでいても飽きないだろう。
時間が経つに連れてにぎやかなチコリナット組も静かになった。王の威光は目に見えずとも肌にのしかかってくる。
濃い霧が前方に現れた。一面に広がっているために先がまったく見えない。僕は単なる霧以上の何かを感じた。うまくは表現できないが、たとえば、ただ者ではないと感じさせる人物がいるように、それに似たような水のちがうようなものを、前方の霧は漂わせている。
「いよいよだ」シトヘウムスさんが低い声でいった。
驚きはしない。むしろ、そうだろうという気持ちだ。
「いよいよ……」僕は口を結んだ。
飛行速度を保ったまま霧の中へと突入した。白い水蒸気が僕たちに向かってくるような、それでいて僕たちを避けるように通り過ぎていくような。動いてるのはだれなのかわからなくなる感じはある。
視界が晴れた。
「あ」僕とユリアは声を出した。
近くも遠くもない先にそれはあった。物凄い長さの螺旋の階段だ。地上から天を貫き、グンと高く高くそそり立っている。
水のちがう濃い霧は螺旋階段を遠巻きにしてぐるりと立ち込めている。まるで秘密の基地を囲って隠しているかのようだ。
「あたしたち、どこかに入ったわけ?」ユリアがシトヘウムスさんに尋ねた。
「王の庭にでも入ったと思えばいい」
「ここは、この世なのよね?」
「当然だ」
どんどん螺旋階段に近づいていく。螺旋階段の材質は硬くて上品な光沢があり、高貴な宝石をも連想させる。一本の太い柱に巻きつくようにして何段も何段もつづいている階段は、一体どのようにして作られたのだろうか。
「このてっぺんに、天王がいるのね」
天王はこの世の最も高い場所にいるとされている。まだてっぺんは見えていない。予想していた以上の高さだ。
「二人とも。私にしっかりつかまっていろ」シトヘウムスさんにぐいと腕を引っ張られ、そして強く抱き寄せられた。
僕はハッとした。
ユリアと僕を抱き込んでシトヘウムスさんは進む方向を変えた。垂直に上昇する。圧がかかる。僕は目を閉じた。
なんだか一瞬、すごく懐かしいような感覚が僕の全身を駆け巡った。まるで、小さい自分が柔かな布にでも包まれているような、そんな安らぎが得られた気がした。シトヘウムスさんの胸に強く抱かれて赤ん坊の気分になったんだろうか。だとしたら、いい歳をしてちょっと恥ずかしい。
上昇はつづく。長いという感想を三度ほど頭の中でつぶやいたところでようやく上昇は終わった。全身がふわりと浮いてから足の裏に物体がくっつく感触を得た。そこにはたしかに足場となる床があった。床は大きく円形に広がっている。
「ここが天王の宮殿の台座だ」
台座というだけあって非常に頑丈な足場だ。少し先に数十段の階段があり、のぼったところに大きな建物が待ちかまえている。建物は上側の一部しか見えていない。それでも隠しようのない荘厳さが感じられる。
「あの建物が、天王の宮殿なのですね」
「そうだ」
この台座の下には雲が何層にも浮遊している。陸は見えない。自分たちがどのくらいの高さにいるのか検討がつかない。
もう一組も到着した。
「さあ。着いたぞ」チコリナットは床に足を着けた。
チコリナットにしがみついていた二人も足の裏をしっかりと床の上に置いた。
「はーーーっ。胃を吐き出しそうだったけえ」リャムは胸を押さえて一気に息を吐いた。
「おれは耳が詰まってるよ」ケイが片耳を手に叩きつける。
「あんたたち、それより見てよ、ほら」ユリアが宮殿を指し示した。「天王の宮殿よ」
ケイとリャムは息をのんだ。
僕も改めて宮殿に注目した。かの建物もまた高貴な宝石のような材質でできている。やや象牙色に近い白色の外壁で、上品な艶を帯びていて、洗練された美しさがある外装だ。地上から伸びる長い長い螺旋階段の上にあって、このような立派な建物を築けるなんて。まったく揺るがない盤石の台座といい、人知の及ばぬ建築技術だ。
「なんだか、夢を見ているみたいだ」僕は俗離れした場所に立っていることについてそう表現した。
「そうだな」ケイが同意してくれた。
「――おいらたちは、ここで」
僕たち四人は後ろを振り向いた。
「この後のことはどうなるかわからない。ひとまずお別れをいっておく。お前たちの成功を祈ってるぜ」チコリナットが笑顔で拳を握りしめた。「さ、シトヘウムス。お前も何かいえよ」
泰然と立っていたシトヘウムスさんは静やかにいった。「機会があれば、また会えるだろう」
シトヘウムスさんと目が合った。僕は無言でうなずいた。
「おいらはまた会えると信じてるよ。お前ら、がんばってこいよ」
僕たち四人はお礼を告げた。
鳥人族の二人は床を踏みきって空へと飛び込んだ。滑らかに急降下していく。
「いい人たちだったよな」ケイは彼らを見送りながらいった。「おれ、最初はシトヘウムスさんのこと、怖くてとっつきにくい人だと思ってたんだ。そんなことはなかったよ。厳しさはあるけど優しい人だよな」
「そうだね。とても大人なんだと思う」
「ああ。そうだ。大人だな。そこいくとチコリナットは子供だよな」
「ガキよね」
「チコ坊はそこが愛らしいんじゃ」
僕たちの中でだれからともなく笑いが漏れた。彼らの姿はもう見えない。
「いくか」ケイが背筋を伸ばしていった。
「うん」僕はうなずいた。
天王に認められれば、僕たち化体族の積年の願いを神に伝えることができる。天王そして神に会いに、いざ宮殿の中へ。




