0~3歳: 生まれ、そして目覚める
マリエラ・メイ・レイローズは、ある晴れた春の日に生まれた。
彼女はそこそこ豊かな国の、そこそこ豊かな侯爵家の長女として生を受けた。
仲のいい両親と元気な兄は待ち望んだ彼女の生誕を大きな喜びと共に迎えた。
マリエラが生まれた朝、庭の花が一斉に咲きほこり、家人たちを大層驚かせた。
美しい庭に響く赤子の産声を聞きながら家人たちは、きっと特別な子供が生まれたに違いないと確信した。
しかしながらマリエラは生まれた瞬間から周りの人々を非常に焦らせた。
何せ生まれた時にへその緒が首に二重に巻かれていたのだ。幸いへその緒が普通より少し長かったため軽く首がしまっただけで済み、尻を叩いたら息をしだしたが、危く生まれる時に窒息死するところだったと医者は後に語った。
いや、そもそもマリエラは生まれる前から人々を冷や冷やさせっぱなしだった。
マリエラを身ごもった母は、あまりにもつわりがひどく、一時は何も食べられず大層痩せて周囲を大いに慌てさせた。流産しかけたことも一度ではない。
彼女とお腹の子が助かったのは、何故かその少し前にふらりと侯爵領に流れてきた腕のいい料理人と助産師の夫婦がいたおかげだろう。二人は他家の推薦状を持っていたことから侯爵家に雇われることとなり、料理人である夫がマリエラの母の為に考案した様々な料理はつわりの彼女を助け、助産師である妻は度重なる流産の危機からマリエラと母を守り通した。
家族はこの不思議な巡り合わせに深く感謝した。
とにかく危機を乗り越え、何とか無事に生まれたマリエラはとても愛らしい赤ん坊だった。
まだ短い髪は母と同じ美しい金髪で、まだ見えていないだろう瞳は父と同じ新緑の色だった。家族はこの子はどんな可愛らしい女の子に育つのかしらと口々に語り合った。
しかしマリエラは生まれてからも大変に難しい子供だった。
まず彼女は乳母を嫌った。乳母として雇われた女性だけではなく、女性の使用人も等しく嫌った。
母と祖母以外の女性が近づくことを許さず、他人の腕に抱かれればすぐさま泣き喚き、むせてミルクを吐くまで泣いて暴れまくった。
おかげで母であるアマリアは貴族の女性には珍しく、子育ての殆どを自身の手で行う事を余儀なくされた。
その結果彼女は大層逞しく頼もしい母へと成長し、その後生まれたすべての子供の子育てを難なく熟す最高の母となったのだが。
そして次に父と兄と祖父以外の男を一切寄せ付けなかった。
使用人であろうが親戚であろうが、ありとあらゆる男を女よりも更に激しく嫌った。
自分の視界に家族以外の男が現れるとじっと身構え、手の届く範囲に近寄ろうものなら火がついたように泣き叫んだ。泣く子には勝てないとばかりに男たちは早々に退散する事を誰であろうが余儀なくされたものだ。
マリエラは体調も良く崩した。赤ん坊が突然熱を出したりすることは長男で知っていた家族も慌てるほどに、とにかく彼女は体が弱かった。
雨が降って気温が変われば突然熱をだし、夏が来れば食欲を落として脱水症状になりかけ、秋が来て木枯らしが吹くと風邪をひき、初雪が降った朝には肺炎を起こして死にかけた。
それ以外にももちろん体調を崩したことは数知れない。彼女が一歳の誕生日を迎えた時、家族は涙ながらに身内だけのパーティを開き、揃って万歳をした。
彼女が様々な病を一年間乗り越えることが出来たのは、ひとえに家族の愛と献身、そして何故かマリエラが生まれる前後に急にこの地域に優秀な医者が移り住んで来たり、癒しの神の加護を得た神官が増えたりしたおかげだろう。
家族はこの不思議な偶然に深く感謝した。
マリエラは育ちも悪かった。
実の母の母乳から離乳食に代わると、今度は頻繁に腹を壊してせっかく増え始めた体重をすぐに減らしてしまう。好き嫌いも多く、母はとにかく苦労してマリエラが食べられる物を探し続けた。
そんな苦労のかいもあって、どうにかマリエラは食べられる物を少しずつ増やし、同い年の他の子供よりも多少育ちは遅いが、着実に成長していった。
彼女が二歳の誕生日を無事に迎えられたのは、海よりも深い母や家族の愛、そして何故かマリエラが生まれてから作物が豊作続きだったことと、ささやかながら地神の加護を得た農家が侯爵家の援助を受けて、栄養豊富な野菜や果物を育てる事に成功していたおかげだろう。
家族はこの不思議な偶然に深く感謝した。
マリエラは言葉も遅かった。
あーとかうーとか声はそれなりに上げるのだが、それでも赤子にしては大層無口だと言えた。
絵本を読み聞かせても聞いてはいるがにこりともせず、口真似をさせようとしてもぷいとそっぽを向いてしまう。
起きている時はいつも何かを考えるように宙を睨み赤子なのに眉を寄せているので、母が心配して眉間のマッサージを日課にしたくらいだ。
夜泣きも多く、父母は毎日交代で、時には祖父母も手伝ってそれぞれの負担を少しでも減らしながら彼女の面倒を必死でみた。
大変手のかかる子供であったけれど、愛情深い人間であった二人には子供を見捨てるという選択肢ははなから存在しなかったのだ。
まるでそんな二人を試すかのようにマリエラは様々な試練を次々に彼らに与えたが、両親は決してへこたれなかった。
マリエラが三歳の誕生日を迎えた日、彼女が初めてはっきりと発した言葉が『とーたま、かーたま』だったことは、両親に涙を流すほどの喜びを与え、その日は家族にとって大切な思い出の日となった。
まだ父と母しか呼ばないマリエラに名を呼んで貰うために、兄と祖父母がその日からマリエラの世話をさらに熱心に手伝い始めたのだが、彼らが呼んで貰えたのは更に三か月が経ってからだった。
全員が彼女に呼びかけて貰えた日は、家族にとっての新しい祝いの日になった。
三歳の誕生日を迎えた次の日。
マリエラはいつものように熱を出して寝込んでいた。昨日三歳になったお祝いにと初めて屋敷の庭に出たのだが、思いのほか風が冷たかったのが原因でさっそく熱が出たのだ。
母は大層それを後悔し、献身的にマリエラの看病に励んでいた。
しかし当の本人の心の中を母が覗くことが出来たなら、彼女は恐らく卒倒したことだろう。
(……天界の馬鹿あほ間抜け! 何で私が私のままなんだ! 記憶が消えてないっていうか急に思い出すとかどういう事だよこの野郎! わざとかおい、クソが! 誰がお前らの為になんか働くか! 審議会の馬鹿どもなんか百回くらい死ねばいいんだ!)
思いつく限りの罵倒を天に向かって投げかけながら、彼女は苦しそうに熱い息を吐いて寝返りを打った。
母が心配そうに顔を覗き込み、額に乗せた布を取り換えて乗せなおしてくれる。
優しい母にそんな顔をさせたことが申し訳なくて、マリエラは彼女に向けて小さく微笑み目を閉じた。
三歳の誕生日を迎えた昨日、皆に祝われ楽しい一日を過ごして眠りについた後、ベッドの中で急に彼女は色々なことを思い出したのだ。
ここに生まれる前の暮らしや様々な出来事、そして大層不愉快なこの転生の経緯を。
この熱はそれによって出た知恵熱に他ならず、自分が風邪をひかせたのだと思って看病してくれているこの優しい母を思うと胸が痛む。
マリエラとして生まれてから今までのささやかな記憶もちゃんと残っており、その記憶は母と父を始めとした今回の家族は皆、こちらが申し訳なくなるほど優しい人たちだと告げている。
いつ死んでもおかしくないような弱い子供を、心の底から愛して守り続けてくれた人たちだ。
こんな非常に病弱な、さらに実は人間不信の塊のような、その上厄介な加護持ちの娘を持つことになった不運な家族を思うと何だか涙が出そうな気分だった。
目を瞑ったことでマリエラが眠ると思ったのか、母は小さな声で子守唄を歌い始めた。
とん、とんと優しく胸を叩く感触が心地いい。
マリエラは本当に生まれたくなかった。魂についた傷はたとえ彼女がはっきりとした意識をもって転生したとしても、彼女の人生に様々な影響を与える事は必至だからだ。
マリエラとして生まれた彼女は何をするにももう飽き飽きし、疲れ切っている。
食事をするのも動くのも面倒くさい。言葉を発したり、新しい事を学んだりするのもだるい。成長するまでの時間が果てしなく長く感じる。
加護を持ったからと言って積極的に世界を救うのも嫌だ。目立ちたくないし崇められたくもない。自分の得た加護が発覚すれば間違いなく認定されるだろう聖女という肩書にも、彼女はもはやちり紙ほどの価値も見出していなかった。
前回もそうだが、人の目を引く存在は必然的に危険も引き寄せるのだ。生きたくないと思っていながらも、積極的に死ぬような目に遭うのももうごめんだった。
そう、マリエラは生きたくないし、死にたくない。
実に矛盾しているが、心の底からそういう気分なのだ。
(とりあえず……寝よう。寝て忘れよう。それが一番いい)
母の声を聞いているとすぐに眠くなってくる。優しい声には偽りのない愛情が溢れており、それはマナの魂に刻まれた傷を少しだけ癒した。
この母のもとで眠る事は、そんなに悪くない。
そう思いながらマリエラはゆっくりと眠りに落ちた。
とりあえず、この優しい家族だけは、ほんの少し信用してみよう。そして、できるだけ愛する努力をしてみよう。
そんな事を考えながら。
この日からマリエラは、睡眠時間がものすごく多く、更に微妙に子供らしくない子供になったのだった。
おまけ
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「どうですか、マーレエラナ様は」
「……どうやら予定通り、三歳の誕生日の夜に無事に記憶を取り戻されたみたいです。さっきすんごい罵倒が飛んできましたよ、ここまで。おかげでライレウス室長は今日は早退しました。どうも怒りの念が突き刺さって体調崩したみたいで。なんか今にも死にそうな顔してました……」
「え……地上から飛んできた念が刺さるって……何それこわい」
「そうなんです、怖いんですよ! マーレエラナ様、めっちゃ神力が強いんですよ! 俺たち今まであんな人に散々面倒な仕事押し付けまくってたんですよ!? 俺もう審議会辞めたいんですけど、そんなことしたら後でどんな目に遭うかと思うとそれもできなくて……」
「やっぱり記憶を保持したまま転生する話、ちゃんと本人に通しておくべきだったんだよ。室長が怯えて先送りにしたもんだから……」
「うう、俺今度、マーレエラナ様の家の侍女とか警護の人間に火の加護を与えることになってるんですが……だんだん不安になって来た……」
「誰に与えるか、すっごい吟味した方がいいですよ。性格とか。変なのに与えると、地母神様直々に笑顔で丸一日嫌味言われ続けるって噂です」
「うう、辞めたい……」
「お互い頑張りましょう……」