48-2:太陽ハヤテの心(2)
ある日あいつは春画を俺のところに持ってきた。試されているのはすぐにわかった。嫌悪を感じたら感じたで正直に反応するつもりでいたら、女の裸の絵を見て不快感が生じないどころか興味をそそられている自分がいて、そんな自分に気持ちが高ぶった。ケイは俺が女の裸に興奮していると思ったようだった。まちがってはいない。ただし、その対象は絵のみ。ほかの同年代の野郎どものように生身の女の裸に興味が向くことはなかった。結局自分でも何がよくて何が嫌なのかよくわからないまま十七の歳になり、遠征を迎えることとなった。
道中ノエルと出会い、俺は女嫌いではないと確信できた。生身の女に興味を持った。思い返してみれば、ミュズチャ領の領長の孫娘に迫られたとき、ヤツは迷惑はすれども気持ち悪さは感じていなかった。もしミミやレイル島の女に迫られたら逆だろう。迷惑かどうかなど頭で考える前に、体が必死に拒否をするだろう。
おい。眠ってる月の日のハヤテ。
そうだろ。俺とお前は性的なものは完全に一致しているからわかるんだ。生理的に受けつけないだろ――レイル島の女は。化体族の女は。
もう気づいている。この遠征で気づかされた。ハヤテという男は化体族すなわち半人種でありながら人間の女にしか魅かれないとな。
こんなことはケイにもリャムにも話せねえ。こんな、レイル島民ばかりでなく、多くの人間が最も恐れている、洒落にならねえ嗜好のことをよ。
百年前、人間でありながら天人族相手に一線を越えてしまったエデンレイル領の男、ダイモン。そいつと同じ癖が潜在しているのかと思うと、自分の血が泥水にでもなったかのような幻覚が湧き起こり、生気が削がれ、そうして防御が弱まったところを狙い撃ちせんとばかりに悲観的な発想が雪崩込んでくる。
俺は第二のダイモンになり得る資質を有していたから、ほかの化体族とはちがう特徴を持って生まれたんじゃねえのか。この唯一無二の性質は俺一人だけ罰を受けている状態なんじゃねえのか。ダイモンの魂が「ハヤテ」に宿り、罪を贖うためにハヤテはこうやって遠征に駆り出されているんじゃねえのか。一番恐ろしいのは、太陽の日のハヤテか月の日のハヤテ、つまり俺かヤツ、どちらかがダイモンの魂なんじゃないのかということだ。
ダイモンがゆるされぬ感情を抱いた相手は天人族の女。奇しくもノエルの先祖は、元天人族。
ノエルの死後、先へ進むことを躊躇したのは、ぼんやりと見え隠れする疑惑が鮮明に色づくのを避ける目的もあったのかもしれない。神と対面すれば、すべてを見透かされるのはいうまでもなく、自分自身もすべてが見えてしまう気がする。真の自分を知ることそして知られることはなかなかに勇気がいる。もし自己評価未満の存在だったらと想像すると、いっそ知らずにいるほうが安全な道なのではと思えてきて、先にあるのは一本道だけにもかかわらず俺もそんなまやかしの横道を探しそうになるときもある。
けれど――。
――おれは本当にお前をすごい奴だと思ってる。かっこいい奴だと思ってる――
ケイ。てめえがいつも俺を持ち上げるから、俺は性懲りもなく自信がみなぎってくるんじゃねえか。俺は大丈夫だと、俺は特別な男だと確信する糧を得てしまう。
妹もリャムも同罪だ。俺を慕って俺についてくるから、俺は前に進むしかなくなるんじゃねえか。
――お前に不満があるとすれば、お前がかっこよすぎるってことだよ――
まるで英雄のようにおだて上げやがって。仕方ねえから、俺は最後までかっこよくてすごい奴でいてやるよ。勇猛果敢に進んでやるよ。
どうせ俺には一本道しかないんだしな。
神までの一本道。「ハヤテ」という男を知るため。本当の自分を知ることでしか、ハヤテという男は本当の道の先が見えない。
おい。月の日のハヤテ。俺はいつまでもてめえと共存するつもりはねえからな。まあ、いわなくてもわかってることだ。俺の心の声はてめえには筒抜けなんだからな。逆もまたしかりだ。てめえの考えてること感じてることなんざだだ漏れだ。まったく。気持ちのわりい境遇この上ねえ。
一頭の馬の影がこの池のほとりに向かって歩いてきた。姫しかいないだろうと推測したとおり、姿を現したのは姫だった。
「姫。どうしたんだ」
軽やかな動作でおれのそばまで寄ってきた。
「飯は済んだのか」
姫はこくりと頭を下げた。
自分のことにかまけて、二日前も今日も姫とはあまり身近に接していなかった。俺は赤褐色の馬体に引っついていた草を取りつつなでた。
俺がこの手で最も触れてきたのは姫だ。姫にとっても一番関わりの深い相手はまちがいなく俺だ。俺と姫のあいだだけの絆が、たしかに存在する。
「腹いっぱい食ったのか」
姫は首をかしげた。そうでもないことを示している。
「食い過ぎない程度にしたのか」
そのとおりだという深いうなずきを見せた。
「うまかったか」
姫はもう一度うなずいた。
「そうか。ならよかった」
昔から当たり前に会話をしてきた。いくら長年一緒にいる仲とはいえ、ここまで直接的なやり取りができるのは、姫が本物の馬ではないからだ。姫がヒトの言葉を理解できるのは、化体族だからこそ。本体がヒトだからこそだ。
これまで姫は姫でしかなかった。だが今は、俺に第三の目でもできたかのように、ヒトとしての妹の姿が重なって見えている。姫と同じ赤毛の、俺のことを「あの人」と呼ぶ、さながら他人のような妹の姿が。
肺腑から、まったくもって説明できない何かがせり上がってきた。
「姫」
語りかけた直後に、これから自分がいおうとしている内容の鋭利さを思い知った。
姫は無邪気に待っている。
「俺は」
俺は言葉を引っ込めない。姫には関係のないことだってのに。なぜいう。
「俺は、ノエルを愛している」
ずっと鳴いていた虫の音が意識へと入ってきた。わびしさが漂っている。そういえばさっきまで喧噪の声や音楽を耳にしていた。一時間も経っていないというのに、すでに懐かしいことのようにさえ思える。今日は新しい年の初めの日だと、わずかなあいだ忘れていた。
姫の目から一滴のしずくがぽつりと落ちた。正視はせずもこの視界に入った。俺は顔を横へ滑らせた。
池の水は静かだ。まるで水面をそよがせている池の主の呼吸が止まったかのように。俺は深くゆっくりと息を吐いた。
俺は残酷だ。無邪気な姫を真正面から傷つけた。
己の残虐性に気づいたのは初めてではない。前からわかってはいたことだ。俺は遠征の途中、エデンレイル領に住んでいたバケモノ――黒蠍と呼ばれていた男――を殺した。冷静に、迷いなく。別に人を殺すことにいい気持ちはしねえが、とにかく俺は取り乱すことなく一人の命を果てしない底へと導いた。
ヤツだったら例の甘い心根が壁となって殺しはできなかった。殺さないのがヤツだ。甘いといえば甘い。それを慈悲だと呼ぶなら慈悲だ。
残酷と、慈悲。まるで闇と光とに分別されているかのようだ。ハヤテという男は突き詰めればわかりやすくできているのかもしれない。闇と光なら、残るのは――。
「ハヤテー」
「兄貴ー」
後ろから俺を呼ぶ声によって思考が遮られた。明かりを持った二人組が近づいてくる。




