45-1:ケイとユリア 【月の日/ケイ(女)】
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紫がかった濃い青色の空を見上げる。今日はこういう空になってくれてよかったと思う。深い海の底に寝転がっている気分になって、多少なりとも生身の世界からそれたところに意識を置けるからだ。
「今何時――かしら」
おれはずっと耳鳴りがしている状態だ。耳の中にぐわんと圧がかかって、ユリアのいってることがところどころ聞こえない。ユリアはすぐ近くに座っているというのに。
龍獣に噛まれ、寂寞とした林の中で仰向けに倒れて立ち上がれずにいる現実は、客観的に見てえらく絶望的だ。ただ、好意を抱いてる人がそばにいるおかげで、なんとか泣き叫ぶことなく自分を保ってられてる。荒い呼吸を静かにさせる余裕はないけどな。
「あたしも――ちゃんみたいにトケイを――だったわ」
お兄ちゃんみたいに時計を持つんだった、といったんだろう。
そのお兄ちゃんのハヤテはいつも懐中時計を持って歩いている。島にいたときからの習慣だ。準備がいいな、あいつは。遠征に出てからは毎日革鎧を装着しているし、備えができている。おれも軽いのでもなんでもいいから防具を身に着けてりゃ、少しはけがの具合がちがったかもしれない。左肩の咬傷は焼けつくように痛む。左腕も違和感があって動かせないし、木の幹にぶつかった背中も痛みがある。打撲、骨折、そういった症状が出てるかもしれない。
さっきの龍獣が戻ってくる気配がないのが、不幸中の幸いだ。もっともユリアは龍獣を怖がってないし、頼もしさを感じるくらいにでんとかまえている。
「ケイ。日を――まで――さいよ。オ――になれば――わ」
「え?」
「日をまたぐまでがんばりなさい! オトコのカラダになれば、ケガやイタミはなくなるわ!」ユリアはゆっくりと大きな声でいい直した。
たしかに男の体になれば、今この女の体で感じている痛みも苦しみも消える。でもそれは一時しのぎに過ぎない。
「明後日になれば、また、この状態に、なるんだな」おれは息荒くいった。
「イシャに連れてくからダイジョウブよ!」
医者。ここ東大陸に医者って、いるんだっけか。
天王の王宮へ向かうのは四日後だ。四日後、その日のうちに神に会えて、人間になる願いが叶ったとして。最短での実現だとしても、明後日と四日後はこの体で過ごさなければならない。あと二、三日分は持ちこたえなきゃならないんだ。化体が死ねば本体も死ぬのだから。
暗い木々の葉が風で揺れた。
命はつなげたとしても、動きは相当制限される。しばらく安静にしなきゃならないはずだ。
「おれの遠征は、終了だ。せっかく、ここまできたのに、残念だ」おれはユリアの顔を見ないで話す。見ようと思えば見える位置にいるけれど、見ない。
「なにヨワキになってんのよ! ココロが弱くなっちゃオシマイよ!」
「ああ……」
ユリアなりの励ましかな。それにしたって、こちとら弱音の一つや二つは出たって仕方ないほどの重症だってのに、辛辣な言葉を投げつけてくれる。こんなときくらい優しく介抱してくれてもいいのに。……ははっ。こんなことを考えてる時点で。
「そう。おれは、弱っちい、男だ」
「ヒラキナオリは、いただけないわね」
「おれの人生、半分は、女の体だし」
「それがアンタよ。それでいいじゃない」
「男としての……男の魅力、もっと、あればな」そしたら、ユリアはもう少しちがった見方をしてくれただろう。「そしたら、ハヤテの、ように……」
核心に近づいてるのが、よくわかる。
「お兄ちゃんが、何?」
おれは視線を真上に置いたまま、会話を進める。「太陽ハヤテの、ことだよ。お兄ちゃん、じゃなくて、太陽ハヤテのこと」
「……同じことでしょ」
「ちがうよ。お前にとって。兄と、太陽ハヤテは」
「え?」
「ユリア。お前、太陽ハヤテに、恋してるんだろ」
まるで、海の底からさらに奥に沈んでいくかのように、深く静まり返った。予想してたとおり、ユリアがすぐに反応を示すことはなかった。
「おれの、勘だ」
確信といってもいい勘だ。
ユリアを見てきたからこそわかるんだ。ユリアが太陽ハヤテについてめったに語らない不自然さとか。たまに話題になったときには素っ気ないいい方になったり、「あの人」と呼んだりするところとか。嫌いでそうやってるわけじゃなく、ぶきっちょに意識しての結果だというのは、ユリアが馬になったときの態度でわかる。馬の体になり、「姫」になり、人としてのしがらみから解放されると、姫は太陽ハヤテに素直に甘えるし、太陽ハヤテを見つめる目に特別な色が浮かぶときもある。
ノエルが現れてから、より確信に近づいた。明らかに嫉妬していたユリアだったが、嫌な顔こそすれど、半人種と人間の男女なのに仲よくするのはおかしいという最大の非を槍玉に挙げることはなかった。ユリア自身に恋心に関しての後ろめたさがあるから、そこを突けなかったんじゃないのかと思う。
はは。体はなまくらだってのに、頭は妙に冴えてやがる。
ユリアは黙っている。
「責めてるわけじゃ、ないんだぜ」おれはかすれる声でいい添えた。
ぽつりとユリアが何かをつぶやいた。よく聞こえなかった。聞き返す種類のものではない流木のような浮遊感があったので、そのまま流しておいた。
「おれは、知りたいんだ。勘が、当たってるか、確かめたい」
当たっているといってくれても、外れているといってくれても、どちらでもいい。ユリアの口から、太陽ハヤテに対する気持ちをいってもらわないと、気になって気になって、死んでも死にきれない。
会話は途切れた。何分でも待つ。こんな機会はそうないのだから。
「わかんないわ」とうとうユリアが意思を表に出した。
おれは顔面の奥のほうで静かに笑った。
適当に答えたんじゃないのは心に伝わってきた。どう言葉にしたらいいのか、ユリアは本当にわからないんだろう。たしかに難しい問題だ。答えようによっては危険でもある。それでも否定しないのがとてもユリアらしい。保身のために否定することだってできるのに、嘘はつけないんだな。
頭が少しだけすっと楽になった。
「お前にだけ、吐かせちゃ、悪いな。おれも、心の内を、明かすよ」
いわなきゃならない。いわせてもらおう。おれは顔をユリアのほうへ傾けた。ユリアはこっちに背中を向けて座っていた。
「おれは」と切り出した瞬間に、「いいわよ」と遮られた。
「別にいわなくていいわ」
「どうして」
「あんたの――は知ってたわよ」
「何? もっと、大きな声で、はっきりいって」
「あんたのキモチは知ってた!」
はっきり聞こえた。体の感覚が鈍ってるから、どきりともひやりともしなくなっている。
「そう、だったのか」
「あんたは半分オンナだもの。別に恥じ入るヒツヨウはないわ」
……ん? なんか変だぞ。
「待て。お前、なんだと思ってる」
ユリアは背中を丸めた。「好きなんでしょ、お兄ちゃんのこと」
おいおい。お兄ちゃんっていったよな。なんでそうなる。
「おれが、ハヤテを、好きだって?」
「そうでしょ」
「恋愛って、意味で?」
「だからそうでしょって」
「バカだな」
「何よバカって」
「おれは、ユリアが好きだ」




