幕間: つまりそれは壁なわけで
ニック・ウォールは侯爵家の庭師だ。
いや、庭師だった。
十ニの時に見習い庭師として弟子入りし、十五の頃には真面目な働きぶりと腕が認められて親方の口利きで侯爵家の仕事に連れて行って貰えるようになり、十八の時には専属の庭師の一人として雇ってもらえることになった。
侯爵家の庭は当然ながら今までニックが見た中で一番美しい庭だった。もっとも、他の王侯貴族の庭を見たことはないのだから、一番なのは当然だ。
その美しい庭がもっと美しくなるように、ニックは心を配って働いてきた。
そのかいがあったのだろうか、ニックが二十歳を過ぎてしばらくした頃から、侯爵家の庭は何故か急にさらに美しくなった。
季節を問わず花々が咲き乱れ、しかも長持ちする。新しく蒔いた種も植えた苗もとても育ちが早い。
こりゃあ誰か神様の加護を頂いたかな、などと庭師仲間で話をしていたくらいだ。そういう事は確かにたまにある。
ニックの師である親方は三十の時に花の女神様の加護を頂き、以来花を育てるのがさらに得意になったらしい。親方はものすごく厳つい大男なのだが、見かけと加護はあまり関係なかったようだ。
とりあえず少し疑問は覚えたが、二十歳の時の神殿での確認ではニックには特に加護はなかったので、彼自身はすぐまた加護を確かめる事はしなかった。一回ごとに多少だが寄付金がかかるから、もったいなかったのだ。仲間達もそれは同じ気持ちの様だった。
そんな事よりいきなり育ち方が全く変わってしまった庭を整える仕事に忙殺されて、皆それどころではなかったのだが。
そして五年後、ニックは二十五歳の誕生日に地神殿に出向いた。
そこで、彼には神の加護、それも中級の地神様の加護が新たに与えられた事がわかったのだ。しかも文字の光り方から神官様が読み取ったところによると、加護の部類でもかなり強いものを授かっているとのことだった。
どんな土地でも手ずから土を耕し、種を蒔けば、豊かな畑を作ることが出来るだろうと言われた。
そして、ぜひ地神殿に信徒としての籍を移し神官として働いてくれないかと強く勧誘された。
ニックは戸惑い、一度は断った。
彼は侯爵家の庭師としての仕事に満足していたし、また庭を愛していた。
地神官になれば、百年の動乱の傷跡の残る痩せた土地を歩いて回らされるかもしれないぞ、と仲間がこっそり耳打ちしてくれたこともある。幾ら自分に力があろうとも、そんな苦労は進んでしたくなかった。
しかしその晩、夢を見た。
夢の中でニックは荒れ果てた土地に立っていた。
元は畑だったらしいその場所には、あちこちに立枯れた植物の残骸が残っている。無数の馬の蹄の跡も。
無残に踏み荒らされ、人々が放棄したその畑だった場所を、ニックは恐る恐る歩いた。歩いても歩いても風景は変わらず、何とも虚しく、寂しい気持ちがニックの胸に湧き起こる。
しばらく歩くと、ニックのいる場所の少し先に一人の女性が立っているのがふと目に入った。
この気の滅入る場所で途方に暮れていたニックは、慌てて彼女の元へと近づいた。
近づいてみると女性はニックが思わずどきりとするほどの美人だった。
豊かに波打つ茶色の髪と、深い森の緑の瞳。美しい顔に、ふっくらと女性らしく豊かな曲線を描く肢体を、丈の長い簡素なドレスで包んでいる。
彼女は気後れして立ち止まったニックににこりと微笑むと、彼が今まで歩いてきた方向を指差した。
不思議に思ったニックが振り向くと、たちまち緑色が目に入った。
何と、ニックが歩いてきた場所に、転々と草が生え、花が咲いていたのだ。
あの哀れな荒れ地を花と緑が、まるで小さなオアシスが続くかの様に彩っている。
『貴方なら、これを現実にできるの』
これは一体、と驚いているニックの耳に、優しい囁き声が聞こえた。
ハッとして振り返ると、もうそこにはあの女性はいなかった。
朝起きて、ニックは心を決めた。
きっとあれは神の啓示だったのだ。頂いた加護で、荒れ果てた土地を癒せということなのだ。
ニックは親方に事情を話し、侯爵様へのお目通りを願うと、職を辞し、神官になるということを伝えた。
侯爵は驚いたが、ニックの話と固い決意を聞き、快く送り出してくれた。
そして今日、仕事の引き継ぎを終えたニックは、この侯爵家を後にする。
最後に、十年を過ごした庭に別れを告げる為、ニックは許可を得てぐるりと歩き回った。
先日、突然庭一面をシラジロオバナが埋め尽くす、などという出来事もあったが、思えばあれもニックが加護を得たせいだったのかもしれない。
その少し前に庭師として入った十六歳のジョンが、ニックより少し弱いが地神様の加護を授かっているそうなので、きっと加護者が二人も揃ったせいで何か不思議な効果が出たのだろう。
刈っても刈っても生えてくるシラジロオバナはもう草刈りを諦められ、今ではすっかり芝生の代わりを果たしていた。
そんな庭を去りがたく思いながら歩いていると、木陰に白い人影が見えた。
人影は侯爵の上の娘であるマリエラお嬢様とその侍女だった。彼女は酷く体が弱いので、ニックがその姿を見たのは数えるほどだ。
お嬢様にあまり近づく訳にいかないとニックが立ち止まり引き返そうとすると、マリエラの方が彼に気づいた。
マリエラは彼を認め、それからよろりと立ち上がるとトコトコとニックの方へ歩いてきた。
どう考えても自分のほうに歩いてくるお嬢様を見て今更引き返すわけにもいかず、ニックは困惑しつつもそこで待つ。
やがてすぐ足もとまでやってきたマリエラは、ニックの顔をじっと見て口を開いた。
「あなた、にっくね?」
「は、はい、そうでございますマリエラお嬢様」
ニックが恐縮していると、マリエラはそんな事には構わず、ごそごそとワンピースのポケットを漁って何かを取り出した。
「はい、これ。あげる。いつもにわをきれいにしてくれて、ありがとう」
「へ!? あ、ありがとうございますっ……」
差し出されたのは小さな水晶を革ひもで結んだ素朴なペンダントだった。手に乗せると水晶が茶色を帯びている事がわかる。
「おそとのはたけにいくって、きいたの。おしごと、がんばってね」
「は、はい! ありがとうございます! お世話になりました、お嬢様」
マリエラは可愛らしく微笑むと侍女に連れられて部屋へと戻って行った。
ニックの手の中にはペンダントが残された。
握っていると不思議に暖かいその石に、さらなる力と勇気を与えられたような気がし、ニックはマリエラの背中とこの庭に向かってそっと頭を下げた。
その後、ニック・ウォールは予定通り地神殿の神官になった。
彼はすぐに国や各地の領主に乞われ、このアランドラ国内のあちこちを時間をかけて回ることになった。
一か所に数年ずつ留まり、そこで土地の者達に混じって畑を耕す。彼一人が耕せる範囲は狭かったが、皆が彼と力を合わせて耕せばその成果は確実に広がった。
畑仕事も旅も大変だったが、そこには大きな喜びがあった。ニックはいつしかこの大地を癒すことに人生の喜びを感じるようになっていた。
ニックはその後、活動範囲を徐々に国外にも伸ばしていくことになる。
中級地神様の加護を頂き、生涯を旅と畑を耕す事に費やした彼はやがて遠い未来で聖人に列せられることになる。
その胸元にはいつも、素朴な水晶のペンダントが飾られていたという。
おまけ
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「ったく、アウラってば、辞める庭師に地母神の力の欠片を渡せなんて、いきなり夢で変なこと頼んでくるんだから。しかし大丈夫かなあの人……あちこち回って過労死しないかな……」
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「んもー、マナってば心配性なんだから。ちゃんと丈夫な人身御供を選んでるわよ。国内外あちこち回らされでも全然大丈夫そうなのを」
「あの、アウレエラ様、人身御供ってはっきり言うのはちょっと人聞きが……」
「うるさいわよ。いいからさっさともう何人か、同じ仕事をさせられそうな人間を見つくろいなさい。できればもう二、三人欲しいのよ。あんまり仕事が遅いとむしるわよ?」
「ひっ! す、すぐかかります!」
たまに周りの人の話もはさみます。
そして神々は割と酷い。
ルーターの子機を増やすみたいな。