7歳: 些細な、けれど意外と大きな
七歳になったマリエラは、初夏の庭の木陰でお茶を飲みながら本を読んでいた。
去年、父にしがみついて大泣きしたあの日以来、マリエラは少しだけ元気になった。魂についた一番大きく新しかった傷がかなり癒えたので、以前よりほんの少しだけ生きる力が増えたらしい。それでもまだしょっちゅう体調は崩すし、死にかけることも多いのだが、最近は初夏限定ならこうして庭でのんびりしていても体調を崩すことはなくなった。
水色のワンピースに日焼け防止を兼ねた白いレースの手袋と靴下、ワンピースと共布の華奢な靴を身に着けたマリエラはどこから見ても儚げで可憐な美少女で、小さな淑女という装いがよく似合っている。
その可愛らしい手袋と靴下、靴が直接そこらに加護を漏らさないようにするための実用品に他ならないという事を知る者は彼女以外にはいなかったが。
マリエラはふと喉の渇きを覚えて顔を上げた。最近は母も少しだけ丈夫になった彼女に安心したらしく、傍についていない事の方が多い。代わりに傍にいつも誰かしら使用人がいるようになった。少々窮屈だが、それについては仕方ないとマリエラも諦めている。
「イオナ、お茶をちょうだい」
「……はい」
傍にいた侍女は何故か一瞬口ごもった後、お茶の支度をし始めた。それを特に疑問に思う事もなく、マリエラは手にした本のページを捲った。
「どうぞ、お嬢様」
「ありがとう」
「……あの、お嬢様」
お茶を差し出した侍女に礼をいうと、彼女はおずおずとマリエラを呼ぶ。
マリエラが本から目を上げて侍女の方を見ると、彼女は困ったような顔をしていた。
「あの、私、イオナじゃなくてサリナです……」
どうやら名を間違えられたことが気になったらしい。しかしマリエラはその言葉に首を傾げた。
それからサリナの顔をまじまじと見て、今初めて彼女の存在に気付いたかのような不思議そうな表情を浮かべた。
「私付きの侍女はこの間までユリエじゃなかった?」
「ええと、以前の人は奥様のご懐妊に合わせてそちらに人を増やす為配置換えになりまして……あの、私がお嬢様付きになりましてから、そろそろ三か月になるのですが……」
実はこのやり取りも一回や二回の事ではなかった。マリエラは何故か毎回毎回必ずサリナの名を間違えるのだ。最初のうちは気にならなかったサリナも段々と気にし始め、最近でははっきり言って少し腹も立てていたし、焦ってもいた。
しかも今の反応から察するに、ひょっとするとマリエラは彼女の顔すら覚えて貰えていない可能性が高い。
かといって全ての使用人の顔をマリエラが覚えていないかというとそういう訳でもないのだ。
昔から家にいる使用人たちの顔と名はちゃんと覚えているようだし、そうかと思えばこの間入ったばかりの馬番や庭師も覚えていたりする。
それなのに何故三か月も傍にいる自分が未だに覚えて貰えていないのか、サリナにはさっぱり理解できなかった。
しかしそんな彼女の内心も知らず、マリエラはしばらく考えるとやがて一つ頷き顔を上げた。
「ナが合っているから、いいことにするわ」
良い事にされては困るんです! と思わず叫びたくなったサリナだった。
一方その頃、侯爵の執務室ではマイルズとアマリア、そして執事長のオーランドと侍女長のメディナが内々の打ち合わせをしていた。
侯爵領は近年ますます豊かになり、近隣の領地から人の流入が増えている。その分仕事も増えたので、侯爵家でも定期的に新しい人間を雇い入れており、その人員の調整についてこうしてたまに話し合う必要があるのだ。
特に先日アマリアが四人目の子供を身ごもった事がわかった為、奥向きは特に人員の補充や入れ替えが必要になる。
「アマリアが子供を産むまでには人手をもう少し増やしたいんだけど、すぐには難しいかな……乳母の手配はどうなっている?」
「リアンナの乳母が自分の妹はどうかと推薦していますわ。ちょうど私より少し早く出産予定だそうで」
「それなら身元調査は簡単で済むかな。けれど一応頼むよ、オーランド」
「かしこまりました」
手元の書類をぺらぺらと捲り、マイルズは他に増員は必要ないかと侍女長にも声を掛けた。
「現在マリエラ様の傍付きの侍女は少し前に入ったサリナにさせて頂いているのですが、その……どうも駄目なようで」
「ああ、またか。どのくらいになる?」
「三か月ほどです。しかし未だにマリエラ様に顔も名も憶えて頂けていないようで」
侍女長の言葉にマイルズは少し考え、頷いた。
「とりあえずマリエラの所からは移動だね。下位の仕事に回して、頑張る気があるなら続ければいいだろう。もしだめなら推薦状でも出して、他家を紹介しよう」
「かしこまりました。マリエラ様のお傍付きはどうされますか?」
「新しく人を雇うまではユリエを戻せばいいわ。私の所はまだ大丈夫よ」
「申し訳ありません、奥様」
大まかに結論が出ると侍女長は下がり、部屋には侯爵夫妻と執事長が残った。
「相変わらずマリエラは好かない人の顔を覚えないねぇ」
「本当に……でもマリエラが覚えた人は皆性格も良く、一生懸命仕事をしてくれるので本当に助かるわ」
「マリエラ様はお小さい頃から二心ある者を決して傍に寄せようとはなさいませんでしたからね。物心つかれてからは泣いて嫌がられることは流石になくなりましたが、その分殆ど視界に入れておられないようです」
赤ん坊のころから大層人間嫌いだったマリエラは、特に性質の悪い者を頑として傍に寄せ付けようとはしなかった。最初は見境なく家族以外を嫌っているのだと皆思っていたのだが、マリエラが少し育つと使用人の中にも親戚にも、嫌われている者とそうでない者とにはっきりと差が出るようになったのだ。
マリエラが嫌うのは人の見かけや、している仕事などには全く関係がない。
家族が気になってそれとなく調べてみると彼女が嫌うのは、完全に行儀見習いの腰掛気分で仕事をやる気がほとんどない侍女や、にこやかな顔をして裏では人の悪口を広めていた者、こっそりと仕事をさぼって人になすりつけるのが上手い者、近年様々な成功を収めつつある侯爵家に取り入ろうとやってくる親戚や、あまり評判の良くない商人、侯爵家の発展の秘密を探ろうとする他家の息がかかった者など、少々問題のある人間ばかりだった。
その反面、マリエラが抱くことを許す人間や彼女から声を掛ける者は大抵が性格がとても良かったり、非常に優れた資質を持っていたり、堅実な商売をしていたり、侯爵家の役に立ってくれる者ばかりときている。
「サリナはやはり紐付きであったようでして。エルバラ伯爵家と遠いですが縁があり、何がしかの指示を受けていたようです。まだ大したことを調べてはいないようですが」
「ならやはり閑職に回して折りをみて解雇か。また新しい人を探さなければならないのが大変だなぁ」
レイローズ侯爵家の領内に何故か加護持ちが良く現れるのは何か秘密があるのでは、と最近は少しずつ周りがうるさくなってきている。
人を雇おうにも裏がある人物がこうしてひっそり混ざっていたりするので油断がならない。
「先日来ました商人も、マリエラ様がご用を言いつけた者の商会とは新しく契約を結んでもよろしいかと。その他はあまり良くない調査結果が出ております」
「マリエラは一体どこで見分けているんだろうねぇ。それこそ何か加護でも授かっているのではと思ってしまうよ。領主としては羨ましい能力だ」
「やっぱり新しい使用人はまずマリエラに会わせてみるのが確実ね……けれど、困ったわねぇ」
「何かあるのかい、アマリア」
マイルズの問いにアマリアはため息を一つ零した。
「あの子も少しずつ丈夫になって来たし、そろそろお友達を作っても良い頃合いだと思っていたのよ。けれどあんなに人の顔を覚えないんじゃ、同年代の子を紹介してもどうなるかわからないと思って。顔も名前も憶えないなんてことになったらさすがに相手の子に申し訳ないでしょう?」
「それはそうだねぇ……うーん、どうしたものかな。レイルが連れてくる友達とは会った事があるんだろう?」
「ええ。一応多少は顔と名前が一致している子がいるようだけど、やっぱり全然憶えていない子もいるみたいだわ」
侯爵家の子供の遊び相手となると相手もそれなりの家の子供か、あるいは将来の側近候補の上級使用人の子供ということになる。そういう相手の顔を憶えられない、という事になると少々問題が出てくる可能性もあった。
「……とりあえず、その問題は先送りになさったらどうでしょう。マリエラ様は今の所ご友人がいなくても全く気にしているようには見えませんし。もう少し大きくなられてから、奥様が子供同伴のお茶会などを催されるのはいかがでしょう。その際にマリエラ様の印象が良かった方とのご縁を考えては」
「そうだな……そうしようか」
「ええ、いい考えだわ。けれどマリエラの体調が確実にいいのは初夏の今頃だけだから、準備や招待を考えると今からでは難しいわね。来年あたりから、少しずつ考える事にしましょう」
こうしてマリエラの知らないところで、彼女が友人を作る機会はそっと先送りされたのだが、当人は今の所欠片も気にしていなかった。
「うん、この本はまぁまぁ当たりだったな……また新しいのが出たら届けてくれるって言っていたし、他にも何か頼むかな」
両親がそんな話をしていたとは知らず、マリエラは先日侯爵家に来た商人から買った新人作家の本をぱたりと閉じて、独り言と共に満足そうにうんうんと頷いた。
初夏の木陰で読書をするのは本当に過ごしやすくて気持ちいい。春はまだマリエラが長時間庭で過ごすには涼しすぎるし、本格的な夏になるとすぐに暑さに参って寝込んでしまう。初秋は初夏と同じくらいの気温だが、夏に寝込んで落ちた体力はまだ回復しきっていない。その後になるとすぐに風邪をひく。
マリエラは自分が唯一外で長く過ごせるこの季節が一番のお気に入りだった。
木陰に置いた白いテーブルセットでお茶を飲みながら本を読む時間はとても穏やかだ。
そういえばまた喉が渇いたな、とマリエラは後ろを向き、そこにいた侍女の姿が変わっている事に気が付いた。
「あら、ユリエ、どうしたの?」
「はい、先ほどまでお傍にいたサリナはただ今侍女長に呼ばれておりまして、私がしばらくお傍に控えさせて頂きます」
「そう。じゃあお茶をお願い」
「かしこまりました」
ユリエはてきぱきと動き、慣れた手つきでお茶の用意をしてくれた。久しぶりに飲む彼女の入れたお茶に、マリエラの顔が綻ぶ。
マリエラはユリエの入れたお茶が好きだった。彼女はあまり強くはないが火の神の加護を持ち、お茶を入れるお湯の温度の加減がとても上手なのだ。
加えて、ユリエが入れたお茶にはほんの少しだが火の神力が宿り、マリエラにちょっとだけ元気をくれる。
(それにユリエ、キレイなんだよね。魂が)
薫り高いお茶を一口飲み、マリエラはユリエに美味しいと告げて笑顔を見せた。
マリエラの目にはその人の魂の輝きがはっきりと見える。
人間にしては珍しいほど美しい輝きを宿した者もいれば、普通の人間らしく少しだけ濁っている者もいる。近寄ってほしくないほど真っ黒な者はマリエラは視界にも入れないようにしている。
ユリエはその点、マリエラが感心するほど美しい魂の持ち主だ。仕事の方はあまり器用に何でもこなすタイプではないのだが、心根が優しく真面目で一生懸命な娘だった。
輝いている魂の持ち主はマリエラも気に入ってよく話すので、必然的に名も顔もすぐ覚える。
普通の人間はちょっと面倒くさくて、本人が変わってるとか面白いだとか何か特徴がない限りすぐ忘れてしまう。
黒いのには目も向けない。
マリエラの狭い世界には今の所、家族を除けばその三種類の区別しか存在しない。
(昔もこんな風に直接魂が見えたなら、きっと楽だったろうになぁ)
この能力は新たな加護として提案してもいいかもしれない、とお茶を楽しみながら考える。
信頼していた人間に裏切られて磔火あぶりにあったり、それなりに友好的だと思っていた相手に毒を盛られるのはもう遠慮したいところだ。
魂が輝いている人間の数はさほど多くないとはいえ、それでも黒い心根の者を避けることが出来るだけでも結構助かる。そうしたらきっといきなり後ろから切りつけられるようなことも減ると思いたい。
(でも黒いからってあんまりあからさまに避けるとまた敵を増やすかな……ああ、やだやだ面倒くさい。止めよう、今世は関係ないんだし。陰謀の最中になんか絶対身を置くものか。私は絶対働かないからな!)
そんな嫌な事を考えていたら反射的に眠くなってきた。嫌なことを忘れるためには眠るのが一番だ。
マリエラはお茶を飲み干し、傍に控えるユリエを見上げた。
「ユリエ、少し疲れたからお昼寝したいわ」
「かしこまりました。では、すぐにお支度を致します」
ユリエに促され部屋へと戻り、寝支度を済ませる。
彼女なら部屋にいても安心して眠れるので、マリエラはユリエに特に退室を命じなかった。
お傍におりますので、という優しい声を聞きながら、マリエラは安心して眠りについた。
おまけ
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「良かった、俺の加護者、マーレエレナ様に気に入られてる……うう、本当に良かった……!」
「おめ!」