17歳:何もない平和な日々
ある穏やかな日の昼下がり、マリエラは庭の木陰でのんびりと読書を楽しんでいた。
王都の侯爵家の庭の奥、ティーテーブルと座りやすい椅子が設えられた大きな木の下はマリエラの一番の気に入りの場所だ。初夏の風は爽やかに頬を撫で、心地よく眠気を誘う。
隣でさっきからぶつぶつと文句を言っている少年がいなかったら、もっと気持ちが良いだろうに、と思いながらマリエラは新しいページをめくった。
「頼むから聞いて下さいよ、マーレエラナ様!」
隣で文句を言っていた少年ことエリオットは、全く自分に意識を向けてくれないマリエラにとうとう業を煮やし、行儀悪くティーテーブルをがたがたと揺すった。
読書を邪魔されたマリエラはじろりと彼を睨みつけたが、エリオットもひるまない。
彼はアルフォリウスとしてマーレエラナに負い目があるが、それに遠慮していては彼女に話も聞いて貰えないとここ数年の付き合いで思い知っているのだ。
ちなみに今二人がいる空間はエリオットが作った神の領域に包まれ、外界からは一時的に切り離されている。その空間の外に立っている侍女らからは、何事もなく二人が談笑しているように見えているだろう。
「やかましいぞ、アフォ。呼んでもいないのに突然やってきて。お前の側仕えだか護衛だかが変わったのなんて私には関係のないことだろうが」
「関係あるからこうして来てるんじゃないですか! 何とかアレを辞めさせる方法を一緒に考えて下さいよ!」
エリオットはそう言って領域の外に立っている使用人のうちの一人を指さした。彼の供として侯爵家についてきた人間は数人いたが、指の先にいる人物は騎士服を身にまとっているのでどうやら護衛のようだった。
マリエラはちらりと視線を向けたが、その人物に特に見覚えはなかったのですぐに興味を失う。
「誰だかわからん」
「何でですか! 去年マリエラ様が不能にした男じゃないですか!」
そう言われてマリエラは少し考え込んだ。そんなことがあっただろうかと言う疑問が顔に浮かんだのだろう、エリオットはバタバタと大げさに手を動かし、声を荒げる。
「あれですよ! 王宮主催の夜会で、マーレエラナ様に不埒を働こうとして返り討ちにあった男ですよ! その時マーレエラナ様は手首と足首を痛めて、あと風邪を引いてその後しばらく寝込んでらしたでしょう!?」
「……そう言われてみればそんなこともあったか? まぁどうでも良いことはすぐ忘れることにしているからな」
「自分の危機くらい憶えていて下さい!」
確かにそれはマリエラにとっては一つの危機ではあった。けれどその後怪我も風邪も無事に治ったし、怒り狂った父と兄が相手を放っておかなかった。全力を出して家ごとそれとなく追い込み、結果ついに没落させたと聞いたので、もう危機はなくなったかと思ってあっさりと忘れたのだ。
「父上達が、没落したよ! と嬉しそうに言っていたのは憶えている気がするが……没落したならもう関係ないかと思って細かいことは忘れていたな」
「侯爵達の本気が怖い……」
確か、何故か短期間のうちに莫大な借金を抱え込み領地を切り売りする羽目になって、爵位に見合った領地を維持できず家格を大幅に落とされた、とマリエラは聞いた気がした。
「で、それで何であの男がお前の近衛なんかになったんだ?」
「さっき説明したじゃないですかぁ!」
マリエラは全く聞いていなかった。もはやエリオットは涙目だ。
エリオットは仕方なくもう一度最初からマリエラに語った。今度は学習したので、マリエラが意識を本に戻しそうになる度にテーブルや椅子を揺すって無理矢理話を聞いて貰った。大層嫌な顔をされたが。
「聞いたところによると、あの男はあの後その、不能になったことによってあちこちで女達に振られ、大層馬鹿にされたらしいんです。それで落ち込んでいたところに家があれよあれよという間に没落し、家格も子爵まで落とされ、婚約も破棄されたそうで」
「ほう、婚約者がいたのに私に不埒を働いてものにしようとしたのか。家族ぐるみでもう馬鹿の極みとしかいいようがないな」
「全くその通りですが、まぁそれは置いといて。それで、社交界にも当然顔を出せずそのまま消えるかと思われたんですが、ある時何かこう……一周回っておかしな方向に行ったらしく、この試練は神が私に正しい道に帰れと言って下さっているのだ! とか言い出して騎士団の門を叩いたそうで」
神は試練ではなく単純な罰を与えただけだろうに、とマリエラは思ったがまぁどうでもいいことだった。それよりもあの男が騎士団の門を叩いてすぐ近衛にまで抜擢されるほどの実力を持っていたことの方が驚きだ。
「あの男、そんなに実力があったのか?」
「それが残念ながらそうだったようで……もともと剣が得意で騎士学校を出て、卒業後はしばらく騎士団に入っていたらしいんです。その後実家を継ぐ準備をするからと退団したそうで。ですので、実家が没落した事も手伝って復職を認められたそうです」
「ふーん、人格と強さは別だったか。やっぱり本人の罪も糾弾してやるべきだったかな」
「それをしたらマーレエラナ様の名誉に傷がついたかもしれないじゃないですか……あの場合は仕方なかったと思います」
「まぁな。貴族なんて面倒なもんだなまったく」
貴族社会では時に事実よりも嘘の方がもて囃されるものだ。あの男がしたことを罪に問えば、マリエラが部屋に連れ込まれたと言う事が、未遂だったという事実よりも話題になっただろう事は確かだった。それなら責任を取ってマリエラを嫁に貰う、ということになりかねなかったため、見逃したのだ。
「それで、その後あの男は……私は私の神に出会ったのだ、その方にお仕えするべく戻ってきたのだと公言して、大層真面目に訓練と職務に励んだそうで」
ぶふ、とマリエラは思わず吹き出した。エリオットは苦虫をかみつぶしたような顔でそれを見やる。
「か、神ね、フフ、神……間違ってないところが何も言えないな!」
「笑い事じゃないですよ! 結局それで本人の強い希望だし不能だからちょうどいいだろって事で私の近衛になっちゃったんですから! 何とかして下さいよもう!」
エリオットの側仕えや近衛は人選が難しい。本人のここ数年の訓練の成果に加え、女騎士や加護者を周囲に配置することによってだいぶ身の危険は減っているが、それでもまだ気を遣う必要があった。しかし女騎士も加護者も他の場所での需要が高く常に不足気味だ。
そういう経緯もあって、あの男は実力もあるし、不能なら安心だと王が許可してしまったのだ。
「まぁほら、不能なんだからいいじゃないか。安心だろ? 側仕えじゃないなら別にお前の着替えを手伝うような訳でもなし」
「あの陶酔したような目でじっと見られる身にもなって下さいよ! 気持ち悪くて休まらないんですよ!」
「神なんだから崇められるのは慣れているだろ、諦めろ」
「神だって直接見られる事はそうはないはずです!」
そう言って嘆くエリオットを見ながら、マリエラはやれやれと傍らの空いた椅子に置いてあった星座盤を手に取った。あの男を辞めさせられるかどうか一応見てやろうと思ったのだ。面白いから放っておきたいような気もするが、エリオットの災難に一応自分が関わっているとなると多少の哀れも湧いた。
「仕方ない……で、あの男の名は何だったっけ? ゲスだったかカスだったか、どっちだ?」
「カルスですよ……カルス・パム・エルバラ。歳は二十七歳、誕生日は確か……」
エリオットはあの男が配置された時に渡された履歴書の内容を思い出しながらマリエラに伝えた。マリエラはそれらの情報を耳に入れながら星座盤をくるくると動かしていく。
「ふんふん、家がもともと見栄っ張りでろくでもないんだな。それでも騎士学校までは大人しくしていたようだが、騎士団に入ってから悪い遊びを憶えたようだな。ちょっと騎士団の綱紀を改めた方がいいんじゃないのか?」
「今後しっかり考えます」
エリオットは拳を固く握ってそう宣言した。
その姿を面白く見やりつつ、マリエラはまた星座盤を動かす。嫡男の割に二十七まで結婚もせずにいたのは女遊びが楽しかったからのようだった。親には適当に聞こえの良いことを言って王都で大分遊んでいたのだろう。二年前に騎士団を辞めた時に一応婚約者を決めたものの、もっと利のある女を親共々探していたらしい。その一番の狙いがマリエラだったと言う訳だ。
「全くクズだな。だがこの星回り……なんか見たことがあるような気がするな」
マリエラはそう呟いて、過去から現在を終え、少しばかり未来へと盤を回した。
「……不実、破滅、別れ、嘲笑。ふん、ざまぁないな。それから……男、崇拝、孤独、幸福……んー……あ、わかった! わかったぞ、思い出した!」
「何ですか?」
マリエラは男の星回りを未来までぐるりと見回し、そしてようやく思い出した。
「こいつ、前に占ったことがある! こいつはあれだ……女に振られてヤケになって男に走って一生独身だけど幸せに暮らす奴だ、間違いない! お前だったのかカス!」
マリエラは疑問が解けたうれしさで満面の笑みを浮かべてカルスの方を見た。領域の外のカルスは時間の流れが違うためその視線を受けてもピクリとも動かず、ひたすらにエリオットの方を見つめている。
その姿を見てマリエラは確かに多少の既視感を憶えた。カルスは実は随分昔にレイローズ侯爵家を親と共に訪れた人間のうちの一人だった。そしてマリエラが暇つぶしに占った釣書の内の一枚だったのだ。顔を見てもさっぱり思い出せなかったが。
「こいつなら安心だ。こいつはもう女を愛さないから不能のままだし、お前の顔を見ていれば幸せって奴だからな。一生独身でお前を崇拝して幸せに暮らす奴だ!」
「全然安心じゃないですよそれ! じゃあ一生私の近衛のままってことですか!?」
エリオットは思わず悲痛な声を上げた。しかしマリエラは無情にも笑顔で首を縦に振った。
「多分な。不能を理由に家督は妹に譲るんだろう。まぁ異動とかはあるかもしれないが、どのみちどこに行ってもお前に心酔しているのは変わらないだろうな。まぁ、犬を一匹飼ったという事にして諦めろ」
「こんな気持ち悪い犬いりませんよ!」
「じゃあ部屋の前に立っている置物とでも思え。そうじゃなきゃ神としての熱心な信徒が一人増えたと思えば……」
「私の信徒はもっと知的で控えめで物静かな人間ばっかりなんです! こういう熱っぽい目を向けてきたりしません!」
面倒くさい奴だな、と思いながらマリエラはすっきりした気分で星座盤をくるりと回した。この男は生涯その忠誠心からエリオットの人生を助けると星座盤は示している。きっとそうなるのだろう。確かに今までのアルフォリウスの信徒にはいなかったような人間だろうが、しかしだからこそ役に立つと言うこともあり得る話だ。
「私にはどうも出来ないから諦めろ。後はお前が権力を以て首にするしかない」
「いつになるんですかそれ……」
「そんなもんはお前次第だろ。頑張って無力な第三王子から早いとこ脱却するのだな。しかし……人の巡り合わせというのは面白いものだな」
「全然面白くないです……何でこんなことに……」
深い深いため息を吐いて、エリオットはテーブルに突っ伏した。
さらりと流れる金髪が木漏れ日に煌めく。その横顔は美少年の憂える姿として絵師を呼びたいくらいには美しく、それがまたマリエラには可笑しい。
「そろそろ諦めて立ち直れ。今日はこれからロッティとお茶会なんだ。新婚旅行のお土産話を聞く楽しい予定が待っているんだ」
「それはそれは、素敵な予定で羨ましいことですね……」
マリエラの兄レイルと、友人のシャーロットは今年の春についに結婚式を挙げた。
婚約の発表から結婚までの一年ほどの間には色々な方面からの有形無形の嫌がらせや妨害が沢山あったが、それら全てを父と兄が蹴散らしやっと結ばれたのだ。
結婚式の時の二人はとても幸せそうで、美しい兄嫁となった友の姿を見れたマリエラも大変満足だった。今やシャーロットは幸せいっぱいの新妻で、夫婦仲も家族仲も大変良好だ。
「奥様の実家の方にいってらしたんでしたか」
「ああ。婚資として興した共同事業の視察という名目でな。湖が綺麗なところで、エルメイラを祀る大きな神殿があるらしい。神像が美しかったと兄が言っていたが、似てるのかどうか一度見てみたい気もするな」
「へぇ、エルメイラ様を……けどちょっとあそこまではマーレエラナ様には遠いんじゃないでしょうかね。ところでエルメイラ様といえば、リアンナは元気ですか?」
水の女神エルメイラの転生体たるリアンナは、今は貴族の娘が行く学校に通っているので昼は留守にしている。
大体十三歳から十五歳くらいまでの令嬢達が二年から三年くらい通い、貴婦人としてデビューする前に必要なあれこれを学んだり、人脈を作るための女学校だ。
もちろんマリエラは行っていない。入学は義務ではないし、多分すぐ疲れて倒れるからと誰もが反対したし本人も行く気がなかったからだ。そんな引きこもりの姉とは対照的にリアンナは交友関係を広げてそれなりに楽しんでいるようだった。
「ああ、元気だぞ。寮には入らず家から通いだし、気楽に楽しんでるようだ。そういえばリーナもお前に会いたがっていたぞ。もう大分会っていないと文句を言っていた」
「そ、そうですか……なら次は彼女の休みの日に遊びに来ます!」
エリオットはマリエラの言葉に顔を上げ、嬉しそうに笑みを見せた。
その顔を見ていると、本当に面白いとマリエラは思う。
アルフォリウスの転生した姿であるエリオットは、精神が肉体に引かれるせいか天界にいた時よりも随分と明るく、少年らしい姿を見せるようになった。
記憶を取り戻した直後に見せていた天界で罵り合った偏屈な男の面影は、エリオットとしての時間が長くなるにつれ少しずつ消えて今はもうほとんど見えない。アルフォリウスとしての意識がなくなったわけではないがエリオットと緩やかに統合され、ある意味別の人格になったような印象を受ける。今のエリオットは神としての記憶を持っていても、リアンナという一人の少女に淡い恋心を抱くただの少年の顔をしていた。マリエラは最近その顔を見ていると、天界であれほど腹立たしいと思ったマーレエラナとしてのアルフォリウスへの怒りを忘れることがあるのだ。
「生まれるというのは、面白いものだな」
自分を含めて、とマリエラは心からそう思う。
エリオットの淡い恋が叶うかどうか、マリエラは占っていない。
もし叶ったなら、天界に帰った時、アルフォリウスはエルメイラに関して一番うるさい男にさぞかし粘着質に付きまとわれるのだろうな、と思うともっと面白く感じられて、マリエラはくすりと笑ったのだった。
おまけ
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「俺の可愛いエマに悪い虫がつきそうな気がするからちょっと津波起こしたいんだけどどうかな!」
「どうかなじゃないわいエリアルス! 良い訳ないじゃろ!」
「っていうか、王都まで津波が届くわけないじゃない。馬鹿じゃないの、ねぇアウラ」
「そうね。でももし王都まで届くような津波を起こせたとしても、その前に私がエリアルスを土に埋めるから大丈夫よ」
お久しぶりすぎですみません。




