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45-2:武勇

 暗紫色の空に雲の影が泳ぐのを眺める。


 深淵なる海の世界にいる感覚がより強くなった。人の声がしない。告白してから、一言も言葉を交わしていない。ユリアは今どんな思いでいるのだろう。どんな顔をしてるんだろう。知りたいけど、やっぱり知らなくていいという思いがすぐに被さる。


 まさか今日、告げることになるなんてな。ユリアに気持ちを伝えるのなんて、人間になってから、一人前の男になってから、つまり、ずっと先のことだと思っていた。大けがをしながらもユリアを助けられたという達成感がおれの気を大きくしたのかもしれないな。こんなずたぼろな状態のくせに、自分の中でやりきった充実感があって、すがすがしい気分になってる。


「うっ!」突如として込み上げるものがあり、おれは咳き込んだ。


「ケイ!」


 吐しゃ物が顔にかかった。右手で拭った。手に濃い色の液体が着いた。吐いたのは血だったんだ。


「ちょっと、大丈夫!?」


 おれの顔をのぞき込むユリア。心配している顔だ。そんな顔をさせるなんて、情けない。


「だいじょ、ぶ」おれの声はしゃがれ、言葉を出しにくい。「血を吐いて、耳、すっきりしたかも」


 実際は、連続的にぐわんと耳の中を圧迫する感じはなくなったけど、耳に水が入ったようなふさがりがひどくなった。もはやユリアの声がかなり遠く聞こえる。


「もうじっとしてらんないわ!」ユリアが、おそらくはかなり声を張り上げていった。「だれかいないか探してくる!」


「待て」


 おれはユリアの手を引いた。立ち上がろうとしていたユリアの勢いが失われた。


「いかないで……くれ」


 探しにいったところでだれもいない。


「そばに、いてくれ」


 弱っているからこそ強気で甘えられる。そういうのって、あるもんだ。


 ユリアは無言で居住まいを直した。


 もう何度目になるかわからない空を見上げる行為。今回はしかし海の中にいる感じは、そう意識しなければ湧かない。おれは今ここにいるんだとはっきりと自覚できるのは、人の温もりに触れているからだ。血のついたこの手を握っていてくれるのがうれしい。


 おれが静かになれれば甘い雰囲気の一つも漂っただろう。しかしおれの息は絶えず荒く、喉が隙間風のように音を立てている。そしてときおり意図せず呻き声が出てしまう。


「お礼を、まだいってなかったわ」


 ユリアに顔を向けた。ユリアは黒い布が巻かれた自分の右腕を見ている。


「あたしのけが。ケイが手当てしてくれたんでしょ。ありがとう」


「うん……」


「あたしを背負って遠くまで歩いてきてくれて、それに、龍獣からも守ってくれて、ありがとう」


 おれは笑おうとしてゴホッと咳が出た。血は出なかったのでよかった。「当然、だろ」


 かっこはつかないけど、かっこつけたっていいよな、今くらい。


 額に手があてられた。温かい。ユリアの手がおれの髪を優しくなでた。ガキの頃に、母さんがこんなふうにしてくれたことがあったな。


 おれは目をつむった。心地いい。体はあえなく苦痛に支配されているけれど、体じゃない部分はとても気持ちがいい。繭の中にいるような、安息の光に包まれている。


 好きな人を守って、好きな人の温かさを感じて、眠る。理想的な死に方があるとすれば、これ以上はないんじゃないかな。…………ああ、ハヤテともっとちゃんとした別れ方さえできてりゃな。


「何か聞こえた」


「え?」おれは目を開けた。


 ユリアの手が固まっている。おれには何も聞こえなかった。というか、おれの今の聴覚の状態では、近くにいるユリアの声を聞き取るだけで精一杯だ。


「ユリア」


「しっ」


 どんな音が聞こえたのか質問する前に遮られた。ユリアは真剣な様子で耳を傾けている。まさか龍獣が戻ってきたなんて、そんな無慈悲な仕打ちはないだろうな。


「あっ!」ユリアが跳ねた。「お兄ちゃん!」


 おれは思わず起き上がりそうに――無理なのだが――なった。


「ケイ! お兄ちゃんの声だわ! はちまき男もいるわ!」


 ユリアはおれから手を離して立ち上がった。おれは突然の朗報に驚いてしまって声が出せない。


「お兄ちゃーーーん!!」ユリアが大声で叫ぶ。


 ハヤテ。リャム。本当に? おれたちを、探し出してくれたのか。


「ここよ! ここにいるわ!」


 期待にすがらないようにしてたけど、まさか、本当に見つけてくれるなんて。


 はあっ、とおれは情けない声を出した。ハヤテが林から抜け出てきた。全身の大部分に影が落ちていたが、すぐにハヤテだとわかった。すごく、すごく、大きく見えた。


「お兄ちゃん!」


 ハヤテとユリアは抱き合った。暗いしそもそもここにその花がないから見えるわけがないんだけれど、シロハゴロモの白い花びらたちが風に乗って舞い上がったような光景が見えた。


「生きててよかったけえね」


 リャム。チコリナットもいる。みんな武器を持って、なんて、頼もしく、心強い。


「待ってろ! 今シトヘウムスたちを呼ぶ!」


 チコリナットは指笛を吹いた。美しくて、よく響く。指笛のお手本かのようだった。


「ケイ」おれのそばでハヤテが膝をついた。「ひどいけがだ」


 ハヤテの声を聞いたとたんに、ずたぼろになりながらも一本張り詰めていた糸が、心の中心でゆるんだ。


 チコリナットが飛んできた。「ケイ、大丈夫か。痛むか?」


 おれはわずかに顎を引いた。「痛い……」


「だよな……。すごく、痛そうだ」


「野生の、龍獣に、襲われっ、ちまってさ」おれは目頭を押さえた。


 なんで、おれ、涙を浮かべてるんだ。情けない。ハヤテは龍獣を手懐けたってのに……おれはこのザマだ。


「撃退したんじゃろ。誇っていいけえ」


 おれはハッとした。おれの脇に立つリャムが持っているその剣は。


「おれの……剣……」


「龍獣は崖から落ちて死んだんじゃ」


 リャムはかがみ、おれの腰元の鞘に剣を差し入れた。おれの剣。レイル島を出発するときに領長から渡された、いわばレイル島の魂ともいえる剣。帰ってきた。もうこの鞘に収まることはないと思っていた。


「龍獣に挑むとは見上げた根性じゃ」リャムがおだてる。


「ケイは強い剣士だ。そしてとても勇敢だ」ハヤテが持ち上げる。


 改めて考えれば、我ながら、すごいことだよな。龍獣の撃退なんて、一生に一度あるかないかの大変な大仕事。おれはそれをやってのけたんだ。武勇伝として胸を張って語れる話だ。


 でも今は己の栄光にひたっているときではない。龍獣よりもある意味警戒すべき存在なのは、あの毒矢を持った迷彩服の奴らだ。矢だけでおれたち全員を一掃できる。ハヤテたちに知らせないと。


 まずはここから話す。「ユリアが……毒矢を……食らっ、た」


「なんだって」ハヤテが声を固くさせた。


「絶対に刺さってなかったってぬけぬけと抜かしてたけえ、あの三つ編み野郎」


 三つ編み野郎。あいつらに出くわしたのか。


「刺さったんじゃなくて、あたしの腕にかすっただけらしかったわ」ユリアが口を開いた。「少しだけ気を失ったけど、あたしはご覧のとおり、全然平気よ」


 おれはできる範囲であたりを見回したが、ユリアは目に入る位置にはいなかった。おれの頭の上のほうに立っているようだ。


「毒矢を持った人間たちはみんなで退治した。東大陸から追っ払った。だから安心してくれ」チコリナットからの報告。


 なんだ、解決していたのか。おれたちを発見するだけでなく、もうそこまで対処済みとは。さすがだな。


 ……もうおれが心配することはないな。安心して、ちょっと、休んでいいかな。寝たい。さすがに、疲れた。

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