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43-1:絶望 【月の日/ケイ(女)】

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 おれの手は小刻みに震えている。茂みから立ち現れた動物界の帝王――あるいは野獣の帝王――は、帝王たらしめるその厳めしい見た目と威圧感でただただ見る者を恐れおののかせる。


 なんで。なんで、人も動物もほとんどいない静かな山地だってのに、よりによってこんな()()が出てくるんだ。心臓がどくどくいってる。


 ぶるぶるっと龍獣が激しく全身を震わせた。おれは心臓を引っ張られたような心地だった。


 体についていた緑の葉っぱを振り払って、龍獣は焦らずゆっくりと前方のおれを見つめ直した。おれと龍獣の間は、馬四頭、五頭分くらいある。対ヒトであれば警戒の糸を張り詰めなくていい距離でも、こと龍獣に関してはこの倍の距離があったとしても安心を得るにはまったくもって足りない。息が詰まりそうになるくらい圧迫感がある。


 ゆがんだ満月に黒点が染みたような龍獣の目は、底の見えない淵を連想させる。


 エデン――だったらどんなによかったか。旅の仲間だったエデンは高貴さが感じられる象牙色の毛並みだったが、今おれが目にしている龍獣はくすんだ土色にこげ茶のぶち模様が入っている。一目でエデンではないとわかった。ほかにもちがいがある。エデンよりもたてがみが多く、面長なのもあってかエデンよりも少し体が大きいように見える。そしてエデンより険のある顔つきで、野性の荒波に揉まれて育ったのかささくれ立った雰囲気がある。


 龍獣がひたと一歩前へ出た。階段を踏み外したときのような一点集中型の焦りがおれの胸に生じた。一歩詰められただけでも圧は大きい。


 昏睡しているユリアの前に立つこの二本の足は、情けなくも崩れ落ちないようにするので精一杯だ。


「くるな……。ユリアには……指一本触れさせない」


 まるで声に力が入ってない。自分の頼りない声で余計に緊張が増す。


 怖い。どうしようもなく怖い。剣を抜きたい。けど、抜いてはいけない。剣を抜いたら、龍獣はおれを敵と見なして牙をむく。圧倒的な力と速さ、武器となる強力な顎や爪も持っている動物だ。ヒトが立ち向かえる相手じゃない。


 さあ、どうする。おれがユリアをかついでこの場から逃げるのは無理だ。背中を見せて走れば、あいつは獣の本能で襲いかかってくるだろう。龍獣の足の速さに敵うわけがない。逃げも戦いもできないなら、望むらくは相手が立ち去ってくれること。なのだが。


 去らない。龍獣はおれを値踏みするように、ゆがんだ満月から発するとても吸引力の強い視線をおれに突きつけている。女の体のおれだ。龍獣からしてみればか弱く小さく見えてることだろう。それはこの場では有利なのか、不利なのか。


 おれはまたもや龍獣の挙措に肝を冷やした。龍獣があくびをするように大きく口を開けたのだ。歯の側面に鋭い牙が計四本。自慢の武器を見せつけてるのか。


 龍獣は口を閉じ、今度はグルルルと低い音を喉から鳴らした。おれの腹の底に響く。なんだよ。何がしたいんだよ。力を誇示したいのか。自分よりひ弱な生き物をからかってんのか。おれからすれば出口の見えない悪夢のような時間だ。


 神様――。百年前の同胞の過ち、心から懺悔します。どうか、どうか、哀れな化体族に救いの手を。


 龍獣が前進するような動きを見せた。


「くるなっ!」とっさに声が出た。


 龍獣はぴたりと止まった。不機嫌そうな皺が龍獣の両目のあいだに刻まれた。


 だめだ。おれも龍獣も神経を尖らせてはだめだ。このままでは不穏な方向へ流れてしまう一方だ。


 とにかく、龍獣は立ち去らないどころかむしろこっちへと距離を詰めているのが現実だ。向こうとしてもおれが敵ではないのかきちんと判断がつくまで退けないんだろう。どうにか事を荒立てずに、おれは敵じゃなければ、相手にするほどの者でもないと、わかってもらわなきゃいけない。大事なのは、刺激しないこと。敵意はないと示すこと。そう、ハヤテがそうやってエデンを手懐けたように。


「そうだ。ハヤテは、手懐けた……」


 エデンは人馴れしているところはあった。それでも、龍獣には変わりはない。エデンだって最初は対峙するハヤテの様子を探るために一触即発的な身構えを見せていた。それでもハヤテと心を通わせ、おれたちの仲間に加わった。おれはエデンに触れることはできなかったけど、一緒に旅する仲間として互いに信頼は寄せていた。このぶち模様の龍獣だって、手懐けるまではいかなくとも、わかってもらえる、はず。


「おれだって。おれだってできる」


 龍獣は片側の牙だけをちらと出して首をひねっている。


 太陽ハヤテからいわれたことがあった。故郷のレイル島を出る前に。お前には気持ちの「気」が足りないって。本気、気合い、勇気、などの「気」が足りないって。


 今が試されるときだ。本気で龍獣と仲よくなりたいと思えば。気合いを入れれば。勇気を振り絞れば。おれだってできないことはないんだ。ハヤテはおれと同じ、いち化体族。おれだってハヤテと同じようにできる――。


「はっ」


 龍獣がこっちに向かって再び進みだした。


「待て」


 待たない。龍獣は一歩また一歩のしのしと歩を踏みしめる。嵐のような風圧を感じる。怖い。無理だ! おれは剣を抜いた。龍獣はぴくっと体を跳ねらせる。馬三頭分くらいにまで縮まったその場で龍獣は頭を少し低くし、ウーと低くうなった。


「は、はは……。抜いたよ……」おれは自分が剣を抜いたことに絶望した。

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