4-1:ユリアの願望
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神ノ峰に向かって「ここに懺悔いたします」と両手を合わせたのち、僕は着替えて部屋から出た。ちょうど父さんも寝室から姿を現したところだった。
「おはよう父さん」
「おはようハヤテ。朝からやってたみたいだな」父さんは居間のほうを指差した。
僕は苦笑いをした。
父さんはぼりぼりと頭をかいた。「ま、終わったみたいだから大丈夫だろう」
今朝は母さんと妹のユリアの大きな声で目が覚めた。二人が口論になるのは珍しくない。どちらも気持ちが強いゆえにぶつかることがままある。「月の日に限っては」という前提で、「ユリアは母親似、ハヤテは父親似」という人もいる。その分類には性格のほか、めいめいの髪の色も影響しているのだろう。母さんとユリアが赤髪で、父さんと僕が黒髪だ。自分の硬くてしっかりした黒髪は気に入っている。なぜなら――ちょっと気になっている部分をしっかりと覆うからだ。僕はそっと耳の上部を触った。
父さんと僕は居間へ移動した。テーブルにはいつもと変わらない様子でユリアが座っていたので、いつもどおりに朝の挨拶を交わした。
台所では母さんが火にかけた鍋を杓子でかき回している。あまり機嫌がよさそうではない。
「母さん、おはよう」
「おはようハヤテ」
「ケイがシチューおいしかったっていってたよ」
「あらそう。それはよかったわ」母さんの表情がいくぶん明るくなった。
父さんと僕は自分の席に着いた。
「いい合ってたみたいだが何があったんだ」父さんがユリアにこっそりと尋ねた。
「ムゲンさんがけがをしたって話を教えてあげてたのよ」
「ああ、その噂は耳にした。今日にもルツァド先生に診てもらうみたいだが心配だな。しかしどうしてそれが原因に?」
「ちょっと冗談をいったの。ムゲンさんは気の毒だけれど、遠征パーティーが一枠空くかもしれないって。あたしの出番かもって。そしたらママが本気にしちゃったのよ」
「冗談でもめったなこというもんじゃないわ」母さんが台所から横槍を入れた。こちらの会話は筒抜けだったようだ。
「さっき聞いたってば! そもそもムゲンさんがいなけりゃ遠征は難しいんだから無事を願ってるに決まってるじゃない」
「ユリア。あなた遠征に関して首を突っ込みすぎなのよ。昨日もおとといもハヤテについていって役所まで押しかけたんですってね。今日はいい加減やめておきなさいよ」
父さんが「まあまあ」と二人のあいだを取り成した。
「あなたからもユリアに何かいってやってちょうだい。いつも『まあまあ』ばかりで叱り役に回らないんだから」
いわれて父さんはコホンと咳払いをした。「あー、ユリア。ほどほどにな」
母さんは不満が残る顔をしていたけれど鍋のほうに体を向き直して朝食の準備を再開した。父さんは台所を背にしているのをいいことに片目をわざと不器用そうに何度も開けたり閉じたりした。それを見たユリアは手で口を押さえて笑いをこらえていた。
父さんはもう一度咳をした。「それにしても、ハヤテ。いい友達を持ったな」
「なんの話?」僕より先にユリアが問いただした。
「ケイだよ。ゆうべ男同士の熱い会話がなされていたんだ。ハヤテが自分一人でも旅に出るって表明したところ、お前がいくんならおれもいく、って宣言してくれてね」
「お兄ちゃんがいくんならあたしもいく!」
鍋と杓子がぶつかり合う音が台所から響いた。僕と父さんは自然と目が合った。
「ばかも休み休みいいなさい」母さんが渋面を作ってユリアに語りかけた。
「ばかじゃないわ。あたしやっぱり遠征にいきたいのよ」
まあ、と母さんが裏返る寸前の声を発した。「遠征はいきたいからっていけるものじゃないのよ。領長が長年熟考した上で、ムゲンとハヤテとケイに白羽の矢が立った。この島の、この一族の未来がかかってるのよ。邪魔をせず三人に運命を託しなさい」
「自分の運命をだれかに託してどうすんの。人まかせにするんじゃなくて自分でなんとかしたいとは思わないわけ」
「そりゃあ力になりたいわ。島のみんながそう思ってる。けれど中途半端な力では足手まといになるだけなの。身の程を知って引くべきところは引くべきなのよ」
「あたしじゃ足手まといになるっていいたいの?」
「領長に選ばれなかったんだからそうでしょうね」
「へえ。いってくれるじゃない」
ユリアが明らかにけんか腰になった。僕はユリアの肩に手を置いた。
「落ち着いてユリア。足手まといなんて思ってないよ。母さんも領長もみんな、ユリアを危険な目に遭わせたくないだけなんだよ」
「そうだぞ。なんたってユリアは女の子なんだからな」
「ケイだって半分女じゃない」
「何度いったらわかるの。あの子の本体は男の子なのよ」
「男の姿で生まれたってだけでしょ。人生の半分は女の姿って点ではあたしと変わらないのに、不公平よ」
「あの子は残りの半分は男の姿で生きている。ムゲンに師事して剣術の腕を磨いて、その実力が領長に買われた。そこがあなたとのちがいよ」
「あー、もういいわ。男か女かなんて面倒くさいわ」
「え?」母さんが眉間に皺を寄せて聞き返した。
「ケイが半分女な時点で何いわれたって説得力がないもの。うやむやにせずにはっきりとした事実について語るべきよ。はっきりとした事実。それは領長に任命されれば遠征にいけるってことよ」
僕たちは口を閉ざした。
「そうでしょ。結局女だからだめなんじゃなくて、遠征で危険な目に遭うような弱い奴がだめなのよね。要は実力があるかないか、領長に選ばれるか選ばれないかよ。領長に選ばれればあたしだって遠征にいける、ていうか選ばれたら島のためにいかなければならないわ。そうでしょ」
ため息をつくだけの母さんに代わって、父さんが「そうだな」と応じた。「あなた」と鋭い声を刺された父さんは背中を丸くしていた。
「そうよねパパ。領長に認めてもらえればいいんだわ。あたしちゃんと領長に掛け合って――」
「いい加減にしなさい!」いつもより低くて圧のある母さんの声が響いた。「あなたが遠征するにふさわしい人物なら元から選ばれてるわ。そうでないなら実力は推して知るべしなのよ。ムゲンが大変かもしれないこの非常時に押し売りされたって迷惑でしかないでしょ。おとなしくしてなさい」
「迷惑ですって?」
「そうよ。領長に迷惑をかけないで」
ユリアはおもむろに立ち上がった。「ママってさ、領長に対して従順っていうか、やけに気を遣うわよね」
「従順っていい方は耳触りがよくないけれど、領長を重んずるのは当然よ。あの方はこの島のことをとても考えてくれているのよ」それに、と母さんはだれかにしゃべる時間が渡るのを阻止するかのように切れ目なくつづけた。「領長もハヤテたちも真剣なの。あなたのお遊びにかまってる暇はないのよ。いい? これは警告よ。頼むからあなたの好奇心だけのお遊びに皆を巻き込まないでちょうだい。わかったわね」
ユリアは数秒のあいだ母さんをねめつけたのち、ふんっと鼻を鳴らして大股で玄関口まで歩いていった。
「どこにいくのユリア」
「リサたちとあ・そ・ん・でくるわ! うちの母親がどれだけ頭が固いかって自慢してあげる!」
「待ちなさい。ご飯は」
玄関の戸が大きな音を立てて閉められた。玄関を見ている母さん、その様子を眺めている父さん、そしてそれらすべてを視界に入れている僕。皆すぐには口を開かなかった。
母さんは深いため息をついた。「まったく……。あの子にはほとほと困ったものだわ……。ハヤテはこんなに優しい息子だっていうのに」その物憂げな目が僕に向けられた。
僕は首を横に振った。「ユリアは優しい女の子だよ」
母さんは感情が込み上げてきたのか、眉や口元をわずかにゆがませ、やがて目頭を押さえた。「ハヤテの素直さに涙が出てくるわ」
涙が出てくるのはユリアに関する話だからだよ、と僕は心の中でつぶやいた。母さんはユリアのことになるとすぐに怒るしすぐに泣く。それだけ愛情が強いからだ。
僕は母さんに怒りの矛先を向けられた記憶がない。太陽の日にはこの身が一人で家族の世話をするから、恩に追随した後ろめたさを持たれているような感じさえする。家族を助けるのは当然のことなんだから気にしなくていいのにと思うけど、逆の立場だったら僕も申しわけなさを感じてしまう気がする。
似たような状況の家庭は島内には少なくない。
島民が心から安らかに暮らせるよう、長きに渡るしがらみから解放されるよう、遠征を――レイル島の願いを叶えるための遠征を――成功させなければならない。それは僕の、使命だ。
朝ご飯を食べて家を出た。
ケイを迎えにいった。昨晩別れ際にいってたとおり、今日はちゃんと服を着て現れた。
今朝の一悶着をケイに話しながら歩いている最中、シロハゴロモ亭付近の道端で葉巻を吸っている男性に出くわした。日に焼けたたくましい体に白い袖なしの上衣。マルコスさんの船の乗組員さんだ。目が合うなり話しかけてきた。
「よう。島の有名人じゃないか。朝っぱらから女を連れて歩いてるとはさすがだな」
ケイが僕の前に躍り出た。「おれの本体は男です」
「そうかそうか。悪かったな」船員さんは笑みを浮かべながら葉巻をくわえた。
ここでさよならしようとすればできる間合いだったけれど、船員さんが僕たちをじっと見つめていたので、くるであろう二の句を静かに待っていた。
顔が見えなくなるほどの濃い煙が吐き出され、船員さんの口の封印も解かれた。「翼竜がけがをしたらしいな。兄ちゃんら見舞いにいくのか?」
「領長に呼ばれているのでまずは役所へ向かいます。その後にムゲンさんの家に寄るつもりです」僕は答えた。
「いよいよってときにえらい目に遭ったな。昨日からなんとなし、島の雰囲気が暗いぜ。――お」船員さんが何かに気づいたように港の方角を見た。
つられて僕たちも振り向いた。港へとつづく道の曲がり角から、すらりとした金色の髪の男性が現れた。彼も船乗りの一員であるのはすぐにわかった。
「どうだった今朝は」たくましい船員さんは声を張って金髪の男性に質問を投げかけた。
「問題ない。機嫌がよかった」
葉巻の煙で喉を痛めたかのようなたくましい船員さんのガラガラ声とは対照的に、金髪の男性は極上の蜂蜜で喉を潤したみたいな濁りのないしなやかな声質をしていた。歩く姿は凛としていて、髪型と身なりが整っていて、洗練された気品が漂っている。
「あいつは毎朝海を眺めに出向くんだが、何してると思う? 海と会話してるんだとよ。一見うさんくせえが案外バカにできなくてな。あいつが海が癇立ってると真剣にいうんで船出をひかえたら、猛烈な時化が発生したときがあってよ。海に出てたら危なかった。今じゃ奴と海とのおしゃべり内容を聞かないとなんとなく落ち着かなくなっちまってよ」
へえ、と僕は息を漏らした。「半人種のように珍しい能力を持った人間もいらっしゃるんですね」
「ははっ。能力っつうか、変わりもんなんだよ」
金髪の男性は僕たちの近くで立ち止まり、丁寧に腰を折り曲げた。僕とケイも深く頭を下げた。
「君たちは、ムゲンと一緒に遠征に出ようとしている仲間だね。えっと、失礼。ハヤテに……」
「ケイです。本体は男です」僕に視線が向けられていたが、ケイ自身が答えた。
金髪の男性はケイに優しく微笑んだ。「私は航海士のクオグリスと申します」
「正式に名乗れよ、一等航海士さんよ」
「代わりに名乗ってくれてありがとう。じゃあ私も君の紹介をしよう。ハヤテ、ケイ。彼は甲板長のワムクンです」
ようやく顔と名前が一致した、と、達成感と呼ぶには大仰だけどその類いの感じが僕の胸に広がった。
彼らの顔は知っていた。同年代であるムゲンさんやシロハゴロモ亭のご主人と親しげに話しているのを何度か目にしたことがある。ムゲンさんから彼らの話がちらっと出るときもあったが、「骨太船員」とか「ハンサム航海士」などと表現するので名前を知る機会があるようでなかった。他方で「クオグリス」と「ワムクン」という名をどこかからたまに耳にすることがあって、それが船員さんを指しているのはわかっていたけれど、はっきりと個人を特定するには至っていなかった。
「このたびは大変な事態が起こってしまったね」クオグリスさんが顔を曇らせていった。
「今その話をしてたんだ。兄ちゃんら、これからムゲンの家にいってくるってよ」
そのとき、シロハゴロモ亭から「朝飯できました」と太い声が上がった。ワムクンさんがシロハゴロモ亭を振り返って「おう」と返事をした。
「午後になったら私たちも慰問に訪れよう」
「ああ。兄ちゃんら、ムゲンによろしく伝えといてくれ」
ワムクンさんが「じゃあな」といい、クオグリスさんが黙礼して二人は去っていった。僕たちはお辞儀をして彼らの背中を少し見送ってから道を進んだ。
ムゲンさんと仲がいいのもわかるね、と、ケイとそんなやり取りをしながら歩を運んだ。
役所に着いた。領長室へ通じる裏口の扉は鍵がかかっていた。
「ムゲンさん家かな」ケイが僕と同じ考えを口にした。
僕とケイは正面玄関に回って、建物の中にいた事務員さんに領長の所在を尋ねた。やはりムゲンさんの自宅にいっているとのことだった。僕たちもすぐに向かうことにした。
ムゲンさんの家は、港と反対方向に二百歩ほど歩いた先にある。ムゲンさんの両親と兄弟は、レイル島の北部の実家に住んでいる。ムゲンさんはここ南部の古家で一人で暮らしている。
人影が見えた。ムゲンさんの家からではなく、その隣にある小屋からだった。領長、マルコスさん、そして島の唯一の獣医師であるルツァド先生が立っている。彼らが囲むその中心に、翼竜が座っている。
「ムゲンさん!」
僕たちは駆け寄っていった。
屋根と柱のみの吹きさらしの小屋の柱に、翼竜は体をあずけて座っている。
間近で翼竜つまりムゲンさんを見て、僕もケイも息をのんだ。胴体には切り傷がぱっくりとつけられ、片方の脚は副木で固定されている。
「ひどい……」僕の肩が落ちた。




