2(石版に刻めば)
*
一番乗りで部室に入ると、何やら生臭い。
鞄を置いて、なんじゃろと、すんすん鼻を動かし、臭いの源を探した。梅雨時なんだからナマモノ放置するなってーの。
文芸部の部室は、普通教室の半分ほどの大きさだ。入って正面に窓があり、右壁側に黒板、手前にいかにも学校備品然としたねずみ色のロッカー、奥にキャスター付きのホワイトボードが斜めに置かれている。左側には、やはり学校備品らしい変な緑色で塗られたスチールラックが本棚として一面を占め、辞書や各種資料本、歴代の会誌が並べられている。部屋の真ん中には、並べてくっつけた二脚の長机と人数分の椅子。四台あるデスクトップパソコンも部の備品で、環境は悪くない。
黒板には表装された「文芸部標語」が掲げられている。書道部の手による美しい逸品だ。
『迷ったら書け。悩んでも書け。行き詰まったら散歩しろ。』
これに「風呂かトイレでウンコしろ」と続くのだが、書道部の一存で削られた。文芸部的には風呂に入って気分転換するか、トイレに篭って唸ってろ、の意味であったが、書道部の回答は「風呂場で用足しせよとの誤解を招きかねない」であり、実情は「ウンコ」の文字を書くことを拒否したに過ぎない。
「注文と違う」東山部長がぶーたれると、「そんな趣味ないですっ」むちゃくちゃ怒られた。
後に部長は、「趣味なのか」と首を捻った。「生理現象だろうに」変なこと云うなぁ。
標語の左右には、また別の紙が貼られている。
右側には、「四〇文字で句点しな」。
この春、入部したてのひかりに、東山部長はものすごく得意げな顔で、「文章とは」と語った。「短く程よく、歯切れよく」これ大事。「四〇文字はその目安」
はぁ、そうですか。
左側は「三点リーダー、ウラケイは二マス」だとか、作文の基本がだらだらと書かれている。「疑問感嘆符号記号類の後ろは一マス空け」まあ分かる。「文頭は一マス下げ」小学校で習うだろうに。「末尾は『了』で完成だ!」知らなかった。「完」じゃないのか。「終」でないのか。勉強になるなぁと思う。他にも、「常用漢字を心がけよ」だとか、「ひらがなはこわくない」、「難読漢字は自己満足」。いやはや、ごもっとも。ところがそのさらに左に、「虎になれ!」ものすごい勢いある文字で書かれた紙が貼り付けられている。矢印まで引っ張られている。
「バターってことですか?」やっぱり入部したてのひかりが訊ねると、今度も東山部長は小鼻を膨らませ、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心だよ」ぬふぬふと笑った。「大虎の戯言さ」
それに異議とばかりに、「違いますっ」西谷先輩が鼻息荒く、「タイガー! タイガー!!」二度、云った。何を隠そう貼ったのは彼女である。「基本は大切ですが、固定観念に縛られてはいけない、もっと自由であれと云う戒めですっ」
ああ、そう。「タイガー?」とひかり。
そうっ。「タイガー!」と西谷先輩。
ともあれ、臭いの元は何処だ何処だと部室の中をうろうろしていたら、「やっほー」西谷先輩が現れて、「臭くね?」
「あたしじゃないですよ」
原因探しにふたりで壁際のスチールラックに並べられた本の抜き差しをしていると、南海先輩がやって来て、「くっさ」分かっていることを口にした。
「あー、それわたしです」
聞いたことのない声がした。見れば部室の片隅に、いつからいたのか、小柄な子供みたいな背丈で痩せぎすの何かがいた。
「河童だ」南海先輩が云った。
「河童です」その何かが云った。
*
登校したら、隣の席のキモイ君が身を乗り出して私物の8インチタブレットをひかりに見せた。「OSのアップデートだけど」
「うん?」一瞬見えたあの壁紙は何だ?
「公式ページにダウングレードの案内出てたよ」
「ほんとに?」素晴らしい。
しかしキモイ君は渋い顔で、「完全に戻ると云う訳でもないみたい」
「どうしろと」
キモイ君は指先でタブレットを繰り、次々とウェブページを表示させた。「システムにゴミが残るみたい」英文のよく分からない構文がずらずら並んでおる。電算語か。
「バージョン、戻せるんでしょ?」
「戻せる、とメーカーは云うけど、絶対じゃない」再びタブレットに触れ、フォーラムの書き込みを「あれ」とか「これ」とか見せてくれる。「アップデータが出ると、世界中に何かと直ぐに試してくれる人がいるからね」
ひかりは苛々し始めた。「で?」
「試してみる価値はある。でも確証はない」
「不良品、売りつけてるのと変らないじゃんっ」製造物責任法の出番だ!
「でも、コンピュータってそう云うものだから」キモイ君は同情的な顔をした。「登場してからこっち、自己責任の精神で作られたカルチャーだから。こうも家電化するとは思わなかった時代の名残と云うか」なんと云うか。「ご愁傷様としか」
「どいひー」ひかりは嘆いた。「結局、あたしはどうしたらいいの?」
キモイ君は肩をすくめる。ひかりは憤慨する。「どうしたってドン詰まりじゃん」
「だからそう云ったでしょ。単純な真理。世界は不可逆なんだ」そして、でも、と続ける。「でも、終えることはできる」
「んんん?」
「パソコンなんざ投げ捨てろってこと。石版に刻めば二千年後でも読まれるんだから。ロゼッタストーンみたいに」
未来って、一周廻って元に戻った世界なのかしらと、ひかりは思う。
*
「河童」南海先輩は感じ入ったように、「河童……!」二度云った。「これだよ、これ!」感涙を滂沱とするように。
揃った部員たちは、どれだどれだと鼻を押さえ、互いに不審と不安顔。東山部長は愉快顔。
南海先輩は文芸作品を書く。難解で話の筋道はあっちこっちに良く飛ぶ。遠く飛ぶ。とにかく飛ぶ。部員同士でも、互いに執筆中の作品について語ることは余りないが、南海先輩は違う。よく喋る。現在取りかかっている作品は、エディプスコンプレックスを下地とした和解がテーマだ、と云った。「長年、仲違いしていた父と子が、母の難病をきっかけに、伝承の河童が持つ万病に効く薬を求め旅に出て、苦難の先にて互いを知る感動の道行物」自分で云っちゃう。
河童は父子の幼少体験の隠喩にして、ふたりの思いを繋ぐ象徴である、と真顔で語った。「僕の母方の地元では、毎年七月の末にかっぱ祭りがあるんだ」キュウリを供えて、出店が並び、夜空に花火が色鮮やかに咲き、「とてもいいところだよ」郷土愛は否定しないが、「みんなでかっぱ祭り行こう」事あるごとに云うものだから、ちょっと鬱陶しい。
「まるで原稿から出てきたみたいだ!」南海先輩は、ほんと鬱陶しい。
「臭い」西谷先輩が切り捨てた。
*
部室のドアがノックされ、「失礼しまーす」返事も待たずにガラッと開かれ、キモイ君が顔を出す。「仲さんいますか? ああ、いた」
北川君が「おっす」と声をかけ、「うっす」とキモイ君が応える。「お邪魔しまっす」
生臭い生き物のいる部室にずかずか入り込み、「パソコン見せてもらっていい?」
はいとも、いいえとも答える間もなく、「これ?」キモイ君はひかりのノートパソコンを手に取った。「動かしてる?」
「スリープ中」
「ふうん」
キモイ君は液晶画面を閉じると、筐体をひっくり返し、底の型番をボールペンで紙に控えた。それ今日の数学のプリントだろ。
「触らないように」と、注意した。「上書きになると復旧できなくなるから」
「電源、切ってたほうがいい?」
「うん。シャットダウンで。ネット接続は無線? 念のためそっちも切っておいて。起動時に探しに行くだろうから。バッテリーの方は放電させることもないから、電源ケーブルは挿したままでいいよ」
用件を済ましたキモイ君は、「お邪魔しましたー」出ていった。
「クラスメイト?」訊ねる西谷先輩に、「いえ、全然」しらないひと。ひかりは首を横に振る。
「いやいやいや」と北川君。「席、隣でしょ」ひどいなぁ、仲さん、ひどいなぁ。
「やめて」
「うーん?」南海先輩が唸った。「河童に気付かなかった?」
ないでしょ。この臭いだし。
「もしかして」北川君は自分の頤を指先で撫でながら、「部外者に、見えない?」
「都合いいな!」東山部長、いい笑顔。