椅子
五年前、私が二十歳になった年の夏。久しぶりに、母方の田舎を訪れた。
幼い頃母に連れられて来ていた時は、“なんて退屈なところなんだろう”と思っていた。延々と広がる田畑、濃い緑に覆われた山々。家の外に出て辺りを見渡せば、そんなものしかない。男の子であれば虫捕りでもしたのだろうが、あいにく私はおままごとが大好きな女の子だった。私は、そんな田舎が好きではなかった。
でも、二十歳にもなるとようやく、田舎の良さがわかるようになってきた。穏やかな風、静かに揺れる草花、鳥の囀り……。それは都会の喧騒を忘れさせてくれる、優しい静寂だった。
一週間の滞在予定でやってきた私は、とにかくボォー、っとしたかった。未来への漠然とした不安や、周りの人間関係の悩みなど、一切を忘れて。そのために、田舎に着くなり私は散歩に出かけた。自然豊かな景色で目を癒しながら、深く呼吸をしながら歩いて、内に溜まった悪いものを全て吐きだしたかったのだ。
たぶん昼過ぎ、二時くらいのことだったと思う(時間を気にするのも嫌で、時計や携帯電話は持ち歩いていなかった)。右手に山の斜面、左手に田畑が広がる――そんな道を歩いていた。すると突然、目の前に“椅子”が現れた。一際太く大きな木が山の斜面から道側にせり出て、大きな影を作っている、その真下だった。木で出来た、背もたれがある普通の椅子だ。長い間ここにあるのか、所々に白いまだら模様が浮かび、また表面はささくれだっている。
(何のために……?)私は疑問に思った。そこは別にバス停でも何でもないし、高齢者ばかり住んでいる小さな村だ。不法投棄とは思えない。不思議に思いながらも、止まることなく通り過ぎた。
その後、そのような椅子が置いてある場所は、無かった。
次の日の早朝。私は起きるなり、散歩に出かけた。昨日歩いた道も、時間帯が違うだけで全く違う表情を見せる。少し湿っぽく、それでいて清々しい空気が、なんとも心地よかった。
歩いていると、昨日椅子を見つけた場所に出た。すると、向こうから一人のお婆さんが杖を突きながら、歩いてきた。
見覚えのある人だった。
会釈をすると、
「あぁ、○○さんのとこの」
そう言って、ニコリと微笑んだ。
五年前に亡くなった祖母と、仲の良かったお婆さんだった。
大きくなったねぇ、と続けたお婆さんと、世間話をした。若い人間の少ない村であるし、確かこのお婆さんも独り身だ。寂しさもあるだろうし、会話が楽しいのだろう。お婆さんの話は止まらない。
とはいえ、私も生前の祖母について話すのは嫌ではなかった。私は田舎は好きではなかったが、祖母のことは好きだったから。――話が落ち着いたところで、私は気になっていたことを何の気なしに聞いた。
「ところでこの椅子って、なんでここに置いてあるんですか?」
お婆さんは、キョトンとした表情で私を見つめた。「えっ、知らないの?」。そんな表情だ。
「聞いてないのかい? ……これは、あんたのとこのばぁさんが座るための椅子だよ」
今度は、私が驚く番だった。(私の……おばあちゃんが……?)。先ほども述べたとおり、私の祖母は五年前に亡くなっていた。祖母が生前座っていたということなのか。であれば、この椅子は五年以上もの間ここに……?
疑問をぶつけると、お婆さんは違う、と言った。この椅子が置かれたのは、祖母の死後だと。
「ここの木の影ではなぁ。よくあんたのとこのばあさんと、話をしたのよぉ」
――お婆さんが話したのは、こんな話だった。
生前の祖母とお婆さんは、若い頃からずっと仲が良かった。違う村から嫁いできた“よそ者”同士で、辛いことがあれば愚痴を言い合い、支え合い、楽しいことがあれば笑い合ってきたという。
そんな二人が世間話に花を咲かせていたのは、いつも決まってこの一際大きな、木の影の中だった。口約束したわけでもないのに、なぜかここでよく話をしたという。――おそらく、家にもどこにも落ち着ける場所がなく、だから外の、こんな道路の真ん中でしか話もできなかったのだろうと思う。
――五年前に祖母が亡くなってから、村ではある噂が広がっていた。それはあの大きな木の影の下に、私の祖母の幽霊がでる、というものだった。
見た人は、一人や二人ではなかった。一人が「この前あの木の下で……」と話し出すと、「私もこの前……」、「実は私も……」と続く程だった。お婆さん自身も、祖母を見たという。早朝、この道を歩いている時のことだった。朝靄の向こうに誰かが立って、田畑の方を見ている――近づくと、消えてしまった。そんなことが、続いていたのだという。
「だから私、椅子を持ってきたのよ」
お婆さんは言った。
「ずっと立ってて、疲れちゃうだろうと思ってねぇ。お話をすることはできないから、せめて座ってほしくて」
すると、村に流れる噂話は、少し姿を変えた。
――木の下の影のところに、椅子に座った――
じゃあ、と言って、お婆さんとは別れた。私は聞き終えた怪談話を、怖いとは思わなかった。むしろなんだかうれしくって、心が洗われた気分になって、
(やっぱ、田舎っていいなぁ)
と、改めて思うのだった。
ちなみに、私も最終日に、見た。
――そして今年。田舎に帰ると、椅子は二つになっていた。
来年も、訪れる予定だ。