14歳(1): おかわいそうな王子様
アランドラ王国の第三王子、エリオット・ソル・フォン・アランドラは沈み込んでいた。
今年九歳になった彼は先日、五歳から数えて累計十三回目の貞操の危機にあったからだ。
今回もからくも無事に済んだものの、毎年平均二回以上そんな危機にあっていると思うとますます気分が沈む。
おまけに彼が成長するごとに段々とその頻度が上がってきているのだ。将来はどうなってしまうのかと考えるともう浮上する事すらできそうになかった。
色々なことを考えると、人と会うのが怖くてここしばらくどうしても必要な時以外自分の部屋から出ていない。九歳にして立派な引きこもりだ。
エリオットは壁に取り付けられた鏡にちらりと目をやった。首の辺りで切りそろえられた輝く金の髪、九歳の子供らしいすらりとした体、そしてどう見ても絶世の美少女にしか見えないその整った顔。自分の姿を認めた濃い青い瞳が嫌そうに逸らされる。
しかしどんなに目を逸らそうとも、彼は確かに『愛と美の女神イリサレア』の加護者の名に相応しい美しさを持っていた。美しい顔は悲しみに彩られ、外を眺めてため息を吐く姿すら絵になっている。
エリオットは再び深いため息を吐いて、傍らにあった椅子に座り、顔を伏せた。
「……神よ。どうして僕にこんなご加護をお与えになったのです。これは、試練なのですか?」
彼には授かったこの加護が祝福だとは、どうしても思えなかった。
――もちろんそれは当たっている。
自分は何か前世で悪い事でもしたのだろうかと考えかけ、しかし神から授かった加護を前にそんな不敬なことを思ってはいけないと自分に言い聞かせる事を何度繰り返したろうか。
――もちろんそれも当っている。
「こんな顔、全然嬉しくないよ……」
自分の目には女々しいとしか見えない顔だが、他者はそうは思わないらしい。
特に男達に対する彼の顔の影響は顕著で、彼の顔を見ると大抵の男は硬直し、頬を赤らめ、陶酔したような顔を浮かべる者すらいる。たびたび血迷う者が出るのでついに護衛の騎士を含め周辺には一切の男を置かなくなったくらいだ。
「外で遊ぶこともできないし……」
最近では学友として用意された子供らと遊ぶこともなくなり、兄弟と触れ合う事も用心して止めてしまった。
七歳で婚約した公爵家の姫との縁談も、八歳で破談になった。
婚約者に笑いかけたらその後ろに立っていた彼女の兄に惚れられて騒動になったためだ。
さすがに血縁者にはこの顔の影響は薄いのだが、それでも以前、異母弟の頭を撫でたら頬を染められたので、それ以来用心することにしている。
「せめて女の子に好かれるんだったら良かったのに……」
この顔は女性にも美しいと思って貰えるのは確かなのだが、好かれる効果の方は男と比べたら全く出ていない。
むしろ、努力もしないのに女より美しいなんて許せないと嫉妬されたり、観賞用にはいいんだけどね、と陰で笑われたり、自分よりきれいな男の隣になんて立ちたくない、と拒絶されたりする始末だ。ついには姉妹たちや母親にまで嫉妬されるこの顔が、彼は本当に大嫌いだ。
エリオットはたった九歳にしてもはや重度の人間不信寸前だった。
「僕には、何かすることがあったような気がするのに……それも探しに行けやしない」
そう、自分には何か大事な使命があった気がするのに。
エリオットはどういう訳か、物心ついたころから気づけばそんな気持ちを抱えていた。その使命が一体何なのか、それはわからないけれど気ばかりが急く。
「どうしたらいいんだろう……」
夕暮れの部屋でぼんやりと窓の外を見ながら、エリオットはまたため息を吐いた。
「……困ったことになった」
王都から帰ってくるなり、マイルズは居間にいた家族の前で開口一番そう告げた。
「どうなさったの、あなた」
「王都で何かありましたか? 別荘へ行くのは中止ですか」
侯爵家の一家はこの夏は家族で少し北にある別荘へ行くことになっていた。十四になったマリエラは最近体調も良く、少しずつだが遠出をしても寝込まなくなってきたのだ。
もう旅行の準備も済み、レイルの大学も夏季休暇に入り、あとは王都からマイルズの帰りを待って出発というところだったのだが。
「何かあったどころじゃない。いや、別荘は中止しないが……第三王子を押し付けられた」
「は?」
「まぁ……第三王子様と仰いますと、エリオット様だったかしら」
「あ、私知ってるわ! 『おとこごろしのだいさんおーじでんか』って言う人でしょ?」
リーナの無邪気な一言で、居間に重い沈黙が落ちる。
一体誰からそんな事を聞いたのかは後で問いただすとして、マイルズは咳払いをし、それから家族を見回した。
「どうも最近城ではエリオット殿下が大変に沈み込んで、部屋に引きこもったまま出てこないのが問題になっているらしくてな。それは別にうちには全然関係ないのだが、避暑にでも行かせて気分転換させたらどうだということになったらしい。それで、何故かうちの別荘で面倒を見てくれないかと依頼されてな。私達が別荘に着いてから数日後にそちらに送り出すからと王に勝手に決められてしまった」
「……なんですかそれは。王家の離宮ならあちこちにたくさんあるでしょう。確か婚約者もいたのでは? そちらに行ったらいいでしょうに」
「あら、エリオット殿下は去年婚約を解消なさったのよ。なんでも双方の気持ちの行き違いが大きく、仲が良くなりそうにないからって」
侯爵家の為にも適度に社交を欠かさないアマリアは真実を知っていたが、詳細はぼかして息子に微笑みかけた。
「……ちょっと、二人ともこっちへ」
子供らに聞かせたくない話をするべく、マイルズはアマリアとレイルを呼んで隣の書斎へと移動する。
「王都で調べた限りでは、エリオット王子が塞いでいるのは本当らしい。気晴らしさせてやりたいというのは全くの嘘でもないようなのだが、それだけでもない。さっきリーナが言っていたことをいっそ利用しようと、王は考えているようだ」
「……男殺しというやつですか、ひょっとして」
レイルが苦虫を噛み潰したような顔で、呻くように言った。
「ああ。聞いたところでは、エリオット王子の魅力は年齢や既婚未婚、恋人の有無に関係なく様々な男を惹きつけるらしいからな。うちの誰かを落とせればそれを理由に我が家に付け入ることが出来るとでも考えているんだろう。万一何か起こっても、それをネタにこちらに要求をのませることができるだろうしな。そうなれば恐らくリアンナを寄越せとか言ってくるだろう」
「僕は別荘に行くのを止めた方がいいですかね?」
「そうしたいところだったのだが釘を刺された。家庭教師は連れて行かないので、大学で優秀な成績を修めているお前に休暇中の勉強を見てやってほしいと」
レイルは思わず舌打ちし、下品ですよ、とアマリアに窘められた。
昨年の神託騒動以来、侯爵家は周りからの様々な要望やら商談やら縁談やらを当たり障りなく捌くのに四苦八苦してきた。
やっとそれも落ち着きを見せつつあり、少しゆっくりしようと家族旅行を計画したというのに、今度は王家のお荷物あるいは最終兵器の押しつけときた。
件の王子に罪がある訳ではないかもしれないが、舌打ちの一つもしたくなるというものだろう。
「アマリアやマリエラ、リアンナには影響はないだろうから王子の世話は任せて、私たち男は少し距離を置くしかないだろうな」
「断れないんですかやっぱり」
「ああ、難しい。ただでさえ今、微妙な立場だしな、うちは」
降ってわいた面倒事にマイルズとレイルは深いため息を吐いた。自分達や一緒に行く予定の部下達が第三王子に入れあげて家を傾けるなんて考えたくもない話だ。
どうしたものかと考えていると、不意に書斎のドアがノックされた。扉を開けるとそこにはマリエラが立っていた。
「お話し中ごめんなさい。あの……お父様たちは、殿下の加護の影響の事で悩んでらっしゃるのでしょう?」
「ああ……ええと、まぁ、そうだね。その、殿下はちょっと困った加護を授かっているものだから」
言葉を濁したマイルズに、マリエラはわかっていると頷いた。
「エリオット殿下の加護の事はお茶会でも時々話題になるので知っています。でもお父様、うちの皆は大丈夫なのよ」
「どういうことだい、マリエラ」
「私、前に本で読んだの。エリオット殿下の様な加護の場合確かに他者に影響を及ぼすけれど、それを受けない者もいるって。受けない条件は、同じくらいかより強い加護者が近くにいて、そちらの影響を強く、あるいは長く受けている事。うちにはリアンナがいるから、お父様たちは大丈夫だわ、きっと」
「本当か!?」
確かにその条件が本当なら、レイローズ家の人間はエリオットの加護の影響から逃れられるかもしれない。
念のため連れて行く人間を厳選した方がいいだろうが、それでも希望が出てきた。
「ええ。そもそもどんな神様でもいいから加護者でさえあれば他の加護者の影響を受けづらいらしいから、お兄様やカインは元々心配しなくても大丈夫でしょうし。使用人や警備の人たちも誰を連れて行くかきちんと選べばきっと大丈夫だと思うわ」
「それが本当なら素晴らしい。後はうちが殿下に何かしたと疑われたりしないよう、十分気を付ければなんとかなりそうだな」
「連れて行く人間も、加護持ちか長くうちにいる者に限定した方が良さそうですね。男たちは特に。すぐに手配しましょう」
ほっとした顔で今後の事を相談し始める父と兄を見やって、マリエラは母と顔を見合わせ無事に避暑に出かけられそうなことを喜び笑みを交わした。
(私とリアンナの神力の力場にいる限り、うちの皆は全然大丈夫だと思うけどね。でも、王子は一応加護の使い方が身に着くように遠回しに教育してやるか……)
マリエラからは地母神とマーレエラナとしての力が、リアンナからはオルストラとエルメイラの力が多少なりとも出ているのだ。どれ一つとってもイリサレアの加護とは同等なので、負ける事はないだろう。
本当ならば王子の加護だって訓練すれば無差別にまき散らさないように少しは調整できるはずなのだ。しかしその方法を教えてくれそうなのが愛と美の女神の神殿となれば、気軽に出かける訳にもいかないのだろう。
男が来るのは嫌だというイリサレアの神託によって、愛と美の女神の神殿はその多くが花街の奥に作られているのだ。もちろん神官になれるのも女だけだ。
年齢が一桁の王子を花街に連れて行くことに難色を示さない人間もいまい。
せめて神殿の場所がもっと人が行きやすい場所だったら良かったんだろうに、とマリエラは女好きの友人を思って呆れ半分のため息を吐いた。
「初めまして。エリオット、ソル・フォン・アランドラだ。しばらくよろしく頼む」
それから数日後。
無事に別荘へと着いてのんびりと過ごしていたレイローズ家に、とうとう問題の客人が訪れた。
護衛の女騎士達に守られたきらびやかな馬車から降り立った王子は侯爵家の面々に迎えられ、どこか不安げな表情でとりあえず挨拶を述べた。
「……ようこそいらっしゃいましたエリオット殿下。何もないところではありますが、どうぞゆっくり休んでいってください」
王子の顔を見ているようで見ないように微妙に視点をずらしながら、マイルズも歓迎の言葉を返し頭を下げる。
そしてすぐに家族の方を振り返った。
「家族を紹介しましょう。私の妻のアマリア、長男のレイル、長女のマリエラ、次女のリアンナ、次男のカインです」
マイルズの紹介に合わせてそれぞれが順に頭を下げる。レイルは頭を下げた後、不自然じゃない程度にそのまま下を向いていた。念のため安全が確認されるまでは王子の顔を見まいとしているのだ。
「さ、長旅でお疲れでしょう殿下。お部屋にご案内いたしますわ」
アマリアがにこやかに一歩前へ進み、王子とその侍女や護衛を案内しようとした。しかし王子と中年の乳母はそれに従ったが、それ以外の侍女らや護衛の女騎士たちは動かない。
「どうなさいました?」
「申し訳ありませんが私どもはこの後、秋にお輿入れなさる第二王女殿下の世話役が足りぬと別の任を仰せつかっており、すぐにここを離れねばなりません。殿下のお世話と護衛の任をレイローズ家の方々にお願いするよう、陛下より書状を頂いております」
そう言って侍女の一人が金色の蝋で封印した書簡をマイルズに差し出した。それに顔色を変えたのはエリオットだ。
「ちょっと待て、僕は聞いてないぞ!」
「申し訳ございません。何分陛下からの火急の命でありましたもので……休暇が終わる予定の日にはこちらにお迎えに上がります。それでは、失礼致します」
「おい、待て!」
しかしエリオットやマイルズが止める間もなく侍女たちは逃げるように侯爵家を後にした。護衛もなくこの場に残され、エリオットは呆然とその場に立ち尽くした。
「エリオット殿下?」
アマリアに声を掛けられエリオットはハッと我に返り、思わず身を固くして一歩後ずさる。年の割に聡明な彼には自分の置かれた状況が一瞬で理解できたのだ。
王である父が、騒動を起こしてばかりで役に立たない加護を授かった息子をせめてもの駒にすることにしたという現実が、悲しいかな理解できてしまった。
侍女や護衛が帰ってしまったのはこの侯爵家でエリオットの身に何が起ころうとも構わないという事だ、と気付いた途端、彼の体がぶるぶると震える。
傍にいるのは護衛などとてもできない乳母一人きり。恐らく彼女すらエリオットの味方ではない。彼に何か起こった時の証人役といったところなのだろう。
エリオットは体から力が抜け、今にも膝からくずおれてしまいそうだった。誰にも助けを求める事も出来ず、自分の親すらもはや信じる事が出来ないとわかった彼の精神はすでに崩壊寸前だった。
しかし次の瞬間、涼やかな少女の声が闇に沈もうとしていた彼の心を繋ぎとめた。
「ほら、大丈夫でしょう? ね、お父様」
「うん、そのようだね。もう下を向いていなくても大丈夫だぞレイル」
「本当ですか? ああ、良かった。ずっとこのままだったらどうしようかと思いましたよ」
「リーナも、カインの目を隠していなくていいわよ」
「はぁい」
リアンナがカインの目隠しをしていた手を外すと、カインは目をぱちぱちさせて辺りを見回し、それから好奇心いっぱいの顔をして見慣れぬ少年の元へと駆け寄った。
「なぁ、おーじ! おーじ、強い?」
「こら、カイン! 殿下とお呼びしなさい!」
「デンカ? デンカってなんか強そう! デンカー、なぁ、デンカやっぱ強い? 剣術できる?」
固まったままのエリオットの顔を覗き込み、カインは子犬のようにくるくるとその周りを回る。
「駄目ですよ、カイン。殿下はお前の剣術のお相手ではないの。お前はあっちで遊んでらっしゃい」
「ちぇっ、はーい!」
カインはアマリアに窘められるとあっさりとエリオットと遊ぶのを諦め、あっという間にお付きの侍女を振り切って庭の方へと駆けて行った。
「ええと……今の、は」
カインと同じ年頃の弟にすら頬を赤らめられた経験のあるエリオットは、あまりにも無邪気であっさりとしたカインの態度に呆然としていた。ぽかんと口を開けた彼を、リーナがくすくすと笑う。
「ね、お姉さま、ぽかんとしてても可愛いって、すごいわね!」
「リーナ、失礼よ。殿下、弟が申し訳ありません。やんちゃな年頃で……」
「あ、いや……」
そう言って謝るマリエラの顔を見た途端、エリオットは再び固まった。エリオットの胸の奥から、何か大切な事が急に湧きあがって来たような気がしたのだ。けれどその何かを彼が捕まえる前に、彼の視界を誰かがさっと遮った。
「殿下、父と母がお部屋にご案内いたしますので。そちらにどうぞ」
「あ……う、うん」
妹を男の不躾な視線から守ろうという兄の敵意のこもった視線に気圧され、エリオットの中のその何かはするりと逃げてしまった。慌ててもう一度捕まえようとしたが、それはもうどこにも見つからない。もう一度マリエラの顔を見れば何かがわかるような気もしたが、しばしの逡巡の後、エリオットは結局諦め踵を返した。
レイルが笑顔で放つ威圧感が怖かったのだ。
男にそんな目で見られた事は物心ついて以来記憶にない。ひょっとすると初めてなのかもしれない。
マイルズとアマリアに案内されて客室に入ったエリオットは、部屋に戻ってからその事実に気づいたのだった。