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21歳:幸いの在処と、彼女の微笑

 

 爽やかな初夏の庭に、幼子の楽しげな声が響いた。

 マリエラの投げたボールを追いかけて一人の男の子が小さな体で懸命に走っていく。

 そのごく普通の子供らしい動きにちょっとほっとしたものを感じながら、マリエラはそれを見送りのんびりとお茶を楽しんでいた。


「お嬢様、お客様がお見えです」

「あら、誰? 約束はなかったわよね?」

 執事の一人にそう声を掛けられ、マリエラは首を傾げた。今日のこの時間に客が来るという予定は特に聞いていなかったはずだ。

「エリオット殿下がお見えです」

「あら……約束も先触れもないけれど、まぁしょうがないわねエリオット様なら。いいわ、お通しして」

 エリオットとレイローズ家の付き合いはもう八年にもなろうかという頃だ。お互いある程度の礼儀は守っているが、今更遠慮するような間柄でもない。

 昨年結婚し人妻になったとはいえ、レイローズ家から出たわけではないマリエラは相変わらず年中暇を持て余している。突然の訪問でも別に気を悪くするでもなく、良い暇つぶしが来たかと快くエリオットを迎え入れた。


「こんにちはマリー、突然邪魔してすまない」

「いらっしゃいませエリオット様。特に所用もございませんでしたのでお気になさらず。こちらこそ、庭でのお迎えで恐縮ですけれど」

「いや、大丈夫だ。突然訪ねてきた私の方が悪いのだから」

 まぁそうは言いつつもそれも割といつもの事なので、お互いに周囲を憚って定型文を口に出しただけで気にしてはいない。

 エリオットがマリエラのいるティーテーブルの反対側に座ろうとした時、その足元にタタタ、と子供が走り寄った。見慣れぬ客が珍しかったのだろう。エリオットの足にトンとぶつかって軽く抱きつき、それから上を見上げてその相手のキラキラした容姿に子供は一瞬硬直した。

 あ、まずい、とエリオットが思った時、パチンと指を弾く小さな音がして子供がハッとした顔をした。幼子はまるで夢から覚めたかのようなキョトンとした顔で、きょろきょろと辺りを見回した。

「ルイス、向こうに行ってらっしゃい。その方はお客様だから、お邪魔しちゃだめよ? また後で遊んであげるからね」

「あい!」

 ルイスと呼ばれたその子はマリエラに良い返事を返すと、侍女に連れられて屋敷へと入っていった。

 マリエラはユリエにエリオットの分の茶の支度を言いつけ、傍に人がいなくなってから領域を作って周囲を切り離した。


「すみません、助かりました」

「まったく、幼子を誘惑するな。まだ小さいから耐性が低いんだぞ」

「ここに来るとあんまり加護の制御とか考えなくていいからつい気を抜いてしまって……ところであの子は、マリエラ様の子供ですか?」

「そんなわけあるか! あれは兄の子供、甥っ子だ!」

 結婚したばかりであんな大きい子がいてたまるか、と言われてエリオットは子供の大きさを思い返す。

「それもそうですね。面倒を見ていたんですか?」

「もうすぐロッティに二人目が生まれるからな。ゆっくり休めるよう、たまに面倒を見てやってるんだ。うちは母の影響であまり乳母に頼り切りにしない傾向があるし、家中で私が一番暇だからな」

「そういえばマーレエラナ様はカインの面倒もよく見ていたってリーナが言ってましたっけ」

「ああ。懐かしいな……カインに比べるとルイスは普通だ。ものすごく普通の子供らしい動きで、ちょっとほっとする」

「ああ……」

 カインの常人離れした動きを思い出したらしいエリオットが遠い目をした。カインは今年騎士学校に入学したが、もう実技面では習うことがないくらいの実力らしい。同級生が全くその動きについて行けず、先輩や教官を叩きのめしては軒並み自信喪失に追いやっているとマリエラもエリオットも聞いている。

 しかしその代わり座学が全くと言って良いほど出来ずいくら教えても成績は底辺を這っているので、その辺をどうしたものか教師達も侯爵家一同も頭を悩ませている所だった。


「カインは何であんなに座学がダメなんだろうな本当に。私はちゃんと絵本を読んだりもしてやったというのに、さっぱり興味を持たなかった……私が見ていたのにあの成績というのはちょっと許せないから、夏期休暇で帰ってきたら一度徹底的に座学を叩き込もうかと考えているんだ」

「別荘でですか? せっかくの休暇にご夫君は放っておいていいんですか。それにカインがじっと勉強することに耐えられますかね……」

「マークとは毎日いちゃいちゃしているから大丈夫だ。気にするな」

 マリエラの口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかったエリオットはピシリと凍り付いた。

 完全なる真顔でそんなことをさらっと言われて、今何か幻聴でも聞いたかと耳を疑う。

 しかしその顔をまじまじと見ているエリオットのことなど気にもせず、マリエラは真顔ながらどこか楽しそうにと脇の椅子に置いてあった紙の束を手に取った。


「それにほら、マークとの合作がついに出来たんだ。これはすごいぞ、さすが私の愛する夫だ」

 そう言って固まったままのエリオットの目の前に一枚の紙がひらりと置かれた。

 大きさは椅子の座面にちょうど乗るくらいだろうか、マリエラがさっと裏返して両面を見せると、その表にも裏にも大きな三重円と複雑な文様、そしてびっしりと魔法文字が書いてあるのが見えた。文字はきちんと大きさも書式も美しく揃い、それがマーカスの手になる物だとすぐにわかる。


「なんですこれは? 魔法陣なのはわかりますがあまり見たことのない様式です……いや、でもどこかで見たことがあるような?」

 エリオットが首を傾げると、マリエラはちょっと自慢げににやりと笑う。その顔を見て、以前より随分表情が豊かになったな、とエリオットは思うと同時に嫌な予感も覚えた。

「ちょっとここの真ん中に手を置いてみろ。軽くでいい」

「え……危ないものじゃないんでしょうね?」

「大丈夫大丈夫」

 その軽い口調に全く安心出来ないと思いつつ、エリオットは言われた通り紙の上にそっと手の平をつけた。

「うえっ!? 何ですこれ!」

 手を置いた途端、エリオットは焦った声を上げた。手の平から魔法陣に勝手に急に魔力を吸われたのだ。量は多くはないが、いきなりのことに反射的に手を離そうとしたがしかし今度は手が離れない。それどころかその紙すらもがテーブルと一体化したかのように動かず、持ち上げる事も出来ないのだ。

「ちょ、マーレエラナ様!? 本当に大丈夫なんですかこれ!」

「大丈夫だ、ちょっと強制的に魔力を吸われるだけだからな。お前は魔力量も多いし問題ない」

「問題しか感じないんですけど!?」

 焦るエリオットを他所に、やがて紙に描かれた魔法陣が徐々に光を帯びる。エリオットから吸った魔力で命を得たように線や文字が輝きだし、そしてそこから何故か立ち上がろうとしていた。


「マーレエラナ様!? 何か浮き上がってきましたけどどうなってるんですこれ!」

「うんうん、上手く動いている。どこも途切れなく、美しく魔力が巡っていくぞ。さすがマークだ」

 次々と魔法陣から描かれた陣や文字が宙に浮き上がり、くるくると回りだす。大きさの違う三つの円が高さを変えて三段に並び、その間を埋めるように文様と文字が規則正しく列をなしている。全体を見れば金色に光る小さな山のようで、確かに美しいと言えば美しい。けれどエリオットには美しいというよりもひどく恐ろしいものに見えた。

「積層立体魔法陣って、古代の遺失魔法技術じゃないですか! こんな、私でさえ記録でしか見たことのないっ」

「そうだ、美しいだろう。お前が生まれる前に大陸ごと消えた魔法文明の技術だ。まぁ、これはそれを大分改良してうんと小さくして、作れる人間も限定して安全にしてある。大地をかち割るようなものにはならないから安心しろ。どうせ世に出すわけじゃないしな」

 存在自体が全く安心できないと思いながらも、知的好奇心には勝てずにエリオットはまじまじとそれを観察した。アルフォリウスが神として生まれる前に海の彼方にあったという大陸の技術など、天界でも最高位の始まりの神々しか知らぬようなものなのだ。


「あの文明は最後には大地をずたずたに切り裂き、アウラの逆鱗に触れて大陸ごと沈められたんだ。まだ、アウラも若く激しかったしな。あのあと世界を立て直すのにも随分と苦労したっけ」

 一体どれほど昔の話なのか知らないが、女神に年齢を聞くと酷い目に遭うと常識として知っているエリオットは小さく震えつつも沈黙を守った。それよりも目の前の魔法陣に意識を奪われてもいたのだが。

「これは、裏面の魔法陣はこれと対象をそこに固定するためのものなんですね? この上に乗った対象から勝手に魔力を吸い、それを使って対象を座標に固定する、というのはわかりますが、この辺はなんです?」

 エリオットは自分が読み取れない上の方の魔法陣を自由なもう片方の手で指さした。知の神である自分にさえわからない事が少し悔しい。

「そこは、対象の魂と脳にちょこっとだけ干渉して、この魔法陣上に固定されている時に学んだ事を対象に焼き付ける魔術だ」

「こっわ! それ大丈夫なんですかホントに!? 下手したら脳が焼き切れたりするんじゃないですか!?」

「その下のここら辺の魔法陣が同時に対象を保護し、軽い癒やしを与える役割を持っている。それに焼き付けると言っても、きちんと覚えさせてついでにちょっと忘れにくくする、程度の軽いものだ。傷をつけるようなものじゃない。そんな危ないものを弟に使わないから安心しろ」

 その言葉にエリオットは一瞬固まりそれから慌ててマリエラを見た。その頬を冷や汗が伝う。

「ま、まさかこれをカインに使うつもりなんですか!?」

「うむ。アレにはもうこのくらいの荒療治しかない。強制的に椅子に固定して、進級するのに必要な最低限の座学を脳とついでに魂にも刻み込んでやろうかと思って。来世でも忘れないぞ」

「鬼! 鬼過ぎる! 可愛い弟でしょう!?」

「可愛い弟相手だから心を鬼にするんだ。あのままじゃ十年たっても座学で引っかかって卒業できないだろう……そのためにこの魔法陣を開発し、マークに書いて貰って完成させたんだ。リヴラウスの加護があるからこそ作れるように組んだからな。夫婦の愛の共同作業だ。実に楽しかったぞ」

「たかだか学校の授業のために恐ろしい古代文明の技術を復活させないで下さいよ頼みますから! カインの勉強くらい私がいくらでも付き合いますから! あとさらっと惚気を差し挟まないで下さい! ていうか、お二人の結婚は実は一番やってはいけない危険な組み合わせだったのでは!?」

 エリオットは悲痛な声を上げたが、マリエラはその彼の言葉にきょとんと目を見開いた。


「あれ、お前この夏はうちの別荘に来るのか? 確か去年もその前も、仕事が忙しくてこれなかっただろう? それにそろそろ公式に社交界に出入りする年齢なんだから、今年も忙しいんじゃないのか?」

「今年は、多分大丈夫です。大きな外交案件は入れないようにしました。それにどうせ夏は社交のシーズンじゃないですし、準備自体はもう大分前からしていますから。父にも許可を得ました。そうですよ、今日はそれに関係した話をしに来たんですよ」

 マリエラがとんでもないものを繰り出してくるからすっかり忘れていた、とエリオットはため息を吐いた。改めて、今日訪ねた用件を切り出そうと真面目な顔でマリエラを見る。


「その前に……これ、外して貰えませんか?」

「ああ、忘れていた」





 叫びすぎて喉が渇いた、とエリオットが言うので、マリエラは領域を解除してユリエがお茶を運んでくるのを待った。

 気の利くユリエは冷たいお茶も用意してくれたので、話を再開する前に二人とも喉を潤す。ついでにユリエら侍女に人払いを頼んで遠ざけながら、そういえばいつも見る姿がないなとマリエラは首を傾げた。

「そういえばエリオット様、いつもの護衛はどうしました? 今日は側仕えしか連れてこなかったようですが」

「やめて下さいいきなり。もう近くに人もいないし、いつもの調子で良いですよ。今日はアレは騎士団の方にやってます。どうせここまで馬車ですし、このところ私の周囲は安定しているので情報収集にちょっと」

「ふぅん。何か問題でも?」

「いえ、まだ確定ではないのでちょっと……その話はいずれ」

 あれだけ嫌がっていたカルスをそれなりに使っているらしいエリオットを面白く思いつつも、マリエラはそれ以上追求はしなかった。それよりもエリオットがカップを置き、神妙な顔で彼女を見つめたからだ。


「あの、マーレエラナ様……私は、近々リーナに正式に求婚しようと思いまして……その許可を頂きたく、今日は訪ねてきたんです」

 今度はマリエラが目を丸くして驚く番だった。二人の間にしばしの沈黙が落ちる。

「それは、私に言う事じゃない気もするが……まず、本人には?」

「実は去年、彼女が社交界にデビューする前に、その……待っていてくれないかと、一応」

 エリオットとリアンナは年齢こそ一歳に満たないくらいの差だが、学校に行ったり社交界に出たりといったくくりで考えた場合一年の差があることになる。

 そのため自分より一足先に社交界に出るリアンナに、エリオットは自分が追いつくまで待っていてくれないかと頼んだのだ。


「一体いつの間に告白していたんだお前は。結構やるな……で、リーナの返答は?」

 マリエラが面白そうな顔をして問いかけると、エリオットは一瞬遠い目をした。

「一応待っても良いと言ってくれました。社交界に私以上にマシそうな男がいなかったら結婚してあげると。幸い今のところそういう男はいないそうです」

「我が妹ながら、ちょっと心配になるくらい上から目線の返答だな……いいのかな、お前一応王子なのに」

 一体誰に似たのかとしみじみと思うが、やはり記憶がないとはいえ中身がエルメイラだから仕方ないのだろうか。

「いいんです……どうせ私も、私が隣に並ぶことを一切気にしない女性は、リーナ以外出会えない気がしますし。待っていてくれるなら、その代わりたまに着せ替えさせろと言われてもちっとも構いません」

 ちょっとうつろな目でエリオットはふふ、と笑った。

「お前……まぁそこまでの覚悟があるなら私から言うことはない。この世に生まれたからには、エリオットとリアンナの人生だ。妹を大事にしてくれるならそれでいい。祝福するよ。まぁ、私が許可を出すのもおかしな話だと思うがな」

「……ありがとうございます。大切にすると約束します」

 そう力強く頷いたエリオットは、美しい外見は変わらずとも確かに男の顔をしていて、マリエラも思わず笑顔を浮かべた。こんな顔をする男になら、妹を託しても大丈夫だと思えたからだ。


「周りに根回しは済んでいるのか? 父上とかは?」

「私の父やその周辺には内々で許可を得ていますし、マイルズ殿にも打診して一応許可は頂いています。すごく嫌そうな顔をされましたが、選択肢としては私が一番マシだからリーナ本人が応えるなら構わない、ということでした」

「父上……王子に対してリーナと同じ返答でいいのか?」

「許可が貰えるならなんでもいいんですもう! ただ私の方の継承権の放棄と臣籍降下の手続きや、その後の爵位やら住む場所やらをどうするかという問題が残っているので、とりあえず婚約だけして、早くても私が十八になるのを待ってから結婚ということになりそうです」

 エリオットは現在主に国内に迎える外国の客の応対、といった限定的な外交の仕事に関わっている。外交としては些か中途半端なのだが、彼の加護の性質上、外に出るには多くの護衛が必要となるし、かといってそんな大人数で国外に出ればいらぬ騒動を引き起こすのは目に見えているからだ。

 そんな風に少々仕事を選ぶ必要があるとはいえ、エリオットの優秀さは内外に知られてきて十分な信用を得てきている。兄である王太子もこのまま弟が自分の治世を手伝うことを歓迎してくれているらしい。

 そうなると、普通なら公爵などの爵位と領地を貰って臣籍降下するところなのだろうが、今の国内情勢で適当な王領を分けて貰っても管理が大変そうだし、リアンナがマリエラの側を離れたがらない可能性もある。その辺の調整が難しいのだ。


「本当は適当な官位と一代爵だけ貰って今の仕事をしながら、マーレエラナ様達のように侯爵家に住まわせて貰えれば一番楽なんですけどね……」

「王族だからなぁ。うちは今更構わないと思うが、うるさいこと言う奴もいそうだし難しい問題だな。まぁ、最終的にはお前が関係者全員をちょっと操ってそれに頷かせれば良いかもな」

「それは本当の最終手段にしておきます」

 神妙にエリオットが頷いたあと、少し会話が途切れた。二人は黙ってぬるくなったお茶を飲む。エリオットはマリエラの指に光る指輪を何となく眺めながら、ぽつりと問いかけた。


「マーレエラナ様は……今、幸せですか?」

「ん……そうだな、幸せだな、多分。家族は皆優しく、温かい。しないだろうと思っていた結婚までして、夫も私を愛してくれる。幸せなんじゃないか?」

「なんで疑問系なんですかそこ」

 曖昧な返答に不満そうに眉を寄せたエリオットに、マリエラは笑って見せた。

「別に何か不満があるわけじゃないぞ? ただ、幸せというものを感じたのが久しぶりすぎる気がして、ちょっと自信がないだけだ」

「そうですか……」

「ふふ、だがこうしてお前と個人の幸福を論じる事の出来る時代に、立場に、私は今生きているのかと思うと感慨深いものがあるな」

「それは……何か、すみません」

 申し訳なさを感じたエリオットが謝ると、マリエラは首を横に振ってくすくすと笑った。


「別に責めている訳じゃないから謝ることはない。私はな、幸せと言う概念がある時代に生まれたことを嬉しく思っているんだ。それはとても尊い事だとは思わないか? 私が今まで生まれてきた数々の時代でも、誰かとこうしてそんな話をすることはほとんどなかったように思う。まぁ今の私が天界の配慮によってとても恵まれた立場にあるせいで、できる話なのかもしれないが」

「そうでしょうか……すいません、あまり生まれてこなかったので、私には良くわからない」

 わからないことが悔しい、と言う風にエリオットは顔を俯かせた。


「幸せという概念が生まれ、人々の間に普通に浸透し、その在処について語り合う。それは人類の大きな進歩だと私は感じるんだよ。個人が、それぞれの幸せについて考えることが出来るというのは、それだけ文明が進んだ証拠であるように感じる。たとえ今は私とお前の間だけのことだったとしても、いずれそれはもっともっと広がるだろう。人々は漠然と生きるだけではなく、それぞれに幸福を追求するようになる」

「それは……良いことなんでしょうか?」

「さぁ? それは、未来の人間が決めるだろう。だが、私は少なくとも良いことだと信じているよ。そして、嬉しいと思う」

「良くわかりません。私はそんな風に考えたことがなかった。個人の幸せよりも、世界全体の発展のことばかり考えていた気がします……」

 その言葉にマリエラは頷き、けれど責めたりはしなかった。ただ微笑み、そして問いかけた。


「お前がリーナと結婚したいと望むのは、何故だ?」

 その問いにハッとエリオットは顔を上げた。

 なぜリアンナと結婚したいと思ったのか。それは彼女を愛しいと思い、人生を共に歩みたいと考えたからに他ならない。ならば、それは。

「彼女となら……幸せに生きられる。そうなりたいと、私が思ったから」

「そうだ。それが答えだろう? ただ子孫を残すために相手を選ぶのではなく、お前は自分の人生の幸福にリーナが必要だと思ったから、選んだんだ。まぁ、選べる立場だったというそれ自体が幸福であるのだろうが」

「私が……かつて、多くを幸福にできるはずだった貴女の人生を奪った私が、それを望むことは、許されるんでしょうか」

 エリオットの悔恨の滲んだその言葉に、マリエラは笑顔を浮かべたままはっきりと頷き、そして告げた。

「お前こそが一度それを味わってみるべきだ。この世界で生きる全ての人と同じように、それを目指して懸命に生きてみるといい。それこそが、お前が神としてこの世界に何をもたらすのかという事の、新しい指標となるだろうから」

 そう言ってマリエラは空を見上げた。


「私の友らもみんな、私に幸せになれと言うんだ。この世にもう一度生まれ、ちゃんと生きて、それを諦めず探せと。そう言ってくれる友がいるのもとても幸せなことなのだと、今は思うよ」

「マーレエラナ様……」

 だからな、とマリエラは視線をエリオットに戻して小さく呟いた。


「この少し先の未来で、世界が私との賭けに勝つのかどうか。私は、それを楽しみにしているんだ」

「……それは一体、どういう意味ですか?」

 マリエラが浮かべた笑顔にどこか不穏な気配が見えた気がして、エリオットは己の心がざわめくのを感じた。

 けれどエリオットのその問いに、マリエラは答えなかった。


「今はまだ、な。いずれわかる。その時を、楽しみにしている」


 その時のマリエラの微笑みは、エリオットの心にしばらくの間、一筋の影を落とす事になる。



次の更新は一週間後くらいの予定です。

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