最終話 白衣に残る君の温もりを
これは、俺が泣かせてしまった……。
自分がそうさせてしまったという自覚はあれど、西山の涙の前に何もできず固まったままの俺。
彼女はポロポロと泣きながら洗い物を続けようとしたが、動揺が隠しきれず彼女の手からビーカーが滑り落ち、シンクの上で砕けた。
「……痛い」
彼女の小さなつぶやきに、怪我でもしたのか咄嗟に西山の手を掴んで確かめる。
「どこか、切ったのか?」
そう聞いても、彼女は俯いたまま顔を横に振ると涙がまた零れた。
「痛い……」
そう繰り返す彼女に対して、とりあえず救急箱を取りに行こうとその場を離れようとした時だった。
後ろからクッと白衣の裾を引っ張られたかと思えば、俺の背中にコツンと彼女のおでこがぶつかる感触がした。
気持ちが高ぶったからか彼女の熱が、白衣越しに伝わってくるような気がした。
「悪かった……」
そんな西山に、謝る事しか出来なかった。たぶん、痛いのは手じゃなくて……。自分から聞き出したくせに彼女を傷つけてしまった。
「なんで……告白したら、ちゃんと諦めようって……。どうして今日、私に話しかけたりなんかしたんですか? 先生……先生、先生」
「俺が、悪かった。ごめんな」
先生と呼ぶ彼女の声が、俺の胸に痛いほど突き刺さった。
どれくらいそうしていたのか、実際は数分の事だったかもしれない。
少し彼女のすすり泣く声が落ち着いた様子になったので振り返ると、涙でベショベショの西山に心が痛むと同時に、こんな顔はもうさせたくないと思った。
自分でも無意識に彼女へ手を伸ばすそうとした瞬間、西山が一歩下がって距離を取る。
「……だめ。何もしないで。何も言わないで」
「……」
「今、先生に少しでも優しくされたら、今触れられたら先生の事諦められなくなっちゃうから……。それでもいいの? 私、一途だから10年は余裕で先生のこと忘れられなくなるけど、本当にいいんですか?」
西山の言いたい事は分かった。
「そう、だな……。今の俺には西山を慰めることは出来ない」
そう言って、彼女へ伸ばした手を下ろした。それを見て何かを堪えるように西山が胸の前で両手をかたく握り顔を伏せる。
「涙は拭ってやれないけど、ハンカチくらいなら貸してもいいと思った」
「え?」
今の俺の立場や西山の年齢や立場を考えると彼女の想いは到底受け入れることはできない。
だけど、白衣に残る西山のおでこの感触が、俺の背中でまだじんじんとしていてひどく熱い。
それはちょっとやそっとでは消えそうにない気がした。もうすでに、自分の中でくすぶる気持ちを無視できる状態ではなくなっていた。
だからちょっと、いやかなりずるい返事かもしれないが、それを西山に伝える。
「俺も……西山の告白を忘れるのに時間がかかりそうだからな」
俺のその言葉に、西山がほんの少し目を見開いた。
「どれくらいですか?」
「まあ……とりあえず、3年?」
「あと1年半の卒業までじゃなくて……?」
「いやいや、せめて西山が成人してからじゃ……。あーっ! と、とにかく、今はこれが俺の精一杯」
がしがしと頭をかきながら、ポケットから取り出したちょっとくしゃったハンカチを差し出す。
「どうする?」
西山の目をジッと見つめそう問うと、指先を小さく震わせながらもそのハンカチに手も伸ばした
「……先生、なんか変な臭がします」
文句を言いながら、受け取ったハンカチで西山が涙を拭く。
「洗って返せよ……」
そう言うと、西山が泣き笑いの笑顔で答えた。
「はい。先生」
Fin.
番外編として、時間がほんのちょっと経った2人のその後を書いています。
感想などいただければ幸いです。