20歳(4):星輝く夜明け
マリエラが眠ったまま目を覚まさない。
侯爵家はその知らせにたちまち大騒ぎになった。
リアンナが彼女の傍に張り付き、医者の診察も受けた。癒しの神殿から神官もやってきたが、原因が何であるかもわからず、マリエラは何をしても目を覚まさなかった。
このままでは衰弱してしまうと、母とリアンナとユリエら侍女が交代で看病し、少しずつ水を含ませたり栄養のあるスープを口に運んだりして何とか飲み込ませたが、今までにない彼女の症状に打つ手もなく、皆焦るばかりだった。
マリエラが眠ってから二日後、憔悴した様子のレイルがそれでも仕事をしているのを横目で見ながら、マーカスもまた焦燥に駆られていた。
書き上げた書類を乾かしながらマーカスは自分の机の引き出しをそっと開いた。
そこには、今までにマリエラから貰った魔法文字の見本が束にしてきちんとしまってある。
自分が書き上げたものはみんな彼女が嬉しそうに持っていくから、ここにあるのはマリエラの書いた物だけだ。
それをまとめて取り出し、一枚、また一枚とめくってゆく。
マーカスはこの文字の意味をどれ一つとっても明確には知らなかった。文字一つが色々な意味を含むのだ、とマリエラは言ったがはっきりとは教えてくれなかったのだ。見つめていれば貴方なら何となくわかるから、と言って。
マーカスはこの文字を書き写すようになってから、さらに自由に文字や文章を操れるようになった気がしていた。自分の中の新しい扉を彼女が大きく開けてくれたような、そんな気が。
机の中にはもう一つ、マリエラに渡したいと二日前に書き上げた手紙が入った水色の封筒がある。
これをもう渡せないのだろうか、と一瞬考え、マーカスはぶるぶると首を横に振った。
そんなことがあっていいわけがないのだ、という気持ちが強く湧く。
あの日、彼女に微笑んでいて欲しいとマーカスは思った。その微笑みを自分が守れたら、と。
その気持ちは今も胸に強く残ったままだ。
何か自分にできる事はないかと、マーカスはマリエラのくれた紙を見ながら考えた。
そういえば、それ自体が力を持つという魔法文字を栞にしたりしたことをふと思い出した。
何となくこの組み合わせなら早く良くなってほしいと願う言葉になるんじゃないかなと思ったものを集めて書きしるし、風邪を引いた彼女に何度か贈ったりしたのだ。マリエラはいつも治った後に訪ねてきては丁寧にお礼を言い、良く効いた、と笑ってくれた。
そうだ、それだ、とマーカスは閃いた。
机の下の棚からまだ何も書かれていない紙を束で取り出す。そしてそれをじっと見つめた。
マリエラが教えてくれた文字は、皆頭に入っている。書きたい意味を持つ言葉を強く考えると、不思議とそれにふさわしい文字が頭に浮かぶ。
マーカスはペンをしっかりと握り、白い紙にインクを走らせた。
マリエラが無事に目覚める事を願う文字を。彼女の体がそれ以上衰弱せず、健康を保てるよう働きかけてくれるような文字を。寝たきりでも床ずれが出来たりしない魔法をかけてくれるような文字を。
何かに導かれるように、取り憑かれたかのように、マーカスは日が暮れてレイルに止められるまで、一心に文字を綴っていた。
長い夢を見ていた、とマリエラは浮上する意識の片隅でそう思った。
懐かしい友と会った、嬉しい夢だった。
はふ、と一つ息を吐くと、長い間眠ったままだった体がゆっくりと目を覚ます。まだ何だか暗いけれど今は何時だろう、と思いながらマリエラは重い瞼をどうにか持ち上げた。
パチパチと何回か瞬きし、おぼろげな視界のまま辺りを見回すと部屋は暗く、カーテンが引かれているようなので、夜かなと考える。
喉がひどく渇いていたから水が欲しくて起き上がろうとしたが、体が動かない。何故だろうとゆるりと視線を巡らせると、自分の右手に誰かの頭が見えた。
その誰かがマリエラの右腕を抱えるように突っ伏して寝ているので、上手く体が起こせなかったらしい。
いつもより少し重く感じる左手をどうにか持ち上げ、その頭をつんつんと突く。茶色い髪がさらりと流れて、それがリアンナであることにマリエラは気が付いた。
「リー、ナ」
喉がからからで上手く声は出なかった。けれどもう一度呼ぶまでもなく、次の瞬間リアンナはがばりと顔を上げた。
「お」
「おは、よ……」
「お姉さまぁぁぁっ! 起きたあぁっ!」
バン、ガタガタガタ、バタバタ、と色んな音が立て続けに部屋の中で起きた。どうやらマリエラの部屋には他にも誰かがいたらしい。
「マリー! 目が覚めたのね!」
「マリエラ! い、医者! 誰か医者をたたき起こしてこい!」
すぐにベッドを覗き込んだのは母と父だった。
父の声に、傍に控えていたらしいユリエが慌てて出ていくのが見える。
「みず、」
「わかったわ、ちょっと待ってねお姉さま!」
水をと頼むとリアンナが慌てて用意し、父と母がそっとマリエラの身体を起こしてくれる。
コップ一杯の水を飲み干すと、どうにか声が出るようになった。ありがとう、と言うとリアンナは泣きながら頷いた。
バタバタと入ってきた使用人たちによって明かりが灯され、部屋の中が明るくなる。
起き上がってみると、意外と体が軽い事にマリエラは気がつき、不思議に思った。そんなに長く寝ていた訳ではないのかと思いながらベッドに手を付くと、カサ、と何かが当たった感触がした。
何だろうと思いながら手に当たったそれを持ち上げ明かりにかざしてみると、それはどうやら何か文字が書かれた紙のようだった。
「お姉さま、お医者様が来たわ」
「あ、ええ」
声を掛けられ、その紙をひとまず脇に置いてマリエラは医者の診察を受けた。
「少し脱水症状があるようですが、それ以外は全く問題がないようです……食事をとっておられなかった割に、衰弱も少ない。とりあえず水を多めに飲んで頂いて、後はスープなどの軽い食事からとって下さい」
「はい、ありがとうございます先生」
マリエラが医者に礼を言うと、彼は首を横に振った。
「いえ、私は眠るお嬢様に、何もしてさしあげられませんでした。何が原因かもわからなかったのです……七日も眠ったままで、こんなに元気なまま目を覚ましたのは、本当に、奇跡のようです」
「七日!?」
「そうよ、お姉さまったらもう七日も眠ってたのよ! もう眼が覚めないかと思ったんだから!」
マリエラが仰天して家族の顔を見ると、皆一様頷いた。どうやら夢の中で随分とリリレイラと話し込んでしまっていたらしい。だがそれを皆に説明するわけにもいかない。申し訳なさが募ってマリエラは家族を見回して頭を下げた。
「皆に心配をかけたのね……ごめんなさい。でも、その割には私、元気ね?」
「本当にね。良かったよ、マリー。君が思ったより元気で何よりだ」
「ひょっとしたら、これのせいかもしれないわね。ほら、マリー」
そう言って母が渡してくれたのは、さっきマリエラが脇に置いたものと同じ一枚の紙だった。見ればそれにも文字が書いてある。
「他にも沢山あるよ、ほら」
そう言って声を掛けたのは起こされて駆けつけたレイルだった。促されて周囲を良く見れば、ベッドの上にも下にも、あちこちに大量の紙きれが散らばっている。それらを数枚手に取って見ると、そこにはマリエラの見知った文字が書いてあった。
「これは……もしかして、マーカス様の?」
「そうだよ。マーカスが、君が良くなるようにと、書いたんだ。体の健康を保てるようにとか衰弱しないようにとか書いてあるって言っていた。また取り憑かれたみたいに書き散らして、私にどっさり渡してきたんだよ。しかも毎日追加してくるんだ」
「こんな紙が効くのかって疑ってたけど、これをお姉さまの枕もとに置いたら、何だかはっきり顔色が良くなったのよ。だからお姉さまの周りにばら撒いておいたの。私の癒しの魔法はあんまり効かなかったから、ちょっと悔しかったけど!」
「彼も本当に心配していた。後で礼を言わなくてはな」
家族たちの言葉を聞きながら、マリエラは手の届く場所にある紙を集めて、一枚一枚めくった。
そこには想いのこもった光り輝くような文字が綴られていた。
早く良くなるように、弱ったりしないように、健やかに眠りから目覚めるように、体を損ねないように……考えられる限りの、ありとあらゆる快癒を願う言葉がそこにはあった。
「それから、これも。お前が目を覚ましたら渡してくれと、預かっていた」
レイルが渡してくれたのは、一通の水色の封筒だった。マリエラがそれを受け取ると、横から母が声を掛ける。
「さ、それは後で一人で読んでね。まずはスープを少し飲んで、それからにしたらいいわ。そしたらまた少し眠ってちょうだい。お願いだから、今度はちゃんと目を覚ましてね」
「……ええ。あ、この紙、捨てないでねお母様」
「捨てたりしませんよ。ちゃんと全部とっておくわ」
アマリアに促され、マリエラは家族に見守られながらゆっくりとスープを一杯飲み干した。
家族は順番にマリエラの手を握り、髪を撫で、そして静かに部屋を後にする。
枕もとの明かりを残し、ユリエがまた後で来ると言って部屋を出て行ったあと、マリエラはそっと封筒を手に取った。
少し緊張しながらそれを開き、中の手紙を取り出す。
花模様が透かされた美しい便箋をめくり、マリエラはゆっくりとそこに書かれた言葉に目を通していった。
そこには、不器用で、どこまでも真っ直ぐで、泣きたくなるくらい温かい言葉が綴られていた。
読んでいるだけで、何だか胸の内がポカポカと暖かくなるような気がしてくる。
それはマーカスの、例えこの先何があってもマリエラの人生に寄り添いたいという強い願いが込められた、そんな手紙だった。
マリエラはその不器用さに少し笑い、真っ直ぐさに頬を染め、それから少し涙を落とした。
本当に素直にほろりと笑いが零れ、そして涙が零れたことがなんだか嬉しくて、そして色々なこと全てが楽しくなって、マリエラはまた笑った。
「リリー。君の祝福、効いたみたいだ」
マリエラはそう呟き、窓の方を見た。夜が明け始めているのか、カーテンの隙間から漏れる細い光が少しずつ明るくなっている。
「夜が明けたら……返事を、書こうか」
マリエラはそう呟いてマーカスの手紙をそっと胸に抱き、返事の言葉を自身の胸の内に探す。
自分の心にも夜明けが来たような気がした、そんな朝だった。
そしてこの年の秋、マリエラはマーカスとささやかな式を挙げたのだった。
おまけがあったんですけど雰囲気ぶち壊しなので活動報告に後で載せておきます。




