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43-3:果て

 ウッ、とおれは息を詰まらせながらも、ここで起きている現実を整理する。一に、おれはあっという間に間を詰めた龍獣に左の肩から胸のあたりを噛まれた。二に、噛まれたまま龍獣の勢いに押されておれは木の幹に背中を強打した。


 やられっ放しではない。一と同時におれは龍獣の片目に剣を突き刺していた。二に、剣は龍獣自身の運動速度も加わって深く奥まで食い込んでいった。


 三、今この瞬間、龍獣は噛みちぎるようにしておれからその凶器となる歯牙を離し、そのまま天を仰いで厚い雲の壁に大穴を開けんばかりの凄まじい咆哮をぶち上げた。鼓膜が破れるくらいの大音声と痛みを超えた痛覚を体に受けて、おれは気が遠のきそうになっている。


 龍獣は左目に剣が刺さったまま猛り狂い、林道に躍り出ると、目にも留まらぬ速さで疾走していった。すぐに姿が見えなくなった。


 しん、と何事もなかったような静けさに包まれる。


「やっ……た」


 信じられない。おれ、やったんだ。野獣の帝王を、龍獣を、撃退した。


 本当は喉を狙おうとした。けれど、龍獣は大きく口を開けていて喉が隠れていた。だから、とっさに攻撃の的を目に変更した。もしかしたら剣は脳にまで届いた可能性もある。すまない。こっちも命懸けだったんだ。


 木にあずけたおれの体がずるずると下がっていく。ここからはユリアの顔は見えない。


 勝とうとするから、どう戦えばいいかわからなかったんだ。負けないだけでよかったんだ。刺しちがえたとしても、負けなければ、それでおれのやるべきことは果たせるんだ。


 やるべきことを一つだけに絞れば、集中すれば、本気にだってなるし、気合いも勇気も自然と出るもんだな。やるべきこと。ユリア、お前を守ることだけ――。




 ユリアが港のほうへ走っていく。速くてあっという間に見えなくなった。怒ったようにユリアの名前を呼ぶ声が、港と反対の方向からする。あれは、ユリアの友達の女の子。不愉快そうな表情だ。


 ――どうした。ユリアとけんかしたのか?――


 近づいて尋ねてみた。


 ――恋の話をしてたんです――


 あらまあ。女の子はませてるな。男勝りなユリアもそんな女の子みたいな遊びをするんだな。


 ――こっちは本当に好きな人の名前を教えたってのに、ユリアってば、お兄さんが好きばっかりいってごまかして――


 ――はは。あいつは本当にお兄ちゃんが好きなんだよ――


 ――それは変だっていったんです。あと、ユリアはお兄さんとは結婚できないし、お兄さんはいずれだれかと結婚するって教えてあげました。そうしたら怒ってどこかにいっちゃった――


 なるほどね。現実がわかってくる年頃だからこそ、現実と向き合いたくないんだろうな。今日は同じ女同士だ。励ましてやるか。


 おれは金色に染まる夕空の下、ユリアの後を追った。


 島で一番「外」を感じられる港。一人岸辺にたたずむユリアの後ろ姿がある。物思いにふけったように海を眺めている。


 ――ユリア――


 おれは声をかけた。


 ユリアは振り向いた。振り向きざまに潮の香りをまとう風が吹いた。一つに結わえたユリアの赤い髪が風になびく。


 おれは見惚れてしまった。ユリアの顔は夕日でこがねに照らされて、すごく、神秘的な感じさえする美しさをまとっている。目には力があり、しなやかで精悍にも見えるその凛としたたたずまいは、おれが胸の中でずっと憧れていたような、そんな理想と現実のはざまにある尊い存在の面影が感じられる。


 ん、なんだ? 突然ユリアが訝しげな顔つきになった。口を動かしてる。おれの名前を口にしてる? 声がいやに遠いな。繰り返し呼んでる。目が合ってるんだ。なんでおれの名前をそんなに呼ぶ必要があるんだ?




「ケイ!!」


 まるで薄皮がむけたように聴覚と視覚が鮮明になった。少し大人びたユリアがおれの顔をのぞき込んでいる。あ。この大人びたユリアが今のユリアか。


 そうだ。ここは東大陸のよくわからない場所。ユリアは毒矢を食らって気を失ってた。


「起きたのか……」


 よかった。


「こっちの台詞よ」


 さっきのは夢か。あれは、おれが初めてユリアに対して友達以上の特別な感情を抱いたときの情景だ。こんなときに思い出して、我ながら能天気だな。


「ケイ」ユリアの声が神妙だ。「何があったの。だれがこんなひどい真似を?」


 おれは右手を左肩のほうへ持っていった。けがのあたりに布が覆い被さっている。布は紐らしき物でおれの体に固定されている。


「止血の処置をしたわ。出血が多かったから。一部皮膚がえぐれてる。かなりのけがよ」


 ユリアが上着を脱いで袖なしの肌着姿になっていることに今気づいた。


「ありがとう」思った以上におれの声は力なく出た。「龍獣に、遭遇したんだ」


 ユリアが狼狽をにじませた息を吐いた。いつもなら龍獣がいると聞いたら飛び上がって興奮しそうなものを。ユリアにしては深刻な反応だ。


 まあ、つまりは。おれがかなり深刻な状態なんだな。そうだろうな。起き上がれない。体に力を入れようとすると、主に上半身にぴきっと引き裂かれるような感覚が走って、それ以上の力が出せない。


 あれ? まずいな。けがを意識したら煮えたぎる湯のように痛みがぼこぼこ湧いてきたぞ。なんか……けが以外の部分はさっと血の気が引いたような、それでいて少ししびれるような寒気がするような。おまけにお腹だけが船酔いしたかのように、とにかく気持ち悪い。


「待ってて。水をく――わ」


 ユリアが急いで走り去っていった。最後のほうはよく聞こえなかった。たぶん、水を汲んでくるっていったんだよな。


 なんだか五感が鈍ってるな。意識不明に陥ったし、呼吸が荒いし、こりゃ重症だ。心臓に近い場所を噛みしだかれたんだから無理もないか。そう考えれば生きてただけ幸いだ。今は、化体族ならではの希望にすがろう。0時になればとりあえず別の体になれるから……あ――。


 おれは空を見て愕然とした。


 空はまだ薄暗い程度。まだ、夜とは呼べない時間帯だ。まだそんな時間帯なのか。さっきの龍獣との戦いから一時間も経ってないんじゃないか? 0時になるまで、日をまたぐまでは、あと五、六時間はあるだろう。


 おれの中で生き残っていた根性の実のような物が、にわかにしぼんだ。あと五、六時間は長い。とてつもなく、長い。この体は、おれは……、()()のか――?

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