22歳:(14)星空に浮かぶ答え
レイローズ領を少しばかり騒がせた軍事演習が終わって数ヶ月後。
マリエラは領地の中心で唸りながら半ば死にかけていた。
「頑張って、姉様!」
マリエラのすぐ傍にずっとついているリアンナがごく弱い癒やしの力を流しながら励ましてくれる。
弱い癒やしにとどめているのはこれが病気や怪我ではないからだ。
出産という女性としての人生最大の戦いにマリエラは挑んでいるのだから。
しかし当の本人には周囲の励ましなどもう耳に届いていなかった。
(腹が痛いって言うか、腹を通り越してもうどこが痛いのかよくわからないんだけど……これはやっぱり死ぬかも)
もし自分が死んだら腹を開いて子供だけでも取り出して貰うように頼んでおくべきか、マリエラは半ば朦朧としながらそんな物騒な事を考えていた。
(腹の奥がどこどこする……なんだっけ、昔ハルモニアスが木で作った太鼓を持ってきてこんな風に叩いてた気がする)
ハルモニアスというのは音楽を司る神の一柱だ。
あらゆる音楽を愛する男神だが、時々他の神々を訪ねては今自分が夢中になっている旋律を聴かせて回るという癖がある。
(これからの流行は原始への回帰だ! とか言ってた……やかましいってアウラに埋められてたけど)
そんなことを思い返し現実逃避してみたものの、痛いものは痛いままだ。額には大粒の汗が次々と浮かび呼吸が乱れる。
(出産てこんなに辛いものだったっけ……女性はすごいなぁ……)
「マリエラ様、もう少し、もう少しですからね!」
マーレエラナはここ何転生も短い期間の人生や男性としての生、あるいは女性でも色々あって結婚しない人生などを繰り返してきた。
そのおかげで出産の苦しみなど全く忘れ果てていたのだが、覚えていたら子を望まなかったかもしれない。
(忘却は……福音か)
生まれる前の記憶など、普通はやはりない方が良いんだろうなとぼんやりとマリエラは思う。息が上がって目眩がし、意識が薄れる。
(ああ、まだ子供だけでも助けるようにって遺言してない……)
そんな不吉な感想を一つ残して、マリエラの意識はそこで暗闇に飲まれた。
ハッと気づくと、マリエラ――マーレエラナはどこかの森の傍に立っていた。
この森には見覚えがある気がして辺りを見回せば、後ろに建物があることに気がついた。
『これは……ひょっとして審議会の建物か?』
それはマーレエラナの記憶にある通りの、周囲の森と全く調和しない、白亜の神殿とでも言うべき建物だった。
『今は私の転生の特別対策室になってるんだっけ? 何でここに……やっぱ死んだのかな』
そう呟いてマーレエラナは建物に近づいた。建物の入り口は大きく開かれ、何人もの神々がバタバタと出入りしているのがわかる。近づくと飛び交う怒声がよく聞こえた。
「探索班、まだか!? まだどこにいるかわからないのか!?」
「今必死で探してる! 神気が入り交じっててわからないんだよ!」
「占いは!? 星読みとか」
「悠長に星なんか読んでる場合か!」
入り口の脇で叫んでいる彼らの傍をすいと通り抜けマーレエラナは奥を目指した。奥からよく知った神気が感じられたからだ。自分が死んだか確かめるのに、余り知らない神々に声を掛けて事情を説明するのは面倒だから知り合いを探そうと奥を目指す。
すれ違うどの神も必死の形相で、時折走って行く彼らとぶつかる。けれど何故かぶつかる瞬間にマーレエラナは彼らをするりとすり抜け、認知される事もなかった。
『なんか変だな。向こうから認識されないって事は、完全にこちらに帰ってきたって訳でもないのかな……』
そういえば歩いている感触も、ふわふわとどこか頼りない。まるで夢でも見ているかのようだった。
『夢か。近いのかも知れないけど、それにしては皆慌ててるなぁ』
奥の一番大きな会議室まで辿り着くと、そこでは必死で鏡を覗くアウレエラやオルストラを始め、見知った神々が一堂に会していた。
『おお、なんか懐かしい顔もある』
暢気な感想を抱くマーレエラナに対して、会議室は戦争と葬式を足して混ぜたような有様だ。
「マーレエラナの魂、どっかに抜けちゃったって!?」
「探せ! 総員全力で! 多分屋敷の周辺におられるはずだ!」
「体は無事ですが、意識を失っている状態です!」
その大騒ぎをマーレエラナは不思議に思いながら眺めていた。彼らの慌てようからすると、マリエラはまだ死んではいないらしい。けれどマーレエラナとして自分がここに居ると言うことは結構危ないんじゃなかろうかと予想がつく。
『どうしたら戻れるんだ?』
呟いた声は彼女自身にもどこか遠く、ここに居る神々の誰にも届いていない。それによく見ればマーレエラナの体も透けている。やはり完全に天界に帰ってきたわけでもないらしかった。
『だから、誰にも見つからないのか』
さて、それはますます困ったな、とマーレエラナはどこか他人ごとのように思った。慌てなくてはいけないのだろうが、心は不思議と凪いでいる。
落ち着いた心のままに辺りを見回せば、会議室の中も外も、神々でいっぱいだ。よく見知った仲の良い神々も居れば、余り知らない神も沢山いる。皆必死で走り回り、水鏡を覗いたり、それぞれ手を繋いで何か神力を展開しようとしていたり、忙しそうだ。
運命の神は大丈夫だ多分と自信があるのか無いのかわからない事を言い、賭け事の神は俺は無事な方に賭けてるから! と言って他の神に蹴られている。手を合わせて神力を練っているのは妊婦や出産を助ける女神と子を守る女神だった。知の神は今更お産に関する本を部屋の隅で読んでいるし、海の神やら武神やら、居ても役に立たなそうな神々までが部屋の外の廊下をうろうろ行ったり来たりしている。
『リヴラウスまでいるって、すごいな』
なんと言の葉の神リヴラウスはついに引きこもりを止めたらしい。アウレエラの隣で無事に生まれる、母体も大丈夫、とそれだけを小さく繰り返していた。
それらを見ていたらマーレエラナは何だか段々可笑しくなってきた。不謹慎だとは思うのだが、何だかすごく愉快な気持ちになったのだ。
『……ふふ、あは、あはは』
くすくすと思わず笑いがこぼれる。だって、こんなに沢山の神々が一度に集まって、こんなに大騒ぎをしていたことがかつてあっただろうか。
世界の始まりの頃だって確かに色々混沌としていたけれど、もう少し秩序があった気がした。それなのに、マーレエラナ一人の魂が体から抜け出て行方不明になっただけで、こんなに大騒ぎが起こるなんて。
『あは、ははは……はは、私は、意外と皆に心配されていたんだな』
皆が心配しているのが世界の行く末だけではないことを、マーレエラナはもう知っていた。
本当は、多分六十年も必要無いことも、あんな風に半ば強引にマリエラを幸せにしなくたって別にかまわなかっただろうことも。
いや、本当はマリエラの存在だって、世界のためにどうしても必要というわけじゃなかったかもしれないことも。
『世界は、私が居なくたってちゃんと動くし、続くんだろう? そうだろう、アウラ』
答えはない。今のマーレエラナの声は誰にも届かないのだから。けれど、それで良かった。
『だけど、私の幸せな生を、君たちはただ願ってくれた』
鏡に手を当て必死でその向こうを覗くアウレエラに、その周囲の友に、彼女のために走り回る神々に、マーレエラナは静かに微笑んだ。
『……ありがとうな、皆』
神々の騒ぎをひとしきり眺め、そう呟いたあと、マーレエラナはゆっくりと振り向いた。後ろに自分を見つめている誰かの気配を感じていたからだ。
振り向いた途端全ての音が消え、辺りは暗闇になった。いや、正確には暗闇ではなかった。そこは、マーレエラナが誰よりもよく知った、星々の瞬く夜の空のただ中だった。
そして振り向いた先に居たのは、虹の色を映したのかと思うような派手な衣を身に纏い、真っ白で穴のないのっぺりとした仮面を付けた一柱の神だった。
「やぁ、マーレエラナ。久しぶりだ、僕を覚えているかい?」
「……ああ、覚えているとも。久しいな、ヴェリタルス」
マーレエラナは目を見開き、そして笑った。
「本当に懐かしい……創世記以来か? まさか、真実の神である君が姿を現すなんて」
「あはは、僕はまぁ、ずっと皆を見ていたからそんなに懐かしくもない気がするよ。どこにでもいて、どこにもいない、僕はそんな存在だからねぇ」
真実を司るヴェリタルスは人どころか神の前にすら顔を出すことがほとんど無いという神だ。始まりの神々はもちろん彼のことを知っているが、大半の神がもう随分会っていないと口を揃えるだろう。
「まぁ、僕は真実を求める者の前に姿を現すけれど、その姿は見る者によって違うからねぇ。会ってても気づかないなんてこともあるしね」
その七色の衣も白い仮面も、見る者によって姿を変える、そんな力を持っている。求める者の数だけ違う真実があると言うことを示すように。
マーレエラナは懐かしい友の仮面を見つめ、それから首を傾げた。
「真実か……君が現れたと言うことは、私が、真実を求めていると?」
「さぁ? 僕は知らないよ、だってそれを聞きに来たんだから。ねぇマーレエラナ、僕は君に問いに来たんだ。君が本当に知りたいことはなんだい?」
「唐突だな……そうだな、私が知りたいことは、この世界が神を必要としているのか否か、かな」
マーレエラナがかつてアルフォリウスにも語った言葉を答えると、しかしヴェリタルスは首を横に振った。
「それは君の問いの一面であるけれど、真実ではないね。ねぇ、君はどうしてそこに辿り着いたの?」
「辿り着いた……理由?」
マーレエラナが言葉に詰まると、それを見て取ったヴェリタルスがすっと手を大きく横に振った。
すると星々だけが輝く暗闇の中に、幾人もの人影が現れる。それはマーレエラナにとってはよく知った、けれど彼女自身は相対したことのない人々だった。
「……これは。これらは、もしかして私か?」
「そう。彼らは、かつての君だった者達。まぁ、ただの写し身だけれど」
その人影はみな、マーレエラナがかつて地上で人間として生きた時の転生体達だった。
聖女や王子だった時のように名の残る者もあれば、書家や占い師のように歴史から消されてしまった者もいる。ただの農夫のような姿をした者も、王女のように着飾った者も、神官の姿をした者もいた。もっと古く、もうマーレエラナ自身が忘れてしまったような存在の姿もいくつもあった。
そして、一番手前にはここ二十年ほど、ほぼ毎日鏡の中で見てきた顔がある。
「……マリエラは、こんな娘だったか?」
マーレエラナは不思議そうに呟いた。
金の髪も新緑の目もその顔も、鏡の中でよく見ている。けれど、全体をこうして外から見たのはもちろん初めてだ。マリエラのその姿は、マーレエラナ自身が思っていたよりもずっと健康そうに見えた。
「君や、君の周りの皆が頑張ったからね。だから君は本当はもう、君自身が思っているよりずっと普通の人になってるんだよ」
そう言われてマーレエラナはマリエラを見つめる。
それは歴史に名も残さぬであろう、ただの女だ。子を一人産むだけで生きるの死ぬのとあがく、当たり前の、どこにでもいるような。
けれど、そんな彼女を見ているとマーレエラナの奥からぽつりと湧いてくる言葉があった。マーレエラナは何かに導かれるように、それをそっと口に出した。
「普通の人、か。ああ、そうだな……私は本当は……自分が歩いた道のりが、ここにいる彼らの人生が、無駄ではなかったのかどうかが、知りたいのかもしれない」
「そうか……それが、君の求める真実かい?」
納得したように頷くヴェリタルスに、マーレエラナもまた頷いた。
「ああ。私は……長い神としての時間と、人としての刹那の時間とを繰り返しながら、いつも思っていたんだきっと。私は神なのに、生まれ変わって出来る事も成した事も、いつだって足りないことばかりだ。なぜ私はいつも上手く出来ないのだろう。世界も私も、何故いつまで経ってもこんなにも不完全なのだろう。もっともっと、自分には何か出来る事があったんじゃないか……この足りない事ばかりの人生に、果たして意味はあったのかと」
歴史に名も残さぬ多くの己を眺め、マーレエラナは自嘲する。ヴェリタルスはそれを静かに見つめていた。
「だからきっと、私は自分の存在意義を疑ったんだ。なぁヴェリタルス。私は……私たち神は、何故こんなに歪で、人間くさいのだろう」
小さく呟かれた言葉は淡々としていた。けれどそこには隠しきれぬ苦しさと、深い悔恨が滲んでいる。
「逆さ、マーレエラナ。神が人間くさいんじゃない。人間が、神と同じ心を持っているのさ」
そう言ってヴェリタルスは肩をすくめ、首を横に振った。
「だってそうだろう。人間もまた、我らが父に作られた存在なのだから。私たちは最初に作られた、彼らの兄や姉に過ぎないんだ。そして私たちは役割と力を与えられたが故に、同時に業を抱える事にもなった。それが、歪に見えるものの正体なのさ」
優しき地母神は時に他の追随を許さぬくらい苛烈で、愛と美の女神は心に添わぬ者を愛さない。
水の神は全き水でありたくて半身を愛しすぎ、その半身は流れる身故にどこまでも自由で。
知の神は知を失うことを恐れ、恋の神は恋に溺れやすい、言の葉の神はその力を恐れてほとんど言葉を発しない。程度に差はあるが、皆、その権能ゆえ抱えたそれぞれの業だ。ヴェリタルスはマーレエラナにそう語った。
「そして、それは君にももちろんあるんだ。星の女神……星天のマーレエラナ」
「私の、業……」
その言葉に導かれるように、己を成すものの奥底にあるものを、マーレエラナは見た。
そこには確かに業としか言いようのないなにかが横たわっている。それこそが、彼女自身を縛っているとわかる。
「私は、星の女神だ。だから……だから私は。ああ、そうか。私は……星を愛しすぎているのか」
「正解だよ。君は君であるが故に、全ての星を愛している。自分が生んだものも、そうでないものも。そして、人々の生きる星ノヴァと、そこに生きる全てのものも」
それが君の業だ、と囁くヴェリタルスの言葉を、マーレエラナは受け止めた。そして、星々の輝く空を見る。マーレエラナの瞳には、天にある星々も、地にある無数の命も、確かに等しく輝いて見えた。
「ああ……そうだな。その通りだ。私は、愛しすぎたんだ。親が子を愛するように、けれど多分、それよりもずっと深く」
「そうだよ。君は全ての星とそこに生きるものを愛し慈しんだ。それゆえに、愛するもの達を良き方へ導きたいと誰よりも強く願った。そしてその愛するものの中に……君は自分を入れなかった」
そうだ、とマーレエラナは深く頷いた。自分を入れていたら、あんな風に火花のように生きられたはずがないのだ。それが必要とあれば、その命もためらわず使うような、そんな人生を繰り返せたはずがなかった。
「けれど、それじゃ駄目なんだよマーレエラナ。親が子を愛するとしたら、その先にしてやらなきゃいけないことがあるだろう? 君なら、もうわかるはずだ」
「……親が子にしてやらなければいけないことか。本当に愛しているなら……信じて、手を離すこと、か?」
「そうだよ。それが君に出来なかった事。君は愛する余り沢山のものをその手に抱え込もうとしすぎて、それが叶わなかった自分を責めすぎた。だから君は満たされない。自分に足りないものを求めて、全ての愛するものをその手に掬う事を夢見て、自分を傷つけながら彷徨うだけだ。それが君を苦しめる傷の、真実だ」
そう言い切られた途端、ほろりとマーレエラナの目から涙がこぼれた。
本人がそう意識する間もなくそれは数を増やし、ぽろぽろと後から後からこぼれていく。
マーレエラナは驚きと共に星空に落ちていく無数の滴を見送った。
「ねぇ、マーレエラナ。僕は知っている。本当は、この世には完璧なものなんてない。父は我らを含め、世界をそう作らなかったから。だから正解なんて無いんだ。あるのは、そこにいる者と同じ数だけの真実だ。君が上手く行かなかったと嘆く人生の側には、君の知らない無数の真実がある」
マーレエラナが涙をこぼしながら顔を上げると、ヴェリタルスはマリエラをじっと見ていた。
「マリエラの側にいて彼女の人生を助ける沢山の人々は、皆それぞれの理由を持ってそこにいる。例えば、王子の君を守れなかった側近や騎士」
その言葉に、マリエラの兄と弟の姿がふと思い出された。
「いつか人質に取られ、己に力がないことを嘆いた君の家族」
優しく強い父と母の姿が思い浮かぶ。
「聖女の君の側仕えだったけれど、君を救おうとして追いやられた侍女」
浮かんだのはもちろんユリエだった。
「他にも沢山、本当に沢山いるよ。皆、快く君の周りに集った人々だ。誰もがただ、自分がかつて抱いた感謝や愛情、悔いを抱え、その人生を選んだんだ。記憶を持たず生まれ落ちても、それぞれの願いはその魂に刻まれている」
「……心を、人生を、背負わないでくれと、そう言われたよ」
あの秋の日に、そう言われたことを思い出す。あの日のユリエは、そう言って清々しく笑っていた。
「そうとも。それは彼らの抱える、彼らだけの真実を綴った物語だ。それを君が背負う事はできない。してはいけないんだ」
「私は……人の分まで背負おうとしすぎていたのか」
「ああ。君は、君の分を背負えばそれで良かった。あとはそれぞれが背負い歩くものだ。例えどこかで躓いても転んでも、それを見守るのが真実の愛ってもんさ」
そう語る声はどこまでも優しく響く。マーレエラナはヴェリタルスに頷き、無数の星空を仰ぎ、それからもう一度かつての自分だった者達を見た。
「いつの世も、色んな人がいたな。加護がある人も、無い人も、あると知らない人も。良い奴も、悪い奴もいた……皆、ただ生きていた」
今世で出会った人達の顔がマーレエラナの脳裏を過る。
家族も、友も、支えてくれる人達も、通り過ぎるだけの人も。皆、マリエラの知らないそれぞれの答えを持って、その人生を生きていた。
「私は、ずっと正解を探し続けていた。失敗したと思った沢山の人生の中に、本当はもっと正解があったんじゃないかと悔い続けてきた。でも、きっとそんな物は本当はなかったんだな。正解かどうかなんて、本当は誰にもわからない……続く未来の果てで、誰かが付ける名なのかもしれない。私は、生きた。どの生でも懸命に。なのに誰よりも私が、それを認めていなかったのか」
「君は真面目過ぎるね、ほんと。トトリテスくらいのいい加減さで良いんだよ」
賭け事の神を引き合いに出され、マーレエラナは思わず吹き出す。さっき誰かに蹴られていた姿を思い出したからだ。あそこまでいい加減にはなりたくてもなれないと思いたい。
「そうだな……うん。もう止める。私は頑張ってた。いつも頑張って生きた。私の人生はどれも無意味でも無駄でもなかった……きっと、誰もがそうだ。人も、神も。正解のない世界を、ただ懸命に生きてる」
「そう、時にその道や心がふれあい、新しい何かを生み出したり壊したりしながらね。それでいいんだよ。そうやって答えのない日々を、側にいる誰かと手を繋いで歩くだけだ」
僕はそれを見るのが好きだ、と穏やかにヴェリタルスは笑う。顔は見えないのに、笑ったと何故かマーレエラナにもわかった。だから、彼女もまた鮮やかな笑顔を浮かべた。いつの間にか涙は止まっていた。
「ああ。ありがとう、ヴェリタルス。私は、ちゃんと私とも手を繋いで歩くよ。私は、今までの全ての私を許す。そしてちゃんと、私を愛することにする」
ありがとう、私。これからも、どうぞよろしく。
マーレエラナがそう言って差し出した手を、写し身のはずのマリエラが笑顔で取った。そしてどちらからともなく抱きしめ合い、ゆるりと溶けていく。
神としてでも、人としてでもなく。ただ一つの存在として、マーレエラナは今初めて自分を認め、許し、愛した。ゆっくりと、その魂についていた最後の深い傷が消えていく。
マリエラと溶け合いながら、自分がまた地上へと戻れる事がわかってマーレエラナは安堵し微笑んだ。
神として生まれ、人として生きる。刹那の時間だけれど、それでも愛しき時間だとマーレエラナにも今は素直に思えた。どんな時間も、二度と出会えないかけがえのない時だ。
マリエラと一つに戻る寸前、マーレエラナは顔を上げてヴェリタルスを見た。
「いってらっしゃい、マーレエラナ」
そう言って笑う彼の虹の衣は輝く白に、そしてその輝きに紛れてよく見えない笑顔は、遠い昔に見たきりの、父たる神によく似ている気がした。
「――ありがとう」
告げた言葉は、白くなる空に溶けて消える。
どこか遠くで、新しい世界に出会った赤子が高らかに泣く声がした。




