6歳: 過去に触れ、知ったこと
六歳の初夏、マリエラは本を読むふりをしながら両親の会話に耳をそばだてていた。
「……見てごらん、アマリア。今月も地神様の加護を得た子供がいたんだよ。本当に最近多いね」
「まぁ、また? なら今年も豊作かしら。本当にありがたいわね」
マイルズとアマリアは神殿から上がってきた加護を得た子供に関する報告書を読んで嬉しそうに笑みを交わした。
近年このレイローズ侯爵領は地の加護を得る者がますます増え、ずっと豊作続きだ。他の加護者も増えている。
(どうやら上はまじめに働いているようだな……)
マリエラは小さく息を吐き、本に意識を戻した。
五歳を過ぎたころからマリエラは少しずつ体が丈夫になってきた。まだ年の半分ほど、特に真夏と真冬はほとんどをベッドで過ごすし、年に三回くらいは死にかけるが、それでも以前に比べれば格段にマシになり、こうして家族がくつろぐ為の小さな居間で家族と一緒に過ごす事も随分と増えた。
部屋の中では母がリアンナをあやしながらお茶を飲み、今日は休日らしい父は簡単な報告書に目を通し、兄は教師から出された宿題に難しい表情で取り組んでいる。
起きていられる時間が増えたマリエラは貴族の娘としての礼儀作法や簡単な勉強をするようになった。
本自体は四歳くらいから自分で読むようになっていたが、その種類も増えたし少し難しい物も読むようになった。
ちなみに文字は記憶を取り戻してから普通に読めたが、それも怪しいので母に読んで貰った絵本で覚えたふりをした。礼儀作法や勉強と言っても、数多の過去の記憶を持つ彼女にとってはどれも軽いおさらいのようなものだったが、それなりに上手くごまかしつつ付き合っている。
むしろその演技の方が結構大変だったりするのだが。
彼女が今読んでいるのは歴史書だ。この国と、レイローズ侯爵家の事をまとめた身内向けのもので、代々の先祖の事が簡単ではあるが書いてある。
色々と学び始めてから知ったのだが、実はマリエラが今回生まれた場所は、百年と少し前に彼女が王太子として生まれた大国、アランドラ王国だった。場所は適当に上に任せたため全く気付いていなかったのだが、これは多分偶然ではないのだろう。
王太子が死んだあとのアランドラ王国は百年の動乱を無傷とは言えないがどうにかしのぎ、かつての版図よりも更に広い国土を維持していた。ちなみに百年前の紛争の原因となった隣国はすでに滅んでアランドラ王国に併呑されている。
しかし広い国土とはいえ戦乱の影響は未だ大きく残り、広さの割に国力は著しく落としている。
周辺諸国も等しく国力を落としているので今の所対外的には大きな問題は起きていないが、国内には多くの問題を抱えたままだった。
そんな中マリエラが生まれたこのレイローズ侯爵領は国内でもそこそこ大きな領地を維持し、辺境と呼ばれるほど端っこでもない、そこそこの位置にある。そこそこという評価ばかりで歴史的に見てもあまりぱっとしないこの領地ではあるが、その分安定していて歴史も古く、特にここ数年は良いこと続きだと評判らしい。
当然その多くはマリエラが生まれた影響に違いないのだが、それ以外の要因があることに彼女は最近気が付いた。
(……ライル。ライルがここの領主だったなんてな)
マリエラは先日この家の家系図の中に懐かしい名前を見つけたのだ。
ライル・フェオ・ローランド。それはかつて王太子だった自分の側近だった男の名だ。
落ちぶれかけた子爵家の三男だった彼は、真面目な性格とその高い執務能力を買って王太子自らが側近に取り立てた男だった。
レイローズ家の歴史を記した本によれば彼は王太子の死後、その弔い合戦で軍師として大きな手柄を立て、その後このレイローズ家に婿養子に入ったらしい。彼の身分から考えると侯爵家の婿養子になるなど滅多にあることではないから、よほど気に入られたのだろう。
記録によれば、ライルの手腕と彼の残した幾つもの家訓によって侯爵家はその後の動乱を乗り越え、現在の豊かさを得たとあった。
ライルと王太子の関係を上が知ったうえでここをマリエラの生誕の場所として選んだのだろうか。
しかしそこまでの考えがあったかどうかは疑わしい。アウラが吟味してくれた可能性もあるが、単に他に比べて安定した領地だから選んだだけな気もする。
(しかしライル……一体ここでどんな風に生きたんだろう)
気になったマリエラは歴史書をうんせと持ち上げ、向かい側のソファに座っていた父の隣に移動する。
マリエラに気づいたマイルズは微笑み、彼女を膝に乗せて顔を覗き込んだ。
「どうしたのかなマリー? 何か用かい?」
「おとうさま……これ。ライル様は、どんな人だったの?」
マリエラが手にした歴史書に目を走らせたマイルズはああ、と頷き彼女の頭を撫でた。
「その人は僕の曾お祖父様……マリーにとってはお祖父様の祖父にあたる人だな。今に続くこの侯爵家の中興の祖といってもいいだろうね。彼はさほど力のない子爵家の三男だったそうだけど、優秀な成績で大学を卒業したことで百年と少し前に亡くなった悲劇の王太子……エルランディア・エル・フォン・アランドラ様の目に留まり、彼の側近になったんだ。そして彼が亡くなった後に起こった戦で大きな功を上げ、レイローズ伯爵に気に入られて婿養子に入り、その後さらに続いた戦いでも功を成してこの家を侯爵家に押し上げたすごい人なんだよ」
爵位を上げたと聞いてマリエラは目を見開いた。そんな娘の反応に気をよくしながら、マイルズは更に言葉を続けた。
「ライル様は遅い結婚だったようだけど、伯爵家の令嬢だった妻との相性も良く、忙しい合間を縫って遅くに生まれた息子を大層可愛がったらしい。それがマリーの曾お祖父様だな。エランドと名づけられた。そして息子が立派な人間になるように、教育にも心を砕いたらしい。その甲斐あって我が侯爵家は動乱の時代を乗り切り、今もこうして続いている訳なんだけど……彼は生前、私がしたことは全て王太子殿下の薫陶を頂いたおかげで成せたことだといつも言っていたそうだよ」
「……殿下の?」
「ああ。そうだ、ちょっと待ってごらん」
マイルズはそういうと膝の上のマリエラをそっとソファに下ろし、席を立った。そして隣にある書斎へと姿を消し、しばらくしてから一冊の古びた本を手に戻ってきた。
「ほら、曾お祖父様の日記だ。確かこの辺……ああ、これこれ、ここを読んでごらん。難しい言葉があったら聞いておくれ」
マリエラは父の示したページに目を落として、息を呑んだ。同じ大きさに揃った綺麗な文字が並んだ几帳面なその手跡は、確かに記憶にあるライルのものだ。彼の作った書類はどれも大層読みやすく、かつてのマナはそれをとても気に入っていた事を思い出す。
日記に書かれていたのは、ライルと生前の王太子との思い出についてだった。
『――殿下は生前、良く王宮を抜け出し市井に降りられた。それを追うのは近衛のハロルド達の仕事で、殿下の不在をごまかしたり、進まない仕事を少しでも進めておくのが私の仕事だった。
私はある日帰ってきた殿下に、下々の者を気にするよりももっと大事なことがあるでしょうと愚痴を言ったことがあった。しかしそれに対して殿下はこう仰った。
「国の現実を見ないで政策を決めるほど愚かなことはないと思わないか、ライル」と。しかし私はそれを素直には受け取らなかった。この国は既に大きく、豊かだったからだ。そんな私の不満などお見通しだったのだろう。殿下は苦笑して、言葉を続けられた。
「確かに、我が国は大きく、一見豊かに見える。だがそれは本当にそうか? その豊かさは端々までちゃんと届いているのか? 物事というのは、大きく広がれば端が見えなくなり、高く昇れば下が見えなくなるものだ。私はいずれその中央の高みに立つ者として、それを忘れたくないんだよ」と。 私は、自分の不明が恥ずかしくなったと同時に、この国に生き、殿下のお傍にお仕えできる事が誇らしくなった――』
そんなこと言ったっけ、とマリエラは思わず胡乱な目をした。何となく気恥ずかしくて顔が赤くなりそうだったが、それと同時に少しばかり嬉しくもあった。かつての自分の事をこうして死んだ後も思い出してくれた者がいたことが少し嬉しい。
『――殿下はまた、世界を見る事を殊の外好まれた。あの方はどこの国だろうと、自国と同じように愛していたように見えた。それはきっと真実だったのだろう。だからこそきっと、あれだけたくさんの国が殿下の為に動いたのだ。
殿下は生前、良く仰っていた。世界は、人は面白いと。
「なぁ、ライル、知っているか。私はあちこちで子供たちに、もし色んなことができる魔法の道具があったとしたら、どんなものが欲しいか聞くのが好きなんだ。面白いんだよ」と殿下がある日こっそり私に教えて下さったことがあった。どんな答えが返ってくるのかと私が聞くと、殿下は笑った。
「北の国ではな、家を温める魔法具が欲しいと言っていた。それから、花を早く咲かせる道具や、春を早く呼ぶ道具が欲しいと」
いかにも子供らしいその答えに、私も思わず笑ってしまった。
「南の国では、家を涼しくする道具が欲しいそうだ。それから、蚊を追い払う道具に、椰子の実を簡単に落とす道具や魚が沢山捕れる道具がいいと言っていたよ」
そう言って殿下は城下町の方へと目を向けられた。
「他にも色んな要望があったよ。お母さんが洗濯を楽にできるようになる道具、弟の病気が治る道具、お父さんのお酒が減る道具。鳥のように空を飛ぶ道具や、お星様の明りを捕まえて家の明りに使えるようにする道具……本当に色んな願いを子供たちは抱えている。住む場所や国の在り方によって全然違ったりするが、けれどどれも同じように真っ直ぐな願いだ。私は、いつか皆がそれを叶えられる世になればと、願う。そのために働けたら幸せだ」
殿下はその願いの為に、国や階級を越えた様々な人と熱心に交流をもった。教育を普及し、人々の暮らしを底上げしたいといつも仰っていた。誰もが夢を持てる世の中にすることが、殿下の夢だった……残念ながら、その夢はあまりにも早く潰えてしまったが。
それを止められなかったことを私もハロルドもどれだけ悔いたかわからない。殿下の死は世界を大きく動かしたが、それは決してかの人の望んだ世ではなかった。
私は嘆くのをやめ、苦しさを忘れるように戦に身を投じた。しかしどれだけの戦功をあげても心は少しも晴れなかった。
「お前は争いが苦手だな、ライル。ツンツンして見える割に、本当は臆病で気が良いんだ……だが、そこが良いな。お前のような奴がたくさん増えれば、きっともっとこの世は平和になる」
そう仰って下さったあの日がもう遠い事を、戦火の中で何度も思い知ったものだ。
……今私は、幸いにもこの領地を任される立場となり、子にも恵まれた。それに幸せを感じる時、いつも殿下の事を思い出す。殿下の言葉を、願いを、せめて子供たちに、孫に、その子供にと伝えていきたいと願う。
世界に比べればひどく小さなこの領地だけれど、せめてここにだけは、殿下の願った世の姿の欠片でも実現できればと思うのだ。
そして、私の子孫がこの想いを知り、やがて同じようにそれを目指してくれることだけが、私の願いだ――』
日記に目を落としたきり動かないマリエラの頭を、マイルズは優しく撫でた。
「僕の父も僕も、ライル様と王太子様の話をよく聞かされたものだ。そしてこの日記も、何度も読んだ。ライル様以降この侯爵領では代々、他の所より少しだけ税が安く、基礎だけではあるが領民すべてに教育を施す努力を続けている。侯爵家である程度援助をし様々な事業を推奨して、年に一度は領民すべてが参加できるお祭りを催す。それは全部、王太子様が考え、ライル様がここで実行し、僕たちが代々続けてきたんだ。僕はこれを、レイルにも、その子供にも続けて欲しいと願っているんだよ。今ではそれが僕の願いにもなった」
柔らかな声で語るマイルズに、アマリアが微笑む。
「そんな代々の努力が認められたから、この領内に神のご加護を頂く人が増えたのかもしれませんね」
「ああ、そうかもしれないね。そうなら、嬉しいねぇ」
嬉しそうに頷いたマイルズの手の甲に、不意にぽたりと滴が落ちた。
驚いてそちらを見ると、本を支えていた自分の手にぽたりぽたりとまた滴が落ちる。
「マリー!? どうしたんだい?」
マイルズの手に落ちたのは、マリエラの目からぽたぽたと零れる、大粒の涙だった。
マイルズは慌てて本を置き、マリエラの顔を覗き込んだ。けれど彼女は何も言わずただ涙をこぼし続ける。
マリエラは、マナは知ったのだ。
エルランディアとしての自分の生が、無駄にはならなかったことを。
こうしてその志を継ぎ、連綿と繋げてくれた者がいたことを。
あんなにも短い、唐突に終わらされた一生だったのに、その淡い願いを消さないでいてくれた者がいたことがマナには本当に嬉しかった。
千年引きこもろうと思った自分の悔いと失望が、涙と共に消えていく気がした。
心配そうに涙を拭う父に大丈夫だと告げようとしたが、声は言葉にならなかった。
涙は止まらず後から後から溢れ、嗚咽が零れる。マイルズはマリエラを膝に上げるとぎゅっと抱きしめた。
その体が温かくて、背を叩いてくれる手が優しくて、マリエラは父にしがみつき、声を上げて泣いた。
子供らしく、こんな風に泣くのは記憶を取り戻してからは初めての事だったが、ちっとも恥ずかしいとは思わなかった。
ライルの心が嬉しくて、そして共に生きられなかったことが寂しくて、父の優しさがほんの少し苦しい。
それらすべての思いが、次々に涙を連れてくる。
わんわんと泣きながら、魂に刻まれた背の傷が、少しずつ癒されていくのをマナは感じていた。
やがて泣き疲れて眠ってしまうまで、父はずっとマリエラを抱きしめていてくれた。
その日マリエラが見た夢は、年経たエルランディアとライルが楽しそうに窓から城下を眺めている、そんな幸せな夢だった。