22歳:(13)手渡さぬ願い
マリエラはこの所随分と涼しくなった庭をゆっくりと歩いていた。
少し後ろを心配そうなユリエがついてくる。腹はもう随分重くなってきて動くのも面倒なのだが、医者に少しでも動いてなけなしの体力を維持するように言われているのだ。
子供のためならとマリエラも渋々納得し、庭の散歩だけは一日に一回は必ずする事にしていた。しかしそろそろ何をしてもあちこち重くなってきて、腰も痛くてめげそうだ。
マリエラは庭の片隅の東屋までを毎日の目標と定め、今日もどうにかそこまではたどり着くことができた事を喜んだ。
マリエラの為に用意されたクッションの置かれた椅子に座ると、ユリエが持ってきたバスケットから瓶を取り出し、果汁を少し薄めた爽やかな飲み物を入れてくれた。
「はぁ……疲れるわ」
「もう少しの辛抱にございますよ、お嬢様」
「早く出てこないかしら……」
「予定より早くなったら大変でございます。我慢してくださいませ」
「世の中の全ての母親に心からの敬意を払うわ……自分がなるなんて思ってもみなかったけど」
マリエラがユリエ相手にぶちぶちと愚痴っていると、庭の奥から庭師の老人とニックが連れ立って歩いてくるのが目に入った。
ニックはここにやって来たときの宣言通り領内を仲間と共にくまなく回って今年の収穫を無事前倒しさせ、先日領主屋敷まで戻ってきたばかりだ。戦が始まる前に確かに避難してきたが、領地から去るつもりはまだないようだった。
領内のどこかで起きている騒動の喧噪は、兄達の周到な根回しの甲斐あってここまではまったく届いてこない。少しばかり寂しいような心配なような気持ちはあるが、身重のマリエラに出来る事は何もない。マリエラに出来る事は日々を出来る限り健康に過ごす事と、こうして時折客人と交流することくらいだ。
「ごきげんようニック様」
「ごきげんようお嬢様。ニックでよろしいですよ」
神官に対する礼をとったマリエラに、ニックは居心地悪そうに苦笑を浮かべた。そんな元庭師をマリエラはくすりと笑い、そして隣にいる老庭師に視線を向けた。
「ウル爺も久しぶりね」
「お久しぶりでございます、お嬢様。お加減はいかがですかな」
「悪くはないけれど、良くもないわね。体は重いしあちこち痛いし……でも、いつも通りよ」
マリエラがそう言うと、ウルディは顔をくしゃりと歪めてくつくつと笑った。
「それはようございました」
「ええ。それよりウル爺、まだ辞めてなかったのね。元気そうで良かったわ」
「わしはこの庭が何より好きですからな。天に召される日まで、お世話になるつもりでおりますよ」
笑いながらそう語るウルディの顔は良く日に焼け、どこもかしこも皺だらけだ。笑えばどこが目なのかも定かではなくなる。けれどマリエラはその長年外で働いてきた職人らしい顔がとても好きだった。
「お二人とも、良かったらどうぞ少しお茶に付き合って下さいな。私、とっても暇で困ってますの」
そう言って席を勧めると二人は笑いながら東屋の中に入って椅子に腰を掛けた。
「今ちょうど大先生に、最近育てておられる植物について話を伺っていたところです。少し種と苗を譲って頂けることになりまして」
ウルディはニックにとっては直接の親方ではなくその上の隠居に当たる。ニックがここで働いていた時には彼はすでに息子に親方の地位を譲り、ただの庭師として仕事をしていたからだ。しかしその知識や経験は大いに価値のある敬うべきもので、ウルディはレイローズ家の庭師達からは大先生と呼ばれて今でも慕われていた。
マリエラにとってみれば、彼女が生まれた時からすでに老人だったウルディは、ずっと変わらずウル爺なのだが。マリエラは温かな香草茶を受け取りながらウルディの方を見て首を傾げた。
「ウル爺は、相変わらず気の長い事が得意なのね」
「はっは、気が長いのがわしの唯一の取り柄ですからな。それをとったら何も残らんですよ」
「何か荒れ地でも育つような物を作ったの?」
「ええ、ここのシラジロオバナを改良して、大概の荒れ地で順調に増え、増やしてから地に漉きこむと良い肥料になる草をお作りになったそうで」
「アレはとにかく丈夫な草ですからな、荒れ地にはちょうど良かろうと。いや、ニックがここに帰って来てくれて良かった。天に召される前に、渡すべき相手に渡す事ができた。これもきっと天の思し召しだろうの」
「大先生の研究の成果を譲って頂けるなんて、私こそ本当に有り難い限りです」
ニックはそう言って神妙に頷き、大切に育てると何度もウルディに告げた。
「わしの育てた植物がどこかで誰かのお役に立つなら、それほど嬉しいことはない。お前さんが土地を愛し、日々励めばあれらもちゃんと応えてくれる。よろしく頼むぞ」
「はい。心に刻みます」
話も弾み、二人に二杯目のお茶を勧めた頃、マリエラはふと気になった事をウルディに問いかけた。
「そういえばウル爺。ウル爺は、加護って持ってるの?」
その問いにウルディはしばし考え、首を横に振った。
「神のご加護ですか。さて、もしかしたらあるかもしれませんが……もう随分と昔に、確かめることを止めたのでわかりませんなぁ」
「あら、じゃあ私と同じね。何故確かめるのを止めたの?」
「うむ、何でだったか……いや、別に大した理由があったような気もしませんな。単に面倒くさくなっただけかもしれません」
その飄々とした物言いにマリエラはくすくすと笑った。ウルディも、小さい頃から見てきたお嬢様の変わらぬその微笑みに笑顔を深くする。
「ああいうのは若いうちには確かめますが、気が済めばそれで良くなるようなものです。加護があってもなくても、わしらの仕事は特に変わりはしませんしな」
「加護があったら良かったと思うことはないの?」
マリエラがそう問うと、ウルディは笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと天を仰いだ。
「加護なら、もう沢山もらっておりますしの。こうして、毎日当たり前に朝がきて、夜が来て、日が過ぎていく……わしが植えた花は季節が巡れば忘れず花を咲かせ、鳥や虫たちが来ては、実を付けるのを手伝ってくれます。わしには、それらはみんな天におわす神々の加護に見えますよ」
「……そうね」
「この世の全てが、大したずれもなく緩やかに動き、繰り返し。これが神の御手によるものでないなら、それこそどんな奇跡だと言うんです? わしにとっては種が芽吹くことすら、この年になってもなお不思議だというのに」
そう言ってウルディは眩しそうに目を細め、自分たち庭師が丹精した花々を愛おしむように見つめた。
「こうして生きているだけで、わしらは神々の加護と共にある……わしは、それを疑った事はないのです。そして、不足に思ったことも。わしはいつもこの庭にそれを教わりました」
「……素敵な仕事ね」
「そりゃもう! 最高の仕事ですよ、お嬢様。何よりこうして、お嬢様の目を楽しませる事ができるのですから」
「いつもありがとう。私が運動する気になるのも、貴方達のおかげよ。感謝しているわ」
「光栄です、お嬢様」
庭の方へ戻っていく二人を見送り、マリエラもゆっくりと東屋をあとにし、館の方へと歩き出した。ウルディらに世話をされてきた秋の庭は少しずつ色を変え、それでもマリエラの目を楽しませてくれる。
温かな色合いの秋の花を見る度、当たり前の日々を神の加護だと尊ぶ老人の顔が、マリエラの脳裏に何度も目映く浮かんだ。そして、あんな風に当たり前の日々をそう受け止めて生きられない今の己と、どうしても比べてしまう。
「私は、わがままね」
マリエラがぽつりと呟くと、後ろでくすりと笑う声が聞こえた。振り向くとユリエと視線が合う。ユリエは微笑んだまま、首をゆるりと横に振った。
「お嬢様がわがままなら、世のおおよそ全ての人がわがままですよ。お嬢様ほど貴族女性らしくない方はそうはいませんし」
確かにマリエラは衣装や装飾品にも日々の生活での贅沢にもほぼ興味を示さない。仕方なく周りが勝手に用意しているくらいだが、それも最低限の物だけだ。確かにそう言う意味ではわがままではないかもしれない。しかしそれでもマリエラの心は晴れなかった。
「けれど私が動けなかったから、ユリエのように私の世話でここから離れられない人が沢山いたでしょう? ニックもこんなところまで帰ってこさせられて……私がここに居なかったら、また違ったのかも知れないと思うのよ」
今もどこかで兄や弟達が戦っているのかもしれないのだ。シャーロットも数日前からエリアルスの祭壇に向かって、地図を片手に懸命に祈っている。
自分が動かないことを選んだその結果を、誰かに背負わせてしまったのかもしれない。それを後悔するマリエラに、ユリエは近くなってきた館の窓を見上げ、言葉を紡いだ。
「お嬢様、私たちには選択肢がありました」
「選択肢?」
「ええ。ご領主様や若様が最初に仰ったんです。領地から王都や他に避難したいと思うなら、遠慮せず言いなさいと」
「お父様達がそんなことを……」
目を見開いたマリエラに、ユリエは頷いた。
「家族が心配な者、戦が恐ろしいと思う者、明確な理由がなくてもここを離れたいと望む者。理由はそれぞれ何でも良い。その心はお前達のものなのだから、無理をする事はない。ここを離れても事が終わればちゃんと元の部署にもどすし、他の者にも決して非難はさせないと、そう仰って頂きました」
だから、とユリエは続ける。
「お嬢様。私は選びました。私の居場所はお嬢様の側です。私はここに居たいから居るのです」
「でもユリエ……私、もしかしたら頑張れば移動出来たかもしれないのよ。けれど私には知りたいことがあって……その自分の願いの為に動かなかったの。そうだとしても、ユリエはそれでいいの?」
「もちろんです。お嬢様の願いがなんであろうと、それは私の願いとは関係ありません。お嬢様の側に居たいというのは、私自身のわがままなのですから。ずっとお嬢様のお側にいて、お世話をしたい。それは私の……私だけの、誰にも奪わせない、わがままな選択です」
「ユリエ……」
「お嬢様ったら、そんな顔をなさらないで下さい」
自分がどんな顔をしているのかマリエラにはわからない。けれど、視界の中のユリエがじわりと滲むのはわかった。ユリエは優しく微笑み、昔よくそうしてくれたようにマリエラの髪をそっと撫でた。
「お嬢様。どうか、背負わないで下さい。私たちの心まで、その人生まで。これは私のものなのです。他の者もそうです。ここに居る者は皆、今ここで生きる事を選んだのです。私の夫も子供達も、いつも通りの日々をここで過ごしていますよ。そして、ここで死んでも決して後悔はしないでしょう」
そう言って胸を張るユリエの顔は、どこまでも晴れやかだった。マリエラにはそれがひどく眩しく感じる。
「もし……もし後悔したら?」
「そうだとしても、その後悔すら私のものです。勿体ないから、お嬢様にだって分けてあげませんよ!」
マリエラは何だか堪らなくなってユリエに手を伸ばし、ぎゅっと抱きついた。
同じようにマリエラを抱きしめ返して、ユリエが笑う。
「お嬢様。元気なお子を生んで下さいね。そして、お嬢様も生きて下さい。それが私の今の一番の願いです」
「……ありがとう、ユリエ。ユリエのその願いは、きっと私の願いよ……私、頑張るわ」
秋の庭はひんやりと静かで穏やかで、少しだけ寂しい。
その空気の中でお互いの体温はどこまでも温かく、マリエラの心に優しい火を灯してくれるようだった。




