22歳:(7)足跡の花
「お嬢様、お客様がお見えなのですが……」
ある日の午後、自室で領地に関する報告書を読んでいたマリエラは若い執事にそう声を掛けられ首を傾げた。
「お客様? 今日は誰か訪ねてくる予定があったかしら?」
「いえ、予定にはありません。ですが訪ねてこられたのは地神殿の神官様でして……以前この屋敷で働いていた事があり、久しぶりにこちらに戻ってきたのでできれば領主様か奥様にご挨拶をということなのですが」
マリエラは少し考えてから頷いた。
「お母様はお出かけだから、私がお会いするわ。応接間にお通ししてちょうだい」
「かしこまりました」
今日は体調が比較的良いと言うこともありマリエラは自分が会うことに決め、簡単な身支度をユリエに頼んだ。すぐにユリエが夏用の薄い上着を取りに席を外す。
マリエラはその後ろ姿を見ながら、訪ねてきたのは誰だろうかと考えを巡らせた。客を案内しに行った若い執事はまだこの領地屋敷に勤め始めてから数年だ。彼が知らないと言うことは、もっと昔にレイローズ領を離れた人物なのだろうとそこまでは予想がつく。しかしマリエラが生まれてからというもの、レイローズ領内に誕生した神の加護者はかなりの数に上る。領内に残って仕事をする者も多いが、神殿に請われて神官になったり、領主に頼まれ遠い土地に派遣されている者もたくさんいる。
「あまり人に会わない私が考えてもわからないわね」
わざわざ挨拶に来るほど領主家と近しい人間がいただろうか、と考えながら、マリエラは客に会うために自室を出た。
応接間の扉の向こうでマリエラを待っていたのは、初老というにはまだ少し早い年齢の、どこにでもいそうな茶色い髪で痩せた体躯の神官姿の男だった。
「ようこそいらっしゃいました神官様。お待たせして申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ突然の不躾な訪問で、誠に申し訳ありません。お会い頂けて光栄です……お久しぶりでございます、お嬢様」
そう言って男はソファから立ち上がって深々と頭を下げた。
マリエラはその男の顔をまじまじと見つめ、そしてその胸に下がる簡素な水晶のペンダントに視線を下ろした。町中の庶民向けの土産物屋にありそうな、けれど多分どこにもないそれに、確かに見覚えがある。
「……貴方、ニックね?」
マリエラの記憶の奥底から一つの名前が浮かび上がる。
いつかと同じように紡がれた彼女のその言葉に男は目を見張り、それから破顔した。
「憶えていて下さいましたか……マリエラお嬢様」
男のまなじりに光るものが微かに浮かんだ。
彼は、かつてマリエラの隠れ蓑として加護を与えられたレイローズ家の庭師、ニック・ウォールだった。
ソファに向かい合いお茶を勧めながら、マリエラは不思議な気持ちでかつて自分が手渡したニックの胸のペンダントを眺めていた。
わずかに薄茶の色がついた透明な水晶を革紐で吊しただけの、素朴と言えば聞こえが良いがいっそみすぼらしいとさえ言えるような代物だ。けれどそれはかつてマリエラが地母神の力を固めて作った、一種の神器とも言うべき欠片なのだ。小さいながらにその石は確かな力を未だ内に秘めている。マリエラは内心ではそのことに驚きを覚えていた。
「……まだ、持っていてくれたのね、そのペンダント」
「ええ、大切な物ですから。お嬢様が別れの日に下さった、何よりのお守りです。不思議とこの石に救われたのではないかと思うことが、これまでの人生で何度もありました」
ニックはそう言うとペンダントを手にとり、本当に大切そうな眼差しで見下ろした。
それを見ているマリエラの方が少しばかり気まずくなってそっと視線を逸らしてしまうような、そんな表情だった。
それはマリエラにとっては別に大した物ではない。ただアウレエラに頼まれたからちょっと力を固めて紐でくくっただけの、それがあれば確かに彼の行く先でアウレエラや他の地神が力を下ろしやすくなって神の側が助かる、というだけの物なのだ。しかもニックはマリエラの存在を隠すために加護とそのペンダントを与えられたというのに。なのにそれをそんなにも大切そうにされると、さすがに申し訳ない気持ちが湧いてくる。
しかも、その石は実は持ち主の心を反映しやすいという性質を持っている。つまり石がまだ透明なまま女神の力を宿しているというのは、彼の心根がそれだけ清く保たれてきたと言うことだ。マリエラの身代わりのようにあちこちをたらい回しにされたはずなのに。
「……長年各地を回って、荒れた土地を耕し、豊かに戻す事をしてこられたとか? 本当に、大変なお役目を続けて下さったそうで、感謝致します」
マリエラがそう言って微笑むと、ニックもまた笑って首を横に振った。
「私一人に出来ることなどいくらもございませんでした。神々のご加護と、共に荒れ地を耕してくれた多くの人々の力あってのことです」
そう言って微笑む彼の顔は、まさに聖人と呼ぶに相応しい清らかさを宿している、とマリエラには思えた。
(地母神の加護者のくせに何もしない私より、遙かに聖人だな)
マリエラは何もしないというよりはできないのだが、彼の歩んできた道のりの険しさを思うと、思わずそんな風に自嘲してしまう。聖人だの聖女だのになったら彼女は確実にもう死んでいただろうが、それでも自分の代わりにその道を歩かせられている男を目の前にして、平静を装うのは少しばかり難しい。
「……それで、戻ってこられたということは、お勤めになる神殿が変わったと言うことなのですか?」
小さなため息を押し殺してマリエラは話題を変えてそう問うた。しかし帰ってきた答えは、彼女の予想しないものだった。
「いえ、そういうわけではないのですが……実はこの度、恐れ多いことに神託を授かりまして。しばらくこの地にとどまることになりましたので、ご挨拶と……その、恥ずかしながらしばらくの逗留をお許し願えないものかと」
「え……神託? それでここに? ええと……その、しばらくとは一体?」
考えてもいなかった言葉にぱちぱちと目を瞬くマリエラに、ニックは困った顔で頭を下げた。
「はい、ある日天からの声を頂きまして……しばらくの間この地に戻って仕事をせよと。期間までは指定されませんでしたが、おそらくはこの秋の収穫が終わるくらいではないかと考えております」
はぁ!? と素に帰らなかった自分を褒めたい、とマリエラは奥歯を噛みしめながら思った。
(これから戦争になるかもっていう場所に加護者を帰すなんて、何考えてんの天は!? まさか肉盾にして使い潰すとか言う気じゃないだろうな!? もしそうなら対策室の上に星を落とすぞこの野郎!)
背信教の信者達が領内に攻め込めば、真っ先に狙われるのは神殿や加護者達だ。だからこそレイローズ領では昨年から少しずつ加護者達を説き伏せては領外に避難させてきたのだ。それをここに来て神託だなどと言って覆されてはたまらない。守る相手が増えて困るのはレイローズ家率いる領軍なのだから。
天の考えがわからず、困惑しつつもマリエラはそれを顔に出さないよう必死で取り繕って上品に首を傾げた。
「この領地に危険が迫りつつあるのはご存じなのですよね? それなのに、ここに留まりたいと?」
「ええ。だからこそ、私達に出来ることがあると神託を受け、馳せ参じた次第です」
「……私達?」
「はい、その……私のような者が、他にも沢山おりまして。そのせいでどこの神殿の宿舎ももういっぱいなのです。一応実家がここにある者が大半なのですが、故郷を離れて久しいとなると泊めてもらえる部屋がない者も多く……なので、溢れた者をどうかこちらの使用人宿舎にでも厩の片隅にでもしばらく逗留させていただけないかと、厚かましくも昔のよしみで私が代表してお願いしにきた次第でして」
あまりの意味のわからなさに、マリエラは頭痛を堪えるように額を押さえた。
確かに神々とその加護者と、自分との賭けだとマリエラはかつてそうエリオットに告げた。しかしこう来るとは思っていなかった。
「逗留に関しては構いませんが……けれど、これから戦になるかもしれないという土地で、失礼ながらあなた方に何が出来ると仰るのです? 狙われているのはあなた方加護者なのですよ?」
「もちろん、それは承知の上です。私達に出来るのは、ごく限られた事だと言うことも。けれどお嬢様……私達はこの地を守りたいのです。私を育て、加護を与えてくれた、この土地を。そして快く送り出して下さったこの家の方々を。まぁ、そうは言っても私に出来ることなど今までずっとやってきたように、ただ作物を育てることだけです。恐らくはこの領内の農地を回り、収穫時期が少しでも早まるよう世話をし祈りを捧げるくらいの役にしか立たないでしょう」
「収穫時期がずらせると言うのなら、それは確かに助かるでしょうが……それでも、危険はあるのですよ?」
「ええ。ですからそれが終わったならご迷惑をおかけしないように、自分で避難するつもりでいます。どうかそれまで、ここに留まることをお許し頂きたいのです」
そう言うとニックは深々と頭を下げた。マリエラはどうしたものかと彼女にしては珍しく途方に暮れ、思案するように顔を背けた。それにつられるようにニックも庭の方に視線を向け、そして小さく微笑んだ。
「ああ……懐かしいですね。まだあのシラジロオバナはああしてこの庭に咲き続けているのですね」
視線の先の庭には、かつてマリエラが大繁殖させてしまった白く素朴な花が、今も絨毯のように広がっている。
「こちらで働いていた頃、何故か毎日広がり続けるあの花には本当に悩まされました……けれど、ここを離れて荒れ地を耕しながら、その困難さにくじけそうになる度、思い出されたのはこの庭の風景でした。いつか、長い戦乱によって荒れ果てた地をあんな風に花で埋めたいと、私はそれだけを願って歩き続けました」
その言葉にマリエラはニックの横顔を見つめた。その眼差しは荒れ果てた地を歩き続けた人間のものとはおもえないほど穏やかだった。
「……あなたは、自分をこの庭から引き離し、その険しい道に誘った神々の加護を疎ましく思うことはなかったのですか? 荒れ地を転々とさせられ、その上こうして危険な地に戻れなどという無慈悲とも思える神託を与える天に、何も思うところはないのですか?」
マリエラがため息と共にそう問うと、ニックは彼女に視線を戻した。茶色の目は穏やかな光を湛えてマリエラに向かう。記憶の中の、五歳ほどの彼女の姿を思い返しているかのような優しい眼差しで。
「そうですね……辛いことは、確かに数多くありました。その度に、何故自分がとも思いました。自分の中に神に見いだされるような清いものが本当にあるのかと疑ったことも数えきれません。私はごく普通の、どこにでもいるただの男で、平凡な庭師に過ぎませんでしたから」
「貴方は優秀な庭師だったと、父は残念がっていました」
マリエラの言葉に、ニックは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。けれど、私はそうして疑いながらも……あちこちの神殿を渡り歩き、その土地の人々と共に地を耕し、種を蒔き、そして共に収穫を喜び……幸運に恵まれ、私と共に歩んでくれる人と結婚もしました。そしてある時ふと気づいたのです。私の歩いた後にぽつぽつと花が咲く……いつか夢で見たあの光景がまだ限られた範囲ではあっても、もう実現している事に。けれどそれは多分特別な事でも何でもなく、多くの人々がただ懸命に歩む、その道に残るごくありふれた光景なのだということに」
ニックが夢に見たと言う光景がどんなものなのか、マリエラにはわからない。
けれど、それはきっとかつてマリエラが歩んだ沢山の人生の中で、ふと振り向いたときに見えたものと似ているのだろうという気がした。
「加護があってもなくても、一人の人間がその人生で出来ることなどきっとそう多くはない。人は、自分が生きる意味などわからずにただ懸命に日々を生き、歩き続ける……その歩いた道がどんな意味を持つものだったのか、生きている内に知ることができる者はきっとごくわずかで、それは幸運な事なのでしょう」
「そうね……ここにある生に意味など無いと言う者も多いでしょうね」
「ええ、だからこそ加護というものは、それを知る手助けをしてくれるものなのだと、今の私はそう思っています。私は加護を授かり、それを知る幸福を得ました」
マリエラはその言葉を、ただ黙って聞いていた。
「私を導いて下さった神が、ここに行けと仰った。だから私はここにいます。それは、私の意思です。私はここで生まれ、育ち、そして旅立ち……今また自分の意思で帰ってきた。それが全てなのです、お嬢様。もしここで私が死んでも、その後にはきっと花が残るでしょう。例えその花が取るに足りず、人の目にも止まらず消え去ったとしても、そこには確かに幾ばくかの意味があったのだと、私だけは知ってます」
それで充分なのです、と笑みと共に告げられた言葉はマリエラの中に深く沈む。彼のその気持ちを否定出来る言葉は彼女の中にもまた見つからなかった。
マリエラはただ、ニックの笑顔を黙って見つめていた。
自分で書いていて時々温度差に風邪引きそうな気分になる時が。




