16歳(2): 伸ばす手は既になく
待っていた時間はさほど長くなかったが、体が大分冷えてきたなとマリエラが感じ始めた頃、小さな声がかけられた。
「マーレ……マリエラ、いますか?」
「……ええ。エリオット様?」
名を呼んだ声にそっと返せば、慌ててベランダに駆け寄ってくる芝生を踏む軽い足音。
エリオットはマリエラが隠れているベランダに走り寄ると、トン、と軽い音を立てて手すりを乗り越えた。
少年のなかなかの身の軽さに感心しつつ、マリエラは助けが来たことにほっと息を吐いた。
「早かったな……助かったぞ」
「庭を突っ切ってきたんです。どうしたんですか、一体? まだ夜会は終わっていませんよね?」
エリオットの問いにマリエラは頷くと、窓の向こうの室内を示した。
小さな明りの灯った薄暗い室内には相変わらず転がったままの男が一人。だがどうやら目を覚ましたらしく、拘束を解こうともぞもぞと動いているのが見て取れた。
「あれは何ですか?」
「男だ。名は知らん。まぁ、多分夜会の客の一人だ。控室に戻りたかったんだが、アレに部屋に連れ込まれそうになってな。連れ込まれればその後はお定まりだろうから隙をついて昏倒させたんだが、出ようとしたら外にその妹達がうろうろしていた。見つかってまた何かしかけられたり、この部屋から出てきたところを見られてあらぬ嫌疑を掛けられても困るからひとまず隠れていたんだ。しかもアレを気絶させたときに手首と足を痛めて、長くは歩けそうになくてな」
「連れ込まれかけたって……な、何もなかったんですか!? 大丈夫でしたか? すぐに人を呼んで手当を!」
エリオットはそこまで聞くとまるで自分の事のように大慌てでマリエラの手首や体を見回し、どこかへ走り出そうとした。これにはマリエラの方が驚いた。
「こら、落ち着け。見ての通り私は無事だし、怪我も酷い訳じゃない。どうしたんだ一体」
「だ、だって襲われかけたんでしょう!? わ、私でさえあんなに嫌な思いをしたのに、マリエラは女性ですよ!?」
「アフォ、お前……意外に紳士だったんだな。いや、お前の場合は経験者故の同情か?」
「そっ、そんな事はどうでもいいですから! とにかく手当を……」
エリオットはそう言ってマリエラの痣のついていない方の手を取った。途端、走った痛みにマリエラが顔を顰める。
それに驚き慌ててエリオットが手を離して良く見ると、こちらの手首の方が確かに腫れ始めていた。
「すみません! こっちを怪我していたんですね……一体何したんです? 殴ったわけではないですよね?」
「勢いをつけて扇の柄をアレの鳩尾に突き刺したんだ。上手く入ったが、私の手首の方が思ったより華奢でな。この器はやはり面倒くさい。それよりも、お前に頼みがある」
「……扇ってそんな風に使う物だったんですか……参考にします。で、ええと、頼みとは?」
貴婦人を飾るただの美しい小物の一つと思っていた扇の恐るべき使い道に、エリオットはぶるぶると体を震わせる。
そんな彼を呆れたように見ながら、マリエラは室内の男をすっと指差した。
「ちょっとあいつ落として来て」
「嫌ですよ!!」
間髪入れずに叫んだエリオットの頭を押さえつけて、マリエラは室内から見えない位置に慌てて引っ込んだ。
「静かにしろ、奴に気付かれるし、周囲に誰かいたらどうするんだ。いいから、早く行け」
「だから嫌ですって! 何が悲しくてわざわざ自分から男を落としに行かないといけないんですか!」
「いい訓練だと思って行って来い。お前は加護を抑える方は上達してきたが、意図的に使う方は練習台がいなくてまだまだ未熟だから丁度いい。ついでにちょっと知りたいことがあるから、奴を籠絡して吐かせて欲しい」
マリエラが真剣な顔でそう言うと、エリオットは抵抗を止めてため息を吐いた。
「……一体何が知りたいんですか?」
「あいつの名前だ。特に家名。あの野郎、人を部屋に連れ込もうとしていながら名乗らなかったんだ。どうも以前うちに遊びに来たことがあるようなことを言っていたんだが、全然憶えていなくって……目的は既成事実を作って私と結婚しようという事だろうと予測はつくんだが、家名がわからないと父上たちが追い落とせないだろう」
「追い落とすのが前提なんですね……」
「当たり前だ。そもそも、か弱い女を襲って既成事実を作ってそれを盾に結婚を迫ろうだなどと企てる輩は社会的に抹殺されても文句を言う資格はない。それが世の理というものだ」
確かにそれは一理あるとは思う。マリエラがか弱いのもある意味事実だ。しかしあそこで芋虫の様に転がっている男を見ると、それらすべての前提が間違っているような気がしてくるのは何故だろう。
エリオットはそんな事を考えながら、諦めてそっと窓を開いた。
『いいか、心話で指示を出すからな。頼んだぞ』
『……はい』
男は何故自分がここに転がっているのか理解していなかった。
彼はマリエラに抵抗された事までは覚えていたのだが、そこから先がよく分からなかったのだ。まさかあの華奢でか弱そうな少女に倒されたとも思えず、多分室内に誰かが潜んでいて、彼女ともみ合っている間に後ろから殴られたのだと考えていた。レイローズの娘を狙っているのが自分だけでない事はわかっていたが、妹たちを使っての企てが上手く行ったと思って油断していたのかもしれない。
取りあえずどうにかこのスカーフを解かなければと腕を動かしていた時、窓が開いて誰かが室内に入ってくる気配がしたのに気が付き、彼は一層身を捩った。
体のあちこちが何故か痛むが、こんな無様な格好で転がっているのは矜持が許さない。
しかししっかりと結ばれたスカーフは一向にほどける気配もない。仕方なく男は体をごろりと横に転がし、侵入者の姿を見よう、丁度いい相手なら助けを求めよう、とどうにか上を見上げ。
そしてそこに男は女神を見た。
「ねぇ……大丈夫?」
肩まで伸びた金の髪が薄暗い室内のほのかな明かりを受け、きらきらと煌めく。
濃い青の瞳は薄暗がりで見るとまるで星を宿した夜の空のようだった。その造作は幼いながらも完璧な美を表し、白い肌は夜目にも輝くようだ。まだ成長途中の華奢な体はどこか危うい美しさを湛えている。女神というにはいささか若かったが、それでも男はその美しさに一瞬で目を奪われ、そして思わず喉を鳴らした。
『マーレエラナ様! すっごい気持ち悪いんですけど!』
『頑張れ。そこですかさず「男がときめく心配そうな顔その二」だ。まだあまり近づくなよ』
脳内でマリエラと会話しながら、エリオットは指示通り心配そうな顔を縛られた男に見せた。
言葉づかいもできるだけ男に警戒心を抱かせないよう、年相応の物を心がける。
「あの、一体どうしたの? 平気?」
「あっ、あ、あの、これは、その……ぼ、暴漢に、やられまして……お、お恥ずかしい」
さっきまでその暴漢そのものになる予定だった男は、無様な己の姿を恥らうようにもぞもぞと身を縮めた。
その薄気味悪さに脳内で盛大にわめきながら、エリオットはさも心配そうに、けれど不安を滲ませて一歩だけ近づく。
『いいか、まずは心配そうな顔を見せたまま近づいて、ゆっくりとスカーフを解いてやれ。その際に神力を流してその魂をそっと包め。前に教えたろう、最後に見惚れさせて心に隙を作り、魂を縛るんだ』
『は、はい……』
エリオットはまだ相手に直接触れ、次いでその心に入り込まないと愛と美の女神の加護の力を相手に浸透させて自由に操ることが出来なかった。
彼自身がもう少し成長し、さらに神力の扱いに熟練すれば触らなくても一定の範囲内にいて自分の存在を認識させるだけで簡単に操れるようになるのだが、まだそこに至るには時間がかかる。
『良いか、その手の男は自由になった途端、感極まったフリをして勢いで抱きついてきたりすることがある。言葉にも神力を乗せろ。油断するなよ』
『うう、はいぃ……』
内心では呻くように返事をしながら、エリオットは男の方へと嫌々手を伸ばした。
「酷い目にあったんだね。待ってね、今腕を解いてあげる」
「あ、ありがとうございます……!」
横を向いたまま横たわる男の背後にまわり、エリオットは固く結ばれたスカーフに手を掛けた。そして同時に自分の神力の力場を広げ、男を包むように力を伸ばす。
「う……ん、固いな。なかなか解けないや。あ、ちょっと『動かないで』、ね」
「はい……」
言葉にも神力を混ぜて発すると、それまで何とか身を捩って後ろに回ったエリオットの顔を見ようとしていた男が途端に動かなくなった。気持ち悪さが少し減ったことで小さく息を吐き、エリオットはスカーフの結び目を解くふりをしてさりげなくその腕に触れる。
普段なら頼まれたってこんな男に触れたりしないが、今日はマリエラの存在が傍にある。
彼女はまだあの寒いベランダで一人待っているのだと自分に言い聞かせて、エリオットは必死で男の魂を掴むべく力を操った。
「あ、解けそう。もうちょっと……解けた!」
『よし、男を振り向かせたらすかさず「男を動かす笑顔その六」だ!』
神力が十分男の身に浸透した頃合いを見計らって、エリオットはようやくスカーフを解いた。しかし先ほどの動くなと言いう言葉の影響で、男はすぐには起き上がらない。エリオットは少し距離を取ってから男に声を掛けた。
「解けたよ。『もう動いていい』よ。『こっちを向いて』、さぁ」
エリオットの言葉に従って男がゆっくりと立ち上がり、振り向く。
そこにいたのは無事な男の姿を認めてほっとしたような優しい笑みを浮かべたエリオットの姿だった。
その花のような笑顔に見惚れた次の瞬間、男の意識はそこでまたしても途切れる事となった。
キィ、と窓を開ける音がしてエリオットが振り向くと、マリエラが足を引きずりながら室内に入ってきたところだった。
「上手く行ったか?」
「……ええ。不本意ながら、夢見心地の様ですよ」
苦々しい気分を声にたっぷりと込めたエリオットの言葉通り、目の前の男はうっとりと夢でも見ているかのような顔で彼の顔を見つめ、立ったまま微動だにしない。その顔を見てマリエラは頷き、馬鹿っぽさが倍増したな、と酷い感想を述べた。
「名を聞いてくれ」
「はい。ねぇ、君の名前は?」
エリオットはマリエラの前なので少々気恥ずかしく思いつつも、年相応の子供らしさを乗せた声音で男に問いかけた。操った人間に指示する時はそれまでと口調を変えない方がいいと以前にマリエラに教えられていたからだ。
すると男は陶然としたまま、問いかけられたことが幸せだとばかりに嬉々として口を開いた。
「カルス・パム・エルバラと申します」
「そう。君と結託していたのは、君の妹たち?」
「はい。ライラとセリアです」
「君の今夜の計画は、誰が考えたものだったのかな」
エリオットがそう問うと男はしばし沈黙し、それから父と自分ですと答えた。
「マリエラ嬢を襲って、どうするつもりだったの?」
「それはもちろん、そのまま惚れさせて結婚を承諾させるつもりでした。女など口では嫌だと言っていても、抱かれて口説かれればどうせすぐ靡くに決まっています。あの女は全く私の好みではありませんが、それでも飾っておくには見かけも悪くない。次期エルバラ侯爵の正妻になれるのだから、幸運でしょう」
男にはエリオットの隣に当の本人がいる事すらもはや目に入っていないらしい。マリエラはかなり頭に来ているのか、ついににこにこと笑顔を浮かべ始めた。
その笑顔を横目で見て小さく震えながら、エリオットは更に言葉を続けた。
「結婚するのが目的なの? 他には?」
「侯爵家の長女の持参金なら相当な額のはずですし、あとは結婚後にレイローズ家の関わる産業の技術や利権を融通させるつもりでした」
「君の妹たちの他にも協力者はいるのかな」
「私の親族や側近が、レイローズ侯爵夫妻と息子を引き付ける手はずになっていました。しかしそれをするまでもなく、連中は他の客に囲まれていたようです」
その答えにマリエラは重いため息を吐いた。今頃きっと両親や兄はマリエラの不在に気付き、必死で彼女を探している事だろう。何とかこれ以上の騒ぎになる前に彼らに連絡をつけなければならなかった。
「もういいぞ。知りたいことはわかった。この……名はなんだったか、えーと、カス? 違う? まぁいいや、そんなに違いはないだろう。あとはこのカスの今日の記憶を少しいじって、こいつに兄上たちを呼びに行かせよう」
「そんな事ができるんですか?」
「イリスの加護なら簡単だ。その力は魂深くまで食い込むからな。今日の記憶くらいならそのほんの表層を神力で撫で、今日の事を忘れろと命じるだけでいい。制御を手伝うから、私の言う言葉を復唱してカスに命じろ」
「は、はい」
マリエラはエリオットが承知したのを見ると、彼の手を取りそこに自分の手を重ねて男の胸にかざした。そして言葉を紡ぐ。
「これからお前は広間に行ってレイル・フィル・レイローズを探し、彼に外宮殿の客室棟へ行くように伝え、その後真っ直ぐ家に帰る」
『これから君は広間に行ってレイル・フィル・レイローズを探し、彼に外宮殿の客室棟へ行くように伝え、その後真っ直ぐ家に帰る』
「はい、必ず伝え、家に帰ります」
男はエリオットから与えられた命令にうっとりと微笑んだ。
「お前は今日、酒を飲み過ぎて、家に帰ると夜会での事を全て忘れてしまう」
『君は今日、お酒を飲み過ぎて、家に帰ると夜会での事を全て忘れてしまう』
「はい。忘れてしまいます」
マリエラは男の素直な返事に頷き、にこにこと笑いながら最後の言葉をエリオットに伝えた。
「今後お前はその心を入れ替え、女性を愛し大切にしない限り、不能になる」
『今後君はその心を入れ替え、女性を愛し大切にしない限り、不能になる』……って、ええぇぇぇ!?」
「はい、不能になります」
嬉しそうに命令を復唱する男にエリオットは仰天し、次いで青ざめ、慌ててマリエラを振り返った。
「な、なんてこと言うんですかマーレエラナ様! ふ、復唱しちゃったじゃないですか!」
「別にかまわんだろう。こんなカスの子孫が残らず、世の女たちが少し幸せになるだけだ」
「そ、そうはいってもやり過ぎなんじゃ……」
殆どの美少女が裸足で逃げ出すような顔をしていても、エリオットも立派に男だ。彼の今後の人生に一抹の同情を感じてしまう。しかしマリエラの答えは無情だった。
「馬鹿を言うな。あの手際の良さから見ればこいつは初犯じゃないぞ。今までにも何度も同じようなことをして女を泣かせているはずだ。女性の大切なものを暴力でもって奪おうというのだから、こいつだって大切なものを奪われて当然だ。おあいこというものだろう。そもそもこういう顔と下半身だけで生きているような男は、一回くらいその存在意義を失ってみるべきなんだ。顔はこのままにしてやるだけ、まだ優しいと言うものだ」
「そ、それは……確かに」
「なに、別に永久に使い物にならない訳じゃない。心を入れ替え、女性を愛し大切にするなら、また立ち上がる日もあるだろう。むしろお前はこいつに真実の愛に目覚める機会を与えてやったんだ」
汚すのは簡単でも、入れ替えるのはとても難しいのが心というものなのでは、とエリオットは思ったが、それ以上口を開くのはやめておいた。確かに、同情する余地のない男ではあるのだ。
「さ、もう広間に向かわせろ。私がいなくて探しているはずだ」
「……はい。『もう行っていい。さっきの事を実行して』」
「はい、行ってまいります」
男はそういうと恭しくエリオットに礼をし、多少ふらふらしながらも扉を開けて外に出て行った。
後に残されたマリエラとエリオットは、ふぅと息を吐き、部屋に設えられたソファの方へと移動した。
「ったく、散々な夜だった。やはり夜会なんかには出るもんじゃないな」
「あの、マーレエラナ様、手当しなくていいんですか?」
「面倒だからいい。人を呼べば騒ぎになる。家に帰ってからにする。それより、アイツの名前を私はもう忘れたから、お前が覚えておいて兄上に伝えてくれ」
「もう忘れたんですか!?」
「憶える価値のないものは憶えない事にしている」
そう言ってマリエラはテーブルの上の水差しに手を伸ばした。けれど痛めた腕では重い水差しは持ち上がらない。代わりにエリオットがそれを取り上げ、グラスに水を入れて差し出してくれた。
「マーレエラナ様はそういえば人の顔も名も憶えませんね。何故です? 別に記憶力が悪い訳ではないですよね。読んだ本の事や勉強に関しては私と同じくらい憶えていらっしゃいましたし」
「まぁ、そうだな。そういう事は憶えている。……人の顔はな、意図的に憶えないんだ」
そう言ってマリエラは注がれた水をこくこくと飲み干した。グラスをテーブルに戻し、疲れたように背もたれに寄り掛かる。眠そうに目をこすろうとして、しかし化粧をしている事を思い出したのかその手がまた下におろされた。
「いつもはそうでもないが、今生は……私は弱く、この手は小さいからな」
「ええ、そうですが……」
マリエラが言いたい事を読み取れず、エリオットは不思議そうに彼女を見つめた。マリエラは座ったら疲れが出てきたのか、少しずつ瞼が下がり、今にも眠ってしまいそうだ。
「顔や名を憶えたら……何かあった時、見捨てられなくなるだろう。だから、駄目だ。私は、馬鹿だからな。手が届くなら、伸ばしたいとすぐに思ってしまう……」
「……!」
「でも、もう今さらそう簡単に役目を捨て去ることもできないからな……捨てるには、大切なものが出来過ぎてしまった……だからいざという時でも、私は、間違えてはいけない。だから、目を瞑って、たくさんの事を見ないようにしている」
「マーレエラナ様……」
「まぁそうは言っても今生は、私の方が生きるだけでよほど人の助けを必要としているがな……生きているだけでも、一応人の役に立っているならそれで良しと諦めるしかない」
その答えに驚くエリオットを余所に、マリエラはもはや半分眠りかけているのか、うわごとのように呟いた。
「だが、せめて家族だけは何としても守りたいし……あとは、綺麗な魂は、数が少なく、彼らは人生の中でその純粋さゆえに戸惑い、傷つく事も多い。……だから、そのくらいなら、まぁいいかなって。でも、到底全てには手が届かないからな……大きな手を持っていた私は、届きそうだった私は、もういない……だから……あまり憶えては、いけない」
マリエラはゆらりと頭を傾け、はふ、とあくびともため息とも見える息を一つ吐いた。
「ああ、そうだ……アフォ。今日は、来てくれて、助かった……ありがとうな……」
そう呟いたのを最後に、マリエラの手がかくりと膝に落ちた。
エリオットは眠ってしまった彼女にそっと手を伸ばそうとして、そしてやめた。彼女に手を伸ばす資格が自分にはないと、エリオットはそう思ったのだ。
百年前、緩やかにしか起こらぬ変化に苛立ち、功を焦り、審議会を説き伏せて彼女からその生を奪ったのは自分に他ならない。
届く限りできるだけ多くのものに手を伸ばしたいと願ってしまう。けれど今生ではそれが叶わないからせめて目を瞑っている。そんな優しい神である彼女から、その手を奪ったのは自分なのだ。
それをエリオットは、アルフォリウスはようやく思い知った。
エリオットは黙って部屋にあったベッドから上掛けをはいで彼女に掛けた。
マリエラは十六になったというのに、五つも年下のエリオットとあまり変わらない体格だった。細く、華奢な体は以前よりはずいぶん健康になったというが、それでもまだ生きる力が強くない事は明白だ。
早くも熱を出し始めたのか、マリエラの呼吸が少し早い。彼女のために早く家族を呼んでこなければならないと、エリオットは外へと向かう。
部屋の扉を開け、外にでようとしたエリオットはもう一度立ち止まり、眠るマリエラに向かって深々と頭を下げた。
彼の中でもまた少し、何かが変わった夜だった。
おまけ
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「だから、そこをちょっとどきなさいな?」
「だ、だだだだ駄目ですっ! お、落ち着いて下さいアウレエラ様ぁ!」
「そ、そうですよ! あの男に対する罰はもうマーレエラナ様が下したじゃないですか! それで勘弁してやってください! 領地に大地震はまずいですって!」
地上を見る為の鏡の前に立ちふさがって必死で地上を隠しながら、対策室勤務の神々と、ライレウス室長は口々にアウラに言い募った。
「アウレエラ様! 今大地を乱したら、マーレエラナ様の寿命をもう十年は延ばさないといけなくなりますよ! いいんですか!? 帰ってきたら盛大に文句を言われますよ!」
「う……それは、確かにそうだけど……」
「マーレエラナ様があんなに我慢しながら地上を癒してるんですよ! どうか地母神自らそれをふいにするような事はやめてください!」
マリエラが男に襲われかけたことを知って激昂し、エルバラ侯爵領に侯爵の屋敷を震源地とした地震を起こそうとしていたアウラは、そこまで言われてさすがに渋々と一歩下がった。
マナが辛抱していると言われるとアウラは弱い。彼女の努力を無にするような真似は、彼女を地上に送り出した身としては出来る訳がないのだ。
しかしマリエラが無事だったとはいえ嫌な思いをしたのは事実だし、無理がたたって今寝込んでいるのも確かだ。
腹の虫は到底収まりそうにない。
するとそんな彼女に後ろから声がかけられた。
「大丈夫よ、アウラ。私に任せてちょうだい?」
「イリス……どうするの?」
「ふふ、あのね、あの男、花街の常連なのよ。だから私ね、私の眷属の子たちにお願いして、あの男が出入りする花街の娘たちに愛と美の加護を多く与えることにしたの。より一層美しく魅力的になった娘たちを前に、自分が役に立たない事を思い知らされるなんて、素敵じゃない?」
「あら……いいわね、それ」
「でしょう? ついでに私の神殿にも神託を下ろして、あの男の状態と神の怒りをかった事を伝えておいたの。そして、いつも通り素知らぬ顔で迎え、せいぜい歓待してあげるように馴染みの店に周知しておけって。ああいう男にはそっちの方がずっと効くわよ」
「流石だわ、イリス。貴女、最高ね!」
手を取り合ってくすくすと楽しそうに笑い合う二人の女神を、対策室の面々は青ざめた顔で見ていた。
思わず前かがみになってこそこそと部屋から出ていく者達もいる。
女ってなんて残酷なんだ……とこの部屋にいる男神の誰もが思い知った日だった。
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします!




