5歳: 庭にて途方に暮れる
五歳の初夏、マリエラは庭の木の下で途方に暮れていた。
彼女の足元には白い小さな花が咲いている。彼女の小さな手の中にもその花は咲いていた。
マリエラは足元をじっと見つめ、それから周囲をきょろきょろと見回した。
昼寝の時間のところをそっと抜け出してきたので近くには誰もいない。それを確かめると、マリエラはそっと片足を上げた。
足を上げると小さな足の形に草が寝ているのが目に入る。
マリエラがじっと見ていると、彼女の小さな足に踏まれて寝そべった草は、しかし次の瞬間ざわりと動き、一斉に起き上がった。
まるで意思のある生き物のように起き上がった草がぶるぶると震え、そして瞬く間にぶわりと広がる。
そう、広がったのだ。
マリエラを囲むようにザザザ、と音を立てて草が横に大きく広がり、草丈も三倍近くに伸びてその天辺に一斉に白い花を咲かせる。
呆気にとられてそれを見ていたマリエラは、まだまだ広がろうと再度震えた草たちに気付いて慌てて声を掛けた。
「ちょっ、止まって! そこまで!」
途端、ぴたりと草たちの震えが収まる。マリエラはほっと息を吐いたものの、目の前には既にこんもりと茂って白い花を咲かせまくった草の塊がある。
ついさっき、花を幾つか摘んだところで彼女の手が触れた部分の草達が同じように急激に育ってしまったのだ。
それに驚いて立ち尽くしていたところで、今度は足元のこれだ。
今はマリエラの声に止まってくれたが、それでも地を這うように広がっていた愛らしい花がいきなり三倍もの背丈に伸び、小さなマリエラの腰に届きそうなくらいになってしまっている。
「地母神の加護ってこんな強烈だったっけ……久しぶり過ぎて記憶が定かじゃない……いや、でもアウラだからな……」
彼女は慈母の微笑みを浮かべて審議会所属の神の背を蹴飛ばす苛烈な側面も持つ女神だ。何が起こっても不思議ではないともっと前に覚悟しておくべきだった、とマリエラは深く後悔した。
とりあえずこれをどうしようかと考えを巡らせながら手元をみる。
摘んだ花はぎゅっと握られていたにもかかわらず活き活きと咲き誇り、心なしか摘んだ時よりも茎も伸び、花も大輪になったように見えた。
「急いだからって裸足だったのが悪かったのか? 室内履きでもないよりましかな……」
裸足で庭に出るのも素手で花を摘むのもだめ、としっかり心に刻んで、マリエラはもう一度辺りを見回した。
「うわっ、後ろになんか道もできてる!」
振り向けばマリエラがここまで歩いてきた場所すべての芝生が、もさりと道を作るように盛り上がっている。綺麗に刈り込まれているはずの芝生は普段の四倍くらいに盛り上がり、きっと上から見ると、芝生の道と白い花の小島のように見えることだろう。
「どうしよう、これ……むしる? いや、無理だろ……しおれてくれって頼んでも、茶色く残っちゃうだろうし……」
どれもこれもあからさまに怪しい。何とか元に戻さないと庭師たちがきっとすぐに見つけて騒ぎ立てることだろう。
しかしマリエラは小さい。この小さな手でこの草全てをむしるのは到底無理だ。
いっそ魔法で燃やすとか刈り取るとかできないか? と考えて、しかしすぐに首を横に振った。
マリエラはまだ普通の魔法が使えないのだ。人間が魔法を使えるようになるのは個人差は多少あるが大体十歳前後だ。そのくらいになると体の中心に魔法核と呼ばれる魔法を使うための器官が出来上がる。それができなければどんな子供でも魔法を発動させることはできないのだ。
さて、そうなるとあとはマリエラに使える手段はその身に宿る神の力を使う、という選択肢しかない。
しかしそれにもまだ問題があった。
地母神の力の受け皿となっている彼女の体は、神力を使うのに非常に適した器に調整されているのは間違いない。
けれど地の神術でもさすがに一度育った草を小さくさせる事は出来ない。そういうのは時の神の管轄になってしまう。彼の加護は持っていないし、そもそも彼は万年引きこもりだ。育たせて枯れさせることはできるだろうが、それではさっき言った通り不自然な証拠が残ってしまう。
それならマナの持つ神力はといえば、そちらも問題なのだ。
「私の神力で使えそうなのって、あんまりないんだよね……」
マナは元は星の巡りを司る神の一柱だ。そんな彼女の一番得意な神術は星を生み、落とす事。
つまり、隕石を地上に落とす事だった。
まだこの世界に人間が少なかった頃は良くクレーターを作って湖にしたり、海に落として津波を起こし地形を変えるような仕事をしたものだ。
あの頃はまだ楽しかったなー……と一瞬現実を忘れて感慨にふけったが、しかし今のこの場でそれらの技は何の役にも立たないだろう。あとは星の巡りをちょいちょいといじって人の運命に手を加えるのも得意だが、それも役に立ちそうにない。
「こういう細かいのって……苦手……」
手の平サイズの彗星を生み出して地面にぶつけることくらいならできそうだが、多分それでも庭に大穴があく。
母の誕生日に花を贈ろうと摘みに来ただけなのに、とんだことになってしまったとマリエラは頭を抱えたのだった。
結局、その後。
「ねぇ、マリー、お庭に出てみない?」
昼寝の終わる時間を見計らってやってきたアマリアは目を覚ましたマリエラを庭へと誘った。
「おにわ?」
「そう、すごいのよ。今シラジロオバナの花が満開なの。急に庭中のシラジロオバナがぐんぐん育って辺り一面真っ白なの。とっても綺麗なのよ」
「わぁ、ほんと? いく!」
内心では冷や汗をかきながら、マリエラは無邪気を装ってリアンナを抱いた母に手を伸ばした。
アマリアにしっかりと靴を履かせてもらってマリエラは庭に出た。確かにそこにはさっき見た通りの光景が広がっていた。
庭の地面という地面が普段の三倍にも伸びたシラジロオバナの花で埋め尽くされている。さっきまで一部だけ目立っていた最初の一山はすっかりその中に埋もれてしまい、どこだったかもうわからないくらいだ。
庭のあちこちで庭師や使用人たちがこの突然の異変に驚き、またその光景に見入っていた。
綺麗に整えてあった芝生を全て浸食してしまったこの花をむしって庭を元通りにするのに、しばらくは庭師たちが総動員されることになるだろうがそんな事は些細なことだ。
(ふぅ……とりあえず、ごまかせたかな?)
木を隠すには森の中とばかりに、そこら辺にいた地の精霊に頼んで少し神力を分け、庭中のシラジロオバナを満開にしてもらった作戦はひとまずの成功をみたようだった。
なぜ急に花がこんなに育ったのか庭師たちはしきりに首を傾げていたが、マリエラが耳を澄ませたところでは、最近入った地神の加護持ちの若い庭師の影響かもしれないという事でどうやら落ち着きそうな気配だ。
あとで私も彼らを少し労ってやろう、と考えながら、マリエラは傍らの母を見上げた。
「きれいね、おかあさま」
「ほんとねぇ」
にこにこと母と笑顔を交わしつつ、マリエラは新たに生まれた悩みを抱え庭を眺める。
(母上の誕生日の贈り物、どうしよう……)
こんなに満開では今更これを贈る訳には行かない。
生きるという事は、悩みが尽きないものだな……とマリエラは久しぶりにしみじみと思ったのだった。
おまけ
***********************
庭師たちが大騒ぎで増えすぎたシラジロオバナを刈りとっているのを、この庭に住む地精霊は面白そうに眺めていた。その姿は十歳前後の子供のようだ。ついさっきまでは五歳くらいの幼児のような姿をしていた彼は、さっき分けてもらった茶色い水晶の欠片――尊い地母神様の神力の小さな欠片だ――を大切そうに手の平に包み、頬ずりした。
このほんの小さな欠片を分けてもらっただけで、彼は精霊としての格を上げ、今までよりもずっと色々なことが出来るようになった。
その彼が地母神様のいとし子様に頼まれて増やした花が端から次々と刈り取られていく。
彼はけれど楽しそうに庭師たちの後ろにトコトコと近づいた。
一心不乱に庭を整える彼らには、しかし彼の姿は見えていない。
花が刈り取られた場所までやってきた精霊は、以前よりずっと長くなった腕を伸ばしてすい、と地面を撫でた。
ひとしきり庭の花を刈り、ふと振り向いた庭師たちが絶望の声を上げるのは、この少し後の事になる。
侯爵家の庭はこの日から数年間、季節を問わず白い花が咲き誇る庭として有名になった。