18歳:春のきざしか神の戯れか
何事もなく平和に過ぎた十七歳を終え、マリエラは十八歳の春を迎えた。
冬の終わりにたちの悪い風邪を引いて軽く死にかけたが、それもいつもの事だ。
年々死にかける度合いも少なく軽くなってきているのだから、それなりに丈夫になりつつあるのだ、多分。
ところで十八歳といえば適齢期真っ盛り。貴族の女子としてはそろそろ相手が決まっていないとまずい頃合いの年齢だ。しかし今のところ両親や兄の目に適うような相手もおらず、マリエラ自身もこの病弱さで結婚できるなどと全く考えてもいない。なのでいつもと変わらず本を読んだり妹や弟の相手をしたり、暇つぶしに編み物や刺繍などをしてみたり、星座盤で自分の命運を短く出来ないか挑戦するという日課をこなしたりしながら日々を過ごしていた。
「マリエラ、ちょっと良いかな」
ある日の午後、お茶を傍らにのんびりと刺繍をしていたマリエラは、自分を呼ぶ兄の声に顔を上げた。
「どうしたのお兄様、何かご用?」
「ああ、ちょっとお前に見て欲しい経歴書があってね。忙しいかい?」
「あと少し待ってもらえるかしら。この部分を終わらせてしまわないと針を置けないの」
マリエラはそう言って複雑な模様の縫い込まれた布を示した。ちょうど一模様が終わりそうな所だったらしい。
「ああ、構わないよ。急ぐわけじゃないから。それにしても随分と手の込んだ模様だね。細長い布のようだけど、何に使うの?」
「カインの飾り帯に仕立てようと思って。あの子ったら力を持て余して物を壊してばかりいるでしょう? もう少し自制をしたり物事に集中できるようにならないかと思って、ちょっとしたおまじないを刺繍しているのよ」
「へぇ、女の子はそういうの好きだと思っていたけど、マリエラも興味があるんだね」
「あら、私だって一応は女の子ですからね。色々あって結構面白いのよ?」
「じゃあ今度私のも頼もうかな」
そんなおしゃべりをしている間にもマリエラの手はすいすいと動き、あっという間に一模様が終わりを迎えた。糸の始末をして道具を箱にしまうと、マリエラは兄の方に向きなおった。「終わったわ、お兄様。何を見れば良いのかしら?」
手を差し出したマリエラに、レイルはこれを、と言って小脇に抱えていた書類の束を手渡した。
「新しい方を雇うの?」
「ああ、大学の後輩で優秀そうな人間に早めに声を掛けておこうと思って。結局領地の方が忙しくて、このまま私も父上を手伝うことになりそうだから今のうちにね」
レイルは本来の予定では大学を卒業した後は中央でしばらく働き、人脈作りなどをするつもりでいた。しかし発展し続ける領地の仕事が忙しく、父の手伝いが増えてその余裕がなくなりつつあるのだ。
自分の周りに将来必要になるだろう人間も、中央で働いている間に優秀で気の合いそうな者を時間をかけて引き抜いたりしようと考えていたのだが、それらの予定も変更を考える必要が出てきていた。
「私の側近をもう少し増やさないと、どうも今後の仕事に支障がでそうなんだよ。だから急いで見繕っているんだけど、同輩はちょっと使い辛い事もあるしもう行き先を決めている人も多いから、後輩を中心に調査しているんだ」
「そう、大変なのね」
兄の話を聞きつつマリエラはぺらぺらと簡単に経歴書をめくって流し見た。
中身を全く読んではいないだろう速度だ。そして彼女はそのままそれらを三つに分けていく。
「こっちはまぁ良し、これは保留、こっちはだめ……」
それぞれの経歴書は本人に書かせた履歴書と侯爵家で作った調査書とが一揃いになっている。マリエラはそのうちの本人が書いた物だけをさらりと見てその書類をさくさくと仕分けていく。マリエラの人物選定眼は歳を追うごとに洗練され、今は本人が書いた文字に残ったわずかな魔力の痕跡や全体の雰囲気から面接する価値があるかどうかわかるらしい。
そんなことで、と思うがそれが今まで全く外れていないことから、家族の信頼は絶大だ。何より時間の短縮になるため、父マイルズとレイルはマリエラに大変感謝していた。
「これは、あら? ……これは」
書類の束が終わりに近づいた時、マリエラはその一枚に目を止めた。そしてそれをじっと見つめる。
「どうかしたかい?」
「その……これは、とても……とても、綺麗だわ。ええ、本当に何て……綺麗」
マリエラはうっとりと手の中の書類を見つめ、ほう、とため息をこぼした。その珍しい表情にレイルは思わず目を見開いて驚いた。
「ええと……何が綺麗なのかな?」
「この文字が……文字がとても綺麗なの。それに……。あの、お兄様。私この方に会ってみたいわ」
マリエラはそう言いながら自分でもとても驚いていた。履歴書に綴られた文字は確かにとても美しかった。大きさも形も絶妙に整い、けれどほんの少し加わった癖がそこに暖かみを加えている。この文字の美しさだけで、書記官でも写本士でも代筆屋でも、どこででも食べていける事だろう。けれどマリエラを強く引きつけたのはその文字の美しさだけではなかった。
人間の魂の輝きを見通すマリエラの瞳には、その文字はまさにキラキラと光り輝いて見えていた。
この文字を書いた人間に会ってみたい。マリエラはそう強く感じた。
マリエラが再びレイルに呼ばれたのは、その数日後の事だった。
「マリエラ様、こちらへどうぞ」
指定された応接室の外でマリエラを待っていたのはレイル付きの執事だった。彼は応接室の隣の部屋の扉を開け、マリエラをそちらへと招く。
部屋に入ったマリエラは応接室との境の壁に静かに近づいた。この部屋は応接室の中の様子をそっと覗くことが出来る一種の隠し部屋なのだ。一見するとただの控えの間のようになっていて部屋の存在を隠している訳ではないが、そこには家人しかしらない仕掛けが幾つか設えられている。執事はマリエラのために向こう側からはわからない小さな隠し窓をそっと開いた。
隠し窓の向こうを覗き込んだマリエラにまず見えたのはソファに座るレイルの背中だった。彼の側には幾人かの側近や護衛がおり、彼らは隠し窓からの視界を遮らない位置にさりげなく立っている。
そしてレイルの向かい側には、五人の青年が立っていた。今回マリエラの検閲をくぐり抜けたレイルの大学の後輩達だ。学年は皆レイルの一つ下で、来年卒業予定だという。
マリエラは小さな窓から順に彼らを見、そして小さく息を呑んだ。
マリエラの目を誰よりも惹きつけたのは、五人の中でも一番背の低い、ずんぐりとした丸いシルエットの人物だった。背が低く小太り、丸い眼鏡を低めの鼻の上にちょんと乗せ、緊張しているのか手に持ったハンカチでしきりに額の汗を拭いている。マリエラはその彼の姿にうっとりと見惚れ、小さく呟いた。
「……綺麗」
客観的に見れば、男は全く美しさの欠片もないような姿をしていた。
ありふれた茶色の髪は短めに整えられているが、くせ毛なのか毛先が好き勝手な方を向いてしまっている。肌は白いが頬にはそばかすが残り、年齢に不相応な子供っぽさを残していた。
くるりと丸く明るい空色の瞳は愛嬌があると言えなくもないがそれだけだ。貴族の基準で行けばおよそ女性に受ける事はないだろう容姿だった。
けれどそんなことはマリエラには関係がない。彼女にはその姿はまさに光り輝いて見えていた。
(あんなに綺麗なままの魂、初めて見た……だが彼は神の転生体じゃない。なのにあんな輝きを維持しているなんて、何という希有な人間だろう)
五人の青年達はレイルに勧められソファに座り、それぞれが順にレイルと会話を交わしていく。マリエラが見つめる男は話が上手い方ではないようで、汗を拭き、口ごもりつつもレイルの問いに懸命に応えているようだった。
マリエラはその姿に、思わずぎゅっと拳を握って彼を応援していた。
(あああ、なんかもう健気! 頑張れ!)
マリエラは不安げにちかちかと瞬く彼の魂を応援したくて仕方ない気持ちだった。あんなに希有な輝きを宿していたら、人の世では生きづらくて仕方ないに違いないのだ。そう考えるとその輝きが曇らぬよう保護してあげたいような気分になってしまう。もはや健気に頑張る小動物を見ているような気分だった。
そんないつになく真剣なマリエラの姿を、傍らの執事が驚きと共に見つめている事にも彼女は気づかなかった。
マリエラがそうして内心で必死で応援している間に彼らの面接は終わりを迎えた。
レイルの後輩達はそれぞれに頭を軽く下げ、ぞろぞろと退室していく。レイルはそれを見送ってからマリエラのいる隠し窓の方をちらりと振り返り、そして彼女を手招いた。
マリエラはそれを見るや、応接室へと続く扉へ今まで見せたことのないような素早さで駆け寄り、行儀悪く勢いよく開け放った。
「お兄様、彼を採用して下さい!」
「えっ、はい……いや、まず、誰をだい?」
「えっ……ええと、あのキラキラした、ちょっと背の低い、名前は……名前……お兄様、彼の名は何だったかしら?」
人の魂の輝きを見るマリエラは、しかし残念ながらその外見にはほとんど頓着していない。おまけに履歴書の文字の美しさに気を取られて彼の名前すらちゃんと見ていなかったのだった。
「あ、この人ですお兄様。ええと、マーカス・ソル・スロウズ……マーカス様とおっしゃるのね」
兄から改めて借りた今日の客人達の経歴書の中から目当てのものを探しだし、マリエラはその名を確かめてにこにこと笑みを見せた。
そんな妹の珍しい姿に、さっきからレイルは目を見開きっぱなしだ。
マリエラは普段家族の前でも感情の起伏が少なく表情に乏しい少女だ。家族に対して微笑みを浮かべるくらいは良くするが、それでも今ほど嬉しそうな顔をしていることは滅多にないし、付き合いのお茶会や夜会で見せる作り笑顔とも全く違う。
それに加えて、生来体の弱いマリエラは大きな声を出すこともほとんどなければ、乱暴に扉を開けるなんてこともレイルの記憶にある限りした事が無かった。妹がそこまで気に掛ける人物、しかも異性が現れたというのがもう一大事だ。
「マリエラ……その、彼の事がそんなに気に入ったのかい?」
レイルは嬉しそうに彼の文字を手でなぞる妹に恐る恐る問いかけた。
「ええ。思った通り、ご本人もとっても素敵な方でした。あんなに綺麗な方はそういないわ!」
「そ、そう……」
妹はそんなに目が悪かったかとレイルは真剣に考えた。
先ほどあったマーカスが綺麗かと問われれば、十人中十人は否というだろうと彼の審美眼は答えを出している。一緒に面接した他の四人の方が、それぞれ差はあるが遥かに美男子と言える顔をしていたはずだ。
しかし良く考えればマリエラは普段から、一体何を見てその人の人間性を判断しているのかさっぱりわからないところがある。問題のある人物に関しては顔も名前も何度見ても覚えることすらしないのだ。
彼女にとってみれば顔の美醜など些細な事なのだろうとレイルは自分を納得させた。
そうなると後は、妹が彼を採用した後どうしたいのかというところが問題だ。
「……彼は大学の成績も良いし、経歴も問題ない。スロウズ家も地方の伯爵から数代前に分家した領地を持たない官僚貴族で、気になるようなしがらみもないようだ。だから最初から採用するつもりではいたんだけれど……マリエラの傍に配置した方がいいのかな?」
そう聞くとマリエラは書類から目を上げて、不思議そうにレイルを見た。
「え、どうして? お兄様の秘書や書記官として雇うつもりだったのでしょう。それでいいんじゃない? お父様やお兄様のお仕事を手伝える訳でもない私に、書記官はいらないわ」
「そうか……それならいいんだけれど」
「あ、でもたまに私の手紙の代筆を頼んだり、刺繍する文字の下書きをしてもらう事は許してもらえるかしら?」
「そんな事ならいくらでも構わないよ。彼がうちに来るのはまだ来年の話だけれど、その時はちゃんとマリエラにも紹介するからね」
「ぜひお願いしますお兄様!」
大事な妹に満面の笑みでそうお願いされ、レイルは黙って頷いた。
妹が異性に興味を示したのは何となく面白くない話だが、しかしそれでも恋をしたから傍に置きたいという訳でもないらしい。彼の何がマリエラの気をそんなにも引いたのかわからないが、今後の経過を傍で観察していればわかることもあるだろう。そう結論付けて話を終えたレイルはまだ知らなかった。
マリエラが強い興味を示す人間が、ただの平凡な男であるはずがないという事を。
「ところでマリエラ、他の四人の印象はどうだったのかな?」
「え……ごめんなさい、全然憶えていないわ。ええと、履歴書と特別印象が違う人はいなかった気がするから、代筆を出したような人はいないしそんなに悪い人はいなかったと思うけど……」
「……なら仮採用してもう一度見てもらおうかな」
「ごめんなさいお兄様……」
おまけ
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「誰あれ」
「え、知らない……誰か加護した人とかいる?」
「……」
「マーレエラナ様があんなに興味を示すなんて……確かに魂は人間にしてはちょっとないくらい綺麗だけど」
「いやあの歳であれならちょっとないくらいどころじゃないだろ!」
「っていうか、あれじゃない奴で、こっちで一応計画してた素晴らしい伴侶候補っていうのいただろ! あれどうしたの!?」
「いや、あれはその、アウレエラ様に却下されたりしたのも何人かいたし、あと一応出会いまでいったけどマーレエラナ様に全然認識されなかったりした奴もいて……」
「マーレエラナ様の伴侶候補として美男子に生まれるように調整したら、モテたもんだからすっかりいい気になっちゃって女遊びしまくりの奴とかもいたよな確か」
「それあれだろ、マーレエラナ様が占ってた、そのうち年増を押し付けられる奴」
「完全に失敗じゃんそれ!」
多分この時点で一番近いのは萌。
次は9/30の予定です。




