中学編
いたって平凡で、どこにでもいる、ありふれた小学生だった、私こと、藤原千春。
ただ、いたって平凡で、どこにでもいる、ありふれた小学生は、中学生になる前に、少々大きな傷を負い、私は若干の人間不信になっていた。
今思えば、何をそこまで怯える必要があったのだろう。
だが、あれから十余年。それでも未だ、私は誰かにその話をしたことは一度もない。そして、おそらくこれからも、打ち明けることはないだろう。
まあ、それはさておき。
そんな感じで、人間不信というか―具体的に言うと、男性恐怖症というか。
そんなものを患ってしまった私は、それでもいたって平凡で、どこにでもいる、ありふれた中学生になっていった。
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小学校と違い、中学校には部活動というものがある。
もちろん入部しないという選択肢もあったが、自然と私は、卓球部に見学に行き、気がつけば、仲の良い友人と一緒に、卓球部に入部することになった。
この時の私は、ただなんとなく卓球部に入っただけで、先のことなんて何も考えていなかったし、まさかこの選択が、後々の私たちの将来に、大きく関わってくることになろうとは、全くもって知る由もなかったわけだが。
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時間の流れというのは早いもので、あっという間に二つ上の先輩も、一つ上の先輩も卓球部を引退してしまい、その頃には、私は中学二年生になっていた。
そこそこ強かった神井中学校は、それなりの成績を大会で残していた…とはいっても、ほとんどが団体戦で、個人戦での成績は、みなそれ程良くなかった。それはもちろん、私も例外ではない。
そんな中、雪が降り積もる十二月、二度目の新人戦がやってきた。
学年別の大会なので、そこまで絶望的に実力差がつくこともなく、私は一回戦、二回戦と、順調に勝ち上がっていった。どこの学校の誰と戦って、どんな勝ち方をしたのかまでは、さすがに覚えてはいない。
そして、ベスト8をかけ、私は、名前を聞いただけでうんざりするくらい、全員がかなりの実力者である光明中の、倉井さんと戦った。
勝てるわけがないと諦めていた割には、中々負けを認められず、そんな感じで、最終的に私はなんと、光明中の倉井さんに勝利したのだ。それはもう、本当に驚いた。
結局、その次の試合で私は負けてしまったけれど、表彰式では賞状と楯をもらい、これが私の、中学時代最高の成績となった。
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十二月に行われた新人戦では、不愉快極まりない特典が一つあり、それは、ベスト16以上の選手が、二月に行われる強化練習会に参加できるというものだった。
神井中からは私一人だけだったので、人見知りと、人間不信と、男性恐怖症をこじらせていた当時の私には、地獄以外のなにものでもなく。
参加しないという選択肢もないわけではなかったが、せっかくの機会なんだから行ってきなさいという顧問の先生に、逆らえるはずもなくて。
泣く泣く参加を決定し、そうして、来たる二月。
大雪体育館で行われた強化練習会に、私は参加したのだった。
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他校に友人も、知り合いもいなかった私は、ほとんど常に一人だった。この時は本当に、消えてなくなりたいと本気で思った。
お弁当も一人で食べ(他校の人と一緒に食べたような気もするが、記憶が定かではない)、何やら催し事が始まる気配。
なんと、見ず知らずの人間たちと、適当に団体戦を組んで総当たり戦をしようと、講師の方が言い出したのだ。本当に、勘弁してほしかった。
順々に名前が呼ばれていく中、とうとう私の名前も挙がった。そんなに大きい声で呼ばないでほしいと心から思った。
何人で団体戦を組んだのか、あまり記憶が定かではないが―その内の一人には、神井西中の鈴本さんがいて、ほんの少しだけ私は安心したのだった。あ、知っている人がいる、みたいな。
私と鈴本さん、二人で話していると、同じ団体戦のメンバーと思しき男子が二人、こちらに歩み寄ってきた。全力で逃げ出したい気持ちだった。
二人で話してないで、俺たちも混ぜてよ―に類似する何かしらの発言のあと。
「俺、当矢中の――。よろしく!」
自己紹介と一緒に差し出されたその手に、私はひどく狼狽した。
それが彼―河本慎太郎との、出会いだった。
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それから、大会ではちょくちょくその存在を気にするようになった。
半日。たったそれだけの時間を、どうしてそこまで私は忘れられなかったのか―それに関しては、今でも本当に、不思議でならない。
大会で各学校に配られる対戦表でその名前を見つけては、時間が合えば、試合をこっそり見に行ったりもしていた。一歩間違えば―というか、最早それは、ストーカーのそれだったかもしれない。
大会場ですれ違うことも何度かあったが、向こうはもう、私のことは忘れてしまっているようだった。当たり前である。
気がつけば三年生の中体連も終わり、私は卓球部を引退していた。
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思いのほか伸び悩んでいた私の成績では、当初の目標だった西高はほぼ絶望的で、次の目標に、私は彩雲高校を選んだ。当矢から、一番近い高校だったから。
滑稽で、浅はかで、どうしようもない理由だった。
それでも私は、もう一度彼に会いたいと思ったのだろう。
本当に、自分でも意味がわからない。
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結局、第二志望の彩雲高校にも届かず、私は仕方なしに、商業高校への進学を決めた。
滑り止めは鳴誠高校。家から一番近かったのが理由だが、一つ難点があり、鳴誠には卓球部がない。それはつまり、二度と彼に会う機会がなくなるということだ。
高校でも卓球を続ける意思は、自分でも意外なほど強く、そして固かった。その理由が、すべからず彼にあるとは言い難いが、それも理由の一つであったことは事実だった。
塾にも通い、受験勉強も、割と終盤は頑張ったと思う。
そうして私は中学校を卒業し、張り出された受験の結果発表に自分の名前を見つけ、晴れて商業高校に進学、高校デビューとなったわけである。