48-3:太陽ハヤテの心(3)
「ほれみい、うらのいったとおりじゃ。やっぱり兄貴はここにおった」
「お、姫もいる。全員集合だな」
騒がしい二人がやってきた。
姫はあいつらと入れ替わるようにして立ち去った。
「あれ? どうしたんだ」
「なんじゃ、ケイ。まだ馬姫様に避けられとるんかえ」
「いや。さっきまで隣の席でわいわいやってた。解決したんだけどな……。リャム。お前がきたから逃げたんじゃないのか」
俺は口を開く。「逃げたとすれば、俺からだ」
「――え?」あいつらは声をそろえた。
意外か。無理もない。自分でいってて耳慣れない状況だ。
「いたたまれなくなったんだろう」俺はいった。
また虫の鳴き声が目立つほどに静まった。ケイが姫を追おうと体の向きを変えたが、リャムがその肩をつかんだ。
「うらがいくけえ」
「お前が?」ケイが訝る。「姫に蹴り飛ばされるんじゃないのか」
「それくらいの相手がちょうどいいときもあるけえ」
ケイが「あ」と声を出した。
「それに。兄貴との二人きりの時間を譲ったんじゃ。ありがたく受け取らんかい」リャムは瓶らしき物を持っている右手を上げた。「兄貴。鳥人族のおえらいさんから上等品のワインをもらいました。後で小屋で飲みましょう」
「ああ」俺は返事をした。
リャムは黒いマントをひるがえし、姫がいなくなった方向へと消えていった。
「リャムには負けるよ」ケイが笑みを浮かべた。
「煮ても焼いても食えない野郎だからな」
どちらが先というのでもなく俺たちは池のほとりに座った。姫とリャムの気配はもうない。
「なあ、ハヤテ。――遠征を終えたら、一緒に旅に出ないか」
姫と俺のあいだで何があったのかは訊かないんだな。ケイはそういう野郎だ。
「どこへだ」
「好きな場所へ、どこへでも。世界中」
声が弾んでやがる。
「旅はすごく大変なこともあるけれど、喜びも楽しみも大きい。学びもたくさんある。世の中まだまだ知らないことだらけだって、つくづくこの遠征を通して実感した。おれはもっといろんなことを知りたい。いろんなものを見たい。遠征に出てなかったら出会えなかった人やあらゆる物のことを考えたら、住み慣れた場所で無難にやってるのは、もったいないことだって思うんだ」
「本ばっかり読んでたお前が大した変化じゃねえか」
「いうほど本ばっかり読んでたわけじゃないけどな。ちゃんと剣術の練習もしてたし」ケイは見えない剣を振り回した。
別に太陽ハヤテだけに誘ってるわけじゃねえだろうが、一応いっておく。
「遠征が終われば、俺かヤツ、どちらかが消えているはずだ。わかってるだろうが」
「わかってる。でもそれは関係ない。おれは、ハヤテという男と旅ができればそれでいいんだ」
「俺にしてもヤツにしても、レイル島を離れて旅に出るには出る」
それは昔から決まっていたことだ。理屈ではなく、本能が旅をしたがっている。
「なら一緒に旅しようぜ」
「気が向けばな」
よし、とケイは喜んだ。気が向けばといったはずだが。
「おれたちが旅に出るってなったら、絶対ユリアもついてくるだろうな。そんで、ハーメット領にリャムに会いにいって、エデンを探しに出かけるんだ。なんだ、この遠征と変わんないな」
「勝手に計画を作んな」
「単なる希望だよ」ケイは人差し指を立てた。その指はにわかに折り畳まれた。「希望、な。難しいかもしれないけど、ダランギールさんにも、いつかまた会えたら、いいな」
奇妙な犬を連れた小柄な男が浮かんだ。
「妖精族の。大公の兄か」
「おれの命の恩人だ。自分自身が苦しんでまで、なんの関係もないこの体を治してくれた。あんな人もいるんだなって思ったよ」
「風変わりではあったな」
「見返りを求めずに、自らを犠牲にして他人を救ってくれるなんて。それってほとんど、神みたいなもんだ」
俺は空を見上げた。一瞬、星が輝いた気がした。
「明日、さ」
視線を地上へ戻した。ケイの横顔に緊張の色が差して見える。
「明日、すべてが調子よくいって、明日中に神に会えて、神からゆるしを得て、人間に戻れて、そんでハヤテの本体が……月ハヤテだったとしたら、もう太陽ハヤテとは会えなくなるかもしれないんだよな。もしかしたらお前が表に出るのは、これで最後かも、ってことだ」
その可能性はある。
「遠慮なくいうじゃねえか」
ケイは肩の力を崩すようにして笑った。「安心しろよ。どっちのハヤテでも受け入れてやるから。ていうかハヤテはハヤテだ」
淡い花の香りが脳裏をかすめた。前にも同じ台詞を聞いた。
――ハヤテはハヤテよ――
ノエルもいっていた。あれは、ノエルが亡くなる直前の夜だった。一ヶ月以内に人間になってセスヴィナ領に戻ってくると、その際には俺かヤツどっちが会いにくるかはわからないと、俺は伝えた。それを受けてのノエルの言葉だった。
結局、ノエルは答えを見る前に姿を消した。だれの前からも、永遠に。
「なんかいえよ」ケイが肘で小突いてきた。
こいつにはまだ照れが残る台詞だったようだ。まあよくも俺にいおうとするもんだ。
太陽の日も、月の日も、変わらずに接してくる。一人の男としてヤツと俺を同じように受け入れる。それができる奴が、この世の中にどれだけいるってんだ。
ケイ。お前がどんなに俺の支えになってるか、お前は知らないだろうな。
「って、ハヤテにとっちゃ、なんともいいがたいことだよな。きっと、おれなんかには想像しきれない複雑さがあるんだよな」
最後かもしれねえから情味のある言葉の一つでもかけようかと思ったが。早々と撤収しやがったな。まあいい。こんなときに和やかな雰囲気にするのは月の日のヤツの役目だ。俺が表に出ているときには、そんな雰囲気は作らない。
「おれもハヤテの立場だったら、きっと同じように本当の自分を知りたいって思うはずだ。――ハヤテが人間になりたいって望む最大の動機はそこだろ? 本当の自分を知りたいっていう」
「まあな」
「うん」ケイは背中を丸めた。「おれさ、昔はまわりのみんなほど、人間に戻りたい気持ちはなかったんだ」
「それはわかっていた。変化があったのは、二、三年ぐらい前か」
今では決意は固いように見える。といい添えようとしたところ、ケイが会話の内容にそぐわず陽気に笑い始めた。
「なんだ」
「いや、何もかもお前には見透かされてたんだなって」
何もかもではないが。
「もうバレてることだし白状するよ。ユリアを意識しだしたのがちょうどその頃だったんだ。男としてあいつと向き合いたいって思った。その思いが、人間になりたいと願う最大の動機になったんだ」
なるほどな。二、三年前はそういう時期だったか。
「おもしろいことに、ユリアに初めて心引かれたきっかけってのがさ……。やっぱりいいや。気色悪いっていわれそうだ」
「気色わりい話なのか」
「ユリアが、なんていうか、眩しく見えた。きっと自分が理想としている姿と、重なったんだ」
「結局いってんじゃねえか」
間延びした男の叫び声が響いた。そっぽの草地をどたばたとリャムが走っている。怒った様子の姫が追い回す。
「あちゃー。やっぱりああなったか」
ケイが立ち上がって姫たちのほうへ駆けていくのを見て、俺は胸の奥がふわりと浮き立つ感覚を覚えた。
ケイは成長した。一皮むけた。好きな女を守るために身命を賭して龍獣と戦い、そして打ち勝った。あいつ自身は気づいているだろうか。今、しなやかな自信があいつを包んでいることを。
遠征に出る前、あいつには気持ちの気が足りないと苦言を呈した。本気、気合い、勇気などの気。今日の午後とてまだ修行が足りないとふざけ半分で揶揄はしたものの、もう気が足りないという印象はない。この遠征を通してあいつはちゃっかりと身に着けやがった。
俺はどうだったか。この遠征で何かを得たか。むしろ喪失感に蝕まれてはいないか。高くそびえる完全なる塔から、金属の薄膜がぽろぽろと剥がれ落ちていくような、そんな感覚がしてはいないか。
何かを得るには何かを失う――という見方からすれば、それでも俺は何かを得てはいるのだろうか。
太陽か月かわからない丸くおぼろげな物が、俺の中心で色を持たずに照っている。
新年のめでたい夜。俺にとって最後かもしれない夜。いつかくるこの夜を、俺は何度も頭の中で思い描いていた。神がいる場所を頂上として、頂上を目前にひかえたところに立っているのは想像どおり。しかし、俺が今夜考えている内容や感情にまで想像が及んだことは、一度もなかった。
どたばたが収まった。ケイとリャムが笑い声を上げ、姫が威勢のいい息を吐いた。
頂上からは何が見えるのか。俺は何を失い、何を得るのか。「知らない」という幸せが背後に浮雲のごとく浮いている中、それでも俺は「知る」ために頂上へ赴かずにはいられない。




