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22歳:(6)彼が守りたいもの

「マリねぇ、これ、何か適当な細長い布に刺繍して!」


 バン、と勢いよく部屋の戸を開け放ち、そう言って走ってきたのは久しぶりに会う弟のカインだった。

 自室でのんびりと編み物をしていたマリエラは呆気にとられた顔で突然現れた弟を見つめ、差し出されたその紙をとりあえず受け取ってため息を吐いた。

「……カイン、貴方いつ帰ってきたの? 今年の夏は帰らないんじゃなかったの?」

「いつって、今。別に今年は帰らないなんて言ってねーし。兄上は帰ってこないけど、俺は夏中ここにいるから! ところで何で部屋変わったの? 探したんだけど」

 カインはそう言って勝手知ったるとばかりにマリエラの目の前にあった長椅子にごろりと横になり、テーブルの上の菓子に手を伸ばした。

 マリエラはいつもながらの弟の行儀の悪さにため息を一つ吐き、質問には答えず立ち上がってその耳を摘まんでギュッと引っ張った。

「いててててて、マリねぇ、痛ぇって!」

「私のお気に入りの長椅子を汚すつもり? せめて着替えをして旅の汚れくらい落としていらっしゃい。それまでは部屋に来ないでちょうだい」

 耳を引っ張ったまま笑顔で静かに凄まれる。口調はあくまで穏やかだったが、それがかえって有無を言わさない雰囲気を湛えていた。

「カイン、返事は?」

「わかった、わかりました! すぐ着替えてきます!」

 この姉に頭が上がらないカインは慌てて起き上がり、耳を離してもらうと転がるように部屋を出た。

 ひりひりする耳を擦りながら、言われた通り着替えでもするかと仕方なく自分の部屋に向かう。しかし歩き出した途端、そういえば着替えられるような服が荷物にない事にふと気が付いた。

 カインは騎士学校が夏の休暇に入るやいなや適当にまとめた荷物を持って飛び出し、供もつけずに領地を目指して馬を駆ってきたのだ。荷物の中に多少の着替えはあるが、野宿も含んだ道中でみんな使ってしまって汚れたままだ。自室には去年着ていた夏服があるだろうが、カインは成長期で毎年にょきにょきと背が伸びている。まだ着られるだろうか、と考えながら歩いていると見知った従僕が歩いてくるのが視界に入った。


「あ、ちょうどいいとこに。なぁ、俺の部屋の服って、着れそうな夏物あるか知ってる?」

「カイン様!? いつお戻りに?」

「今。まっすぐマリねぇのとこに顔出したら着替えてこいって叩きだされた」

 従僕はカインに近づくと納得したように頷き、カインの部屋とは違う方向を指し示した。

「カイン様、この夏場に水も浴びずに旅をなさいましたね? 大層匂っておいでです。すぐに風呂と着替えをご用意致しますので、とりあえずこちらへどうぞ」

「え、そうか? でもマリねぇは匂いの事は何も言わなかったけど……」

「マリエラお嬢様はカイン様に大変お優しくいらっしゃいますから」

「すっげー耳引っ張られたけど」

 カインが片手で耳を擦りながら口を尖らせると、従僕はくすりと笑いを零した。

「リアンナ様に見つかったら庭に放り出されて頭から水を掛けられていたんじゃないですかね」

「うへぇ、ありそう。リアねぇは今日は?」

「街の施療院へ慰問がてら治療の手伝いにお出かけです。ところでカイン様、もしかして側仕えも護衛もつけずに戻っていらしたんですか?」

「あー、学校終わってからその足ですぐ出たからな。家に帰んの面倒だったんだよ。兄上に借りてた馬が学校の厩舎に丁度良くいたし、一人の方が早いしな」

 休暇に入るカインを馬車で迎えに行っただろう王都の側仕え達の災難を思い、従僕は思わず頭を横に振った。ため息を吐くような事はしなかったが、カインを風呂に入れたらすぐに執事に頼んで王都屋敷に連絡を入れて貰わねばと頭に刻む。カインはそんな従僕の内心など知る由もなく、呑気に新しい馬の良さを語っていた。


「あ、そういえば、最近マリねぇの具合どう?」

「このところそう悪くはありませんよ。少し前は痩せられて皆心配しておりましたが、大分食欲も回復なさって、部屋の温度を調整できるようになってからは良く眠れるようになられたようです。けれどまだ悪阻のため日によって食欲や体調に差があり、匂いに反応したり空腹時に気分を悪くされるようですので、皆気を付けております。カイン様もどうぞ匂いや香水などにはお気を付け下さい」

「え、もしかしてさっきのまずかったかな?」

 自分が発していた汗臭さなどには全く無頓着なカインだったが、もしかしてマリエラは気分を悪くしただろうかと思わず心配になって姉の部屋の方を振り返った。

「今頃侍女たちが必死で換気しているかもしれませんね」

 従僕は笑顔でさらりとそう告げた。

 レイローズ家の使用人たちは長くいる者が多く、誰もが大変有能かつ主一家に忠実だが、同時に結構遠慮がない。

 特にカインに対しては、幼少期からその奔放な性格で周りを振り回し、かつはっきりとものを言わないと全く理解も反省しなかったため、時には厳しく叱りつけてもいいと執事から下男下女に至るまで主であるマイルズに許可されている。

 庭を破壊しては庭師に拳骨を貰い、カーテンを破いては執事に追いかけられ、泥だらけで家に入れば侍女達につまみ出され、度重なる盗み食いに怒った料理長に辛子入りの菓子を罠として仕込まれたこともあった。

 このまま風呂に入らず姉の部屋に戻れば、今度は確実に侍女達に水を掛けられる事だろう。

「……風呂入るか」

「ぜひそうなさって下さい」




 カインが身支度を整え姉の部屋を再び訪れると、マリエラは椅子に腰かけて刺繍の道具を用意しているところだった。身ぎれいになった弟を見てマリエラは笑顔を浮かべ、ソファに招いた。

「ユリエ、カインにお茶を入れてあげて。私には何か果物を少し貰えるかしら」

「かしこまりました」

 ユリエは手早くカインのお茶を用意すると、マリエラのための果物を取りに部屋を出て行った。カインは姉の向かいに座り、目の前に置かれた菓子に手を伸ばした。今度はマリエラもそれを止めず、他の物も弟に勧めてる。

「こっちも美味しいわよ。王都から早駆けしてきたなら疲れたでしょう。馬は乗り換えながら来たの?」

「ありがと。まぁ疲れたけど平気だよ。馬はこの前兄上が貰ったすげぇ良い奴借りてきたから全然元気だった」

 もちろんその馬は、先日レイルが無事に縁組を成立させてやった某家からの贈り物だ。半ば見捨てかけていた嫡男に思いもよらぬ良縁をもたらしてくれたことを喜んだ親からの贈り物は、カインにもすぐ懐きとてもよく走ってくれた。

「そう。カインの無茶に付き合ってくれる馬なんてとても貴重だわ。大事にしなさいね」

「……はい。馬番に預けてきたけど、後で見に行ってくるよ」

「それがいいわね」

 弟よりも馬の方が心配されているような気もしたが、確かに馬を酷使したという認識もあるのでカインは素直に答え、マリエラも笑顔で頷いた。


「ところで、しばらく会っていないけれど向こうの皆は元気かしら。ロッティや子供たちはどうしているの?」

「えーと、元気なんじゃないかな多分。休暇に入るちょい前に会った時は、義姉上は下の子の夜泣きがとかなんとか言ってた気がするけど、でも元気そうだったよ。兄上も義兄上に色々手伝わせながら元気に仕事してたし」

「それなら良かったわ。お兄様はいいのよ、面白い仕事があれば逆に元気になる人だから。マークが付き合わされて困ってないかは気になるけれど……後でまた手紙でも書いておこうかしらね」

 その性質を良く知っているマリエラは兄については欠片も心配していなかった。だがそれに付き合わされて書類を書かせられているだろう夫の事は心配なので、後で手紙と共に菓子でも送ろうかと思う。

「あ、そういえばマリねぇ、兄上に何か刺繍のハンカチとか贈った? なんかすごそうなやつ」

「どうすごそうなのか良くわからないけど、お兄様には以前から色々頼まれているから細々とした物を送っているわよ? タイやハンカチや、シャツの襟や袖への刺繍や……刺繍のくるみボタンなんかもあったかしら」

「見ただけでなんか色々べらべら余計なこと喋っちゃいたくなるような奴?」

「あら、そんな危なそうな物は作ってないわ。私が作ったのはそうね……身に着けていると何となくほんの少し人の信用を得られやすくなるかもしれないとか、模様を目にすると何故か心が解放されて若干口が軽くなる気がするとか、その程度の品物かしら」

「変わんないし! 良いのかよそんなの作って!」

「大丈夫よ。どうせ効果があるかどうかもわからない、ほんの気休め程度のおまじないだもの。そんな他愛のないまじないを取り締まる法律などありはしないわ。それに、それを上手に使って話を膨らませられるかはお兄様の手腕じゃなくて?」

 絶対すごく効果があったはずだ、とそれが使われる現場を見たカインは思うが、兄の誘導が上手いというのも確かに否定はできない。

「多少話の持っていきかたが強引でも相手が気に留めなくなるとか、そういう事もあるかもしれないけれど……それも本人の注意力によっては全く効かない事もある程度のものよ。引っかかる方が間抜けなのではないかしら」

 マリエラは兄によく似た笑顔を浮かべてそう言った。兄は父似で、マリエラは母似の顔立ちなのに、こういう時の笑顔はそっくりだった。その笑顔を見ていると、身内で良かったなとカインはいつも強く思う。

 当のマリエラはまじないの存在が露見することについては心配もしていなかった。兄はちゃんと管理しているだろうし、どうせ知識がなければいくら調べてもただの模様にしか見えないのだ。しかもその知識も遙か昔に世界から失われたもので、その文明もすでに海の底だ。どうあっても調べようもない。書いているマーカスですらぼんやりとした知識しか持たないし、全てを知るマリエラは絶対口を開かない。それどころか人前にもほとんど出ないのだし。

「人の手に余るような危険なものは作ってな……いえ、もう廃棄したから大丈夫よ、ええ」

「作ったのかよ!?」

 作ったどころか先日それで大失敗したところだったが、何も言わずマリエラはにこりと微笑んだ。

 ちょうどそこへユリエが戻り、マリエラはフルーツの皿を受け取るとゆっくりと食べ始めた。


「あ、そうだわカイン。ねぇ、貴方、この刺繍は何に使うの? 細長い布に縫って欲しいと言っていたけれど」

 マリエラは食べやすく切られたフルーツを口に運びながら、テーブルに置かれた紙へと視線を落とす。紙の上には美しい模様にも見えるような古い文字が何行にも渡って書かれていた。見ただけでマーカスに頼んで書いて貰ったものだということがわかる美しい文字だ。

 マリエラの問いにカインは一瞬固まると、視線をふらりと泳がせた。

「ああ、えーと、剣とか槍とか、ちょっとそういうのの手元に巻いておこうかと思って」

「何のために? 今更これを使って訓練するわけじゃないのでしょう? 今まで訓練相手にこんな物使ったことないものね?」

 そう言ってマリエラは細い指で紙の上の文字をするりとなぞった。

「カインはもうちゃんと力加減もできるようになったのでしょう? どうして今更こんなものが必要なの?」

 武神の加護の影響か、同年代の子供よりも遙かに力が強いカインは加減を覚える事には随分と苦労をしてた。上手く力加減ができなかった幼い頃は、危なくて遙かに格上の相手としか訓練させられなかったくらいだ。そのおかげで強くなるのも早かったのだが。しかし今はマリエラが作った様々なお守りのおかげもあって力の制御ができているはずなのだ。

 カインはマリエラの強い視線から逃れたいのかしばらく目を泳がせていたが、やがて諦めたように深いため息を吐いた。


「マリねぇ、やっぱ読めるんだな、これ」

「マークにこの魔法文字を教えたのは私だもの。マークはもう加護の力で私が教えた以上の文字を書けるけれど、私だってちゃんと読めるわ。それよりも、やっぱり貴方も戦いに行くつもりなのね?」

「うん……俺も領軍と一緒に出るつもりなんだ。兄上にもそう言ってあるよ」

「そう。ではなおさら、もっと他に身を守る為に必要なお守りがあるのではないの? 何故これを……『不殺』を?」

 マリエラは紙を手に取ると、その端から端まで眺めてゆく。色々な言葉が綴られているが、その意味するところは大体同じだ。不殺――つまりは、これを付けた武器で切ったり殴ったりしても、相手に致命傷を負わせないようにするということが書かれているのだ。

「戦いには、『不殺』なんて、不似合いでしょう。確かに貴方は強いけれど、何があるかわからないところにいくというのに」

「そりゃそうだけど……だってさ、背神教の連中はその、大体が平民だって言うだろ。そんなのきっと簡単に死んじまう。そしたら……マリねぇ、嫌だろ」

「……私?」

 弟の意外な言葉にマリエラは目を見開いた。

「マリねぇ、領民大事にしてんじゃん。昔からそうだし、ここに帰ってきて手伝いするようになってからもそうだろ。別の領地の人間で、反乱軍みたいなもんだっていっても、人が死ぬのなんて嫌いだろ?」

「それを好きだという人間はそもそもあまりいないと思うけど……それでも、それは弟の安全と引き換えるようなものじゃないわ」

 そう言うと今度はマリエラがため息を吐いた。


「ねえ、カイン。貴方が私のことをどんな風に思っているのかは特に聞いてこなかったけど……私は多分貴方が思うより、ずっと冷たい人間だと思うわ。必要なこととそうでないことをきちんと割り切れるし、感情で物事を判断したりしないの」

「……知ってる。俺よりも何倍も賢くて、多分全然冷静だってことも」

「そうよ。私は見も知らぬ人間がいくら死のうと、他人事に思える貴族の女なの。分も弁えぬ愚かな平民がいくら死のうとも、弟が傷つかなければそれでいいと思うような人間なのだから。だから、貴方が気にするようなことは何もないのよ」

 そう言ってマリエラはくすりと微笑んだ。それはいかにも貴族の女性らしい美しく作られた笑みで、その見慣れぬ姉の表情にカインは思わず眉を寄せた。カインにはマリエラの言葉が、まるで自分にそう言い聞かせているかのように聞こえたのだ。それがなんだかひどく切なく、悔しく思え、カインはその気持ちのまま大きく息を吸って口を開いた。


「それでも! それでも、俺が嫌なんだよ! マリねぇが父上や兄上の代わりに守るこの場所で、例え領民じゃなくても誰かの血を流すのが嫌なんだ!」

 弟の強い声にマリエラが目を見開く。

「マリねぇはいっつも、ぼーっとしてるようでちゃんと見てるじゃないか。うちで働く連中も、たまに見に行く街の人間のことも。馬車に乗って王都に行くときだってすぐ酔って具合悪くなるのに、通る街をいちいちじっと見ててさ。マリねぇはいつだって、そこに人がいるってだけで嬉しそうにしてる。領民でもそうじゃなくてもマリねぇには関係ないんだろ? 関係なく人が好きな癖に、興味ないふりしてるだけだ」

 図星だったのか、驚いたのか、目を見開いたまま何も言わないマリエラを、カインは強い眼差しで見つめた。

「俺は、マリねぇにはずっとそのままでいて欲しい。だから、俺は殺さない」

「カイン……」

「それに、どうせ本当に戦いになるかなんてわかんないんだ。兄上と殿下がなんか色々手を回してるし。何事もなく終わるかもしんない。あの兄上達のことだから、そうなる方がありそうだろ?」

「……ええ。そうかもしれないわね」

「もしそうならなくても、俺は絶対守ってみせるよ。家族と領民と……ついでにうっかり血迷ったり唆されたりしてこんなとこまできちまった馬鹿な連中も、全部。姉上がそれを作ってくれたら、きっと全部守れる」

 そう言い切った弟は、マリエラが知らない、けれどよく知っているような気のする顔をしていた。


「……今度は絶対、守ってみせる。その身も……願いも」

 最後に一言だけ、マリエラにも聞こえないくらい小さく呟かれた自分のその言葉の意味も理由も、カインは知らない。

 知らないけれど、ただそう強く思った。



マリエラの元の部屋はただいま修理中。

上の階の床も突き破ったからね!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新ありがとうございます♪ [気になる点] 「……今度は絶対、守ってみせる。その身も……願いも」 カイン…一体何が…
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