22歳:(2)彼女の真意
レイローズ領は穏やかな春を迎えていた。
淡い色の花々がそこかしこに咲き、領内に色を添えている。街道の両脇に広がる広大な農地は働く人々でいっぱいで、彼らは皆笑顔で畑を耕し、種を蒔いていた。
おそらくここは今の国内ではどこよりも豊かな土地だ。この様子を見れば、ここに神の加護があると誰もが信じるかもしれないという活気ある景色だった。
馬車を急がせたエリオットは、いつもよりだいぶ早くレイローズ領につき、その領内の豊かな様子に内心で少し焦りながら馬車に揺られていた。
「絶対狙われるでしょうに……何を考えているんです、マーレエラナ様」
エリオットは誰にも聞こえないような小さな声でポツリと呟き、ため息を吐く。もうすぐ着くのはわかっているのに気ばかり急いて落ち着かないのだ。
早くリアンナの顔が見たいと考えながら我慢していると、やがて馬車の速度が少しずつ緩んできた。
「着いたか」
「そのようですね」
エリオットを乗せた馬車はゆっくりと侯爵家の屋敷の門を潜り、少し走ってようやく止まった。
しばらく待っていると外から扉が開かれる。侍従に促され外に出ると、そこには会いたかった婚約者の姿があった。
「リーナ!」
「エリオット様、いらっしゃいませ! 久しぶりね」
いつも変わらぬリアンナの明るい笑顔を見た途端、エリオットは肩の力が抜けるのを感じた。
婚約者の特権とばかりに礼儀正しく彼女を抱きしめ、頬に口づける。リアンナはくすくすと笑ってそれに応えてくれた。
「エリオット様が来てくれるなんて、びっくりしたわ。でも、どうもありがとう!」
「君達がいつまで待っても王都に来ないから、心配で来てしまった。リーナの為ならどこにでも駆けつけるよ」
エリオットの言葉に大げさねと笑いながら、リアンナは彼を屋敷の中に招き入れた。
着いてきた傍仕えや護衛たちは執事に案内されて別室へと向かう。
リアンナはエリオットだけを真っ直ぐにマリエラの部屋へと案内した。
「お姉様に会いに来たのでしょう? 動かない理由を聞きたいって言ってるって、お兄様から連絡が来たわ」
「うん……リーナは何か聞いてるかな?」
その問いにリアンナは顔を曇らせ、首を横に振った。
「私にも何も言ってくれないの。でも、エリオット様にはもしかしたら話してくれるかもしれないわ」
「私に?」
「うん、だって、お姉様ってあんまりそうは見えないけど、エリオット様の事、結構信頼してるみたいだもの。今日だって、エリオット様が着いたら連れてきてくれって言われてたの」
リアンナの言葉にエリオットは思わず黙り込んだ。そう見えるのは記憶持ちだからだろうなと思ったが、それをリアンナに言う訳にはいかない。
どう答えたものか悩みながらリアンナの後を歩いていくと、すぐに一階のマリエラの部屋に到着した。コンコン、とリアンナがノックをすると、中からどうぞと細い声が返る。
「お姉様、エリオット様が来て下さったわ」
扉が開くと、窓辺の椅子に座り刺繍をするマリエラの姿が見えた。
「……いらっしゃい、エリオット様。ご無沙汰しております」
「こんにちは、マリー。お邪魔するよ」
招かれて中に入ると、マリエラは道具を置いて立ち上がり、二人を部屋の中央にある応接テーブルへと誘った。
「ユリエ、お茶をお願い」
「かしこまりました」
エリオットがソファに腰を落ち着けると、マリエラはリアンナの方へ視線を向けた。それを受けてリアンナが小さく頷く。
「じゃあ、私はちょっと席を外すわね。エリオット様、また後でね。お姉様とお話しして、一休みしたら夕食をご一緒しましょ」
「え、あ、うん。わかったよ」
姉妹の間で予め決められていたらしい話にエリオットは戸惑いながらも頷き、リアンナは部屋を出て行った。マリエラはもう既婚者だし、エリオットもレイローズ家とは家族同然の付き合いをして長い。二人が部屋で内密の話をすると言っても、特に咎める者はこの家にはいない。
リアンナも侍女も皆出てゆき、パタンと部屋の扉が閉まると同時にパチリとマリエラの指が打ち鳴らされる。
いつもの神の領域が展開され、二人は世界から切り離された。
その途端、マリエラは取り繕った淑女の仮面を放り投げ、にやりと人の悪そうな笑みをエリオットに向けた。
「久しいな。わざわざこんなところまで、ご苦労なことだ」
「そう思うなら、さっさと王都に来て下されば良かったのに……私が来るのを待っていらしたんですか、マーレエラナ様」
誰もいなくなった途端二人の口調が変わるのもいつもの事だ。エリオットの問いに、マリエラは笑ったまま首を横に振った。
「別にお前が来るのを待っていて動かなかったわけじゃない。誰が来ても動きはしないさ」
「何故です? 今の情勢はご存じなんでしょう? あちこちで賊まがいの狂信者達が騒ぎを起こしています。ここに来るのも遠い先の話じゃないかもしれないんですよ?」
「聞いているさ。背神教、だったか?」
「そうです。この世に神はいらぬなどと、不敬極まりない、危険な思想の連中です」
自身も神の現身であるからにはなおさら腹が立つのだろう。憤懣やるかたないと言った雰囲気のエリオットにマリエラはくすくすと面白そうに笑った。
「笑いごとじゃないですよ! 神々はこの世界を癒すため皆必死で働いているというのに!」
けれどエリオットの怒りにマリエラは全く共感を示さなかった。それどころか、どこか物わかりの悪い子供を見る親のような視線を向けてくる。それを居心地悪く受け止めながら、エリオットは言い募った。
「マーレエラナ様は腹が立たないんですか!? 貴女こそ、この世界のために何度もその身を削って働いてきたんでしょうに!」
マリエラは頬杖をついてエリオットを面白そうに眺めるばかりだ。自分の言葉に応えない彼女が何を考えているのかわからず、エリオットは口を噤んで不満そうに眉を寄せた。
しばしの沈黙の後、マリエラはどこか遠くを見つめるような瞳で、ゆっくりと口を開いた。
「去年……お前と、はるか昔に大陸ごと滅んだ古代の魔法文明の話をしたな。あれが滅びの道を歩む前に、何があったのかお前は知っているか?」
「……? ええと、確か比較的短い期間でかなりの発展を遂げ、その過程で危険な魔法を幾つも生み出した、とは知っていますが」
「まぁ、間違いではないな。問題はその前だ。魔法文明が著しい発展を遂げる、その発端だな。その時な、人間たちは今と同じことを言ったんだ」
「同じ……まさか、その時も背神教が!?」
「さすがに同じ宗教ではないさ。ただ、同じような思想が生まれたというだけだ。神から与えられた魔法という力を発展させることをし始めた人間たちは、誰が思いついたのか、我らにはもはや神は必要ないのではないかと言い出した。気まぐれな神の加護や施しなど当てにせずとも我らは自由に生きられる、と。新しい魔法や魔道具を開発し、我らはもはや神を超える可能性すら持ったのでは、と言い出してな」
「……それが、発展に繋がったと?」
「ああ、そうだ。あの時、神々はその動きをしばし静観することにした。それもまた彼らが成熟してきた証なのかもしれないと言って、黙って見守ったんだ。だが結果は、知っての通りだ。自分達を律するものを捨て去った人間たちは好き勝手に魔法を発展させ、ついには大地をずたずたに切り裂くような兵器を作りだし、アウラの逆鱗に触れたんだ」
「まさか……今回も、そうなると?」
顔を青ざめさせたエリオットに、マリエラは首を横に振った。
「さぁ。どうだろうな? まぁまだ組織としてはさほどまとまっていないようだし、今回の連中は単純に暴力に向かっているようだから、そこまで行くかどうかは今のところわからないな」
「そんな他人事みたいに言わないでください! ここへ来るかもしれないんですよ!?」
「そうだな。来たら、どうなるんだろうな」
「何を悠長な……」
激昂しかけて、エリオットはふと黙り込んだ。マリエラの笑みを見ているうちに、以前彼女と交わした会話がその脳裏を過ったのだ。
『この少し先の未来で、世界が私との賭けに勝つのかどうか。私は、それを楽しみにしているんだ』
「まさか、マーレエラナ様、これを予見していたのですか!? これは、世界と貴女との賭けだと?」
マリエラはその言葉にくすりと笑い、それから首を横に振った。
「何が起こるかわかっていた訳じゃない。ただ、もうすぐ私が知りたい事を知るための機会が訪れる事だけを知っていた。私がその答えを得て、その後どうなるのかまでは知らないがな」
「貴女が知りたい事とは? 一体貴女は何を見ているのです?」
マリエラはそれには答えず、ゆっくりと立ち上がるとエリオットに背を向け窓辺へと歩いて行った。
穏やかな春の日差しが窓から差し込んでいるというのに、室内の空気は冷え冷えとしている。マリエラは自分の部屋の外に広がる白い花を見ながら、どこか楽しげに口を開いた。
「アルフォリウス……お前と別荘で初めて会い、会話した時。お前はこの世界の文明の発展を、人々の進歩を望んでいると、そんな話をしたことがあったな」
「……はい」
「お前のやり方と私のやり方は、まったく相容れない。私がそう言ったことを覚えているか?」
「ええ。確かに、貴女はそう仰いましたね」
「私はな……本当は、神の加護などない方が人は進歩するんじゃないかと、そう考えているのさ」
「……我々の加護がいらないと?」
「人は考え、工夫し、その手で様々なものを作り出すことのできる力を創造主からすでに授かっている。私たちはそれをさらに助けるべく、加護を与えてきた。けれど、それは本当に良いことだったのだろうかと、疑問に思うことがあるんだよ」
「良いことに決まっています! 先ほど貴女は言ったではありませんか、神の手を拒んだ文明は自ら滅びの道を歩んだと! 貴女は……何を、馬鹿な!」
「そうだな。だが、あの文明が行きつく先がどこだったのか、私たちはそれを見なかった。あのまま放っておいたら、彼らはどこへ向かったのだろう? 自分たちがした事の恐ろしさを悔い、自ら道を正す動きもまたあったのかもしれないとは思わないか?」
「そんな……わずかな可能性の話でしょうそれは!」
首を横に振って否定したエリオットに、マリエラは困ったような笑みを向けた。それはまるで自分達二人の道が交わらぬ事を知っているとでもいうような表情に見え、エリオットの苛立ちが募る。
「あの大陸での失敗以降、我らは様々な道を模索してきた。まだ人間は見守るだけにするには幼すぎる、と積極的に介入することもあった」
「……はい。私も、その頃に生まれました」
アルフォリウスは知の神としてはあまり早くに生まれた方ではないため、その大陸の顛末を知らなかった。ただ、こういう前例もあったとだけ学んだだけだ。
「だが、介入しすぎた場合の悪影響もある。先の動乱がいい例だな」
それを言われてしまえば、エリオットには返す言葉もない。
「加護というのは、人間側から見れば実に気まぐれで不平等だ。役に立つものを授かれば、それだけで出世の足掛かりになったりもする。もちろん私たちは、人格的に優れた者や、真面目に職務に励むものに加護を与えるようにしてきた。彼らには確かに出世する資格があるのかもしれない。けれど、それは同時に、その恩恵にあずかれなかった者たちから妬まれる要因にもなる」
「それは……まぁ、一部でそういう面はありますが」
「加護を得て高い地位に就いたことでいつしか驕り高ぶり、結果的に加護を失う者も時折いる。便利な力を手に入れた途端、努力をしなくなる者も確かにいるのだ」
「……はい」
「私はそれを責める訳ではない。むしろ責められるべきは安易に力を与えた我らの方ではないのかと、そう幾度も思ってきた。本当は神々の加護という力などない方が、人々は自分たちの小さな力を合わせ、知恵を集め、生きるために懸命になるのではないかと。それこそが人々をさらなる進歩へと導くのではないのか? かつて滅びたあの文明も、そもそも我らが魔法などという力を与えねばひょっとしたら違った道を歩んだのかもしれない」
エリオットは頭にカッと血が上る感覚を覚えた。マーレエラナの言葉は、彼の存在意義全てを揺るがす、到底看過できない発言だった。神々全てへの侮辱のようにも聞こえたのだ。
「それなら……それなら、私たちはなぜ存在するのです! 私たちは創造主に作られ、そして役割をいただきました! それが悪いというのですか!?」
「神がまったく必要ないとは言っていない。信仰なき人生は闇の中を手探りで歩くようなものだ。やがて正しき心を失わせるだろう。神は、人々の心に必要だ。けれど、それ以上にはいらないのではないのか?」
「やめて下さい! 貴女が……上級神たる貴女が、神々の存在を、その意義を、疑い否定するのですか! そんなことをすれば、貴女は……」
声を荒げ叫ぶように言ったエリオットはハッと息を呑み、何かに気が付いたというように目を見開いてマリエラの顔を見つめた。
「マーレエラナ様……まさか貴女は、だから」
「……ああ、そうだ。だから、私は傷ついたままなのだよ」
自らの胸に手を当て、マリエラは淡く笑う。
「己の存在意義を、私は疑った。それが私の魂の一番深いところに傷として刻まれ、消えぬままだ。それが私が今もってこんなに弱ったままでいる、一番の理由なのさ」
声を失ったエリオットに、なぁアルフォリウス、とマリエラは歌うように呼び掛けた。
「私は知りたいんだ。この世界は、本当に神を必要としているのか否か。神なき世界を望む者たちが再び現れたのは、世界がそれを望むからではないのか? 彼らと、神の加護者と。正しいのは、勝つのは一体どちらだ?」
「貴女は……だから、ここから動かないのですか? まさかそれを、その身をもって試すつもりだと?」
「いいや。動かないんじゃない、動けないのさ。腹の中に、子がいるからな」
その言葉にエリオットは凍りついた。マリエラは自分の腹に手を当て、愛おしそうにそっと撫でる。
「私の弱い体では、今の状態で馬車の移動には耐えられないだろう。私が平気だったとしても、この子が無事でいる可能性は低い。ならば私は、例え危険があってもここから動かない事を選ぶさ」
「子供を……その、大変失礼ですが貴女のその体で、産めるんですか?」
「さぁ? それは私にもわからない。だが諦めるという事は決してしないだろう。かつてリリレイラが、私に言ったんだ。ちゃんと”生きろ”と。私は、子ができたとわかった時に思った。この子を諦めれば、私は”生きる”事を止めたも同然となるだろうと」
そう言うマリエラの瞳には強い光が宿っていた。その腹がまだちっとも膨らんではいなくとも、マリエラはもうすでに子を守る母の顔をしているとエリオットにもわかった。そしてそれを彼女に諦めさせた時、彼女からその人生の喜びも希望も奪う事になるのだという事も。
「リリレイラは、私はちゃんと生きてさえいれば、頑張らなくてもいいと言ってくれた。頑張るのは周りにやらせろと。だからちょっとその通りにしてみようかと思ってな」
そう言ってマリエラはふふ、と小さく笑い、どこか試すような挑むような顔で、エリオットを見つめた。
「エリオット……いいや、アルフォリウス。私はこの領地から動くことはできない。だから、お前が私に見せてくれ。神と共に生きてきたこの世界が選ぶ未来を。お前たち神やその加護者達が勝ち、私が子供と共に世界を癒しながら生きるのか。神なき世界を望む人々が勝ち、神が去った荒れ果てた世界でも己の力で自由と共に生きることを選ぶのか。その賭けの結果を、私はここで楽しみに見ているから」
エリオットは自分の身体がぶるりと震えたのを感じた。だがすぐにそれは違うと気づく。震えたのは肉体ではなく、その奥に宿る己の魂だった。エリオットの、アルフォリウスの魂がまるで何かに揺り動かされるように震えている。魂が、恐れとも歓喜ともつかぬ何かを感じているのだ。
「……わかりました。私は、必ず、貴女のいるこの場所を守って見せます。貴女の周りにいる、貴女の幸いを願う全ての人の手を借りて。貴女が笑い生きるこの世界で、私も、リーナと幸せに生きるために」
マーレエラナと世界の最後の賭けが、始まるのだ。
唐突にシリアスぶっていくスタイルですが、別にいきなり戦記物とかになったりはしません。
わりといつも通りです。




