12歳(後): 天から降るもの
ユリエは固い床の上に寝転がってじっと暗闇を見つめていた。
目隠しの内側で目を開けていても何か見える訳ではない。
けれど、出来るだけ目を開け、耳を澄まし、神経を研ぎ澄まして揺れる馬車の音を聞いていた。
ユリエが目を覚ましてからもう随分と時間が経つ。縛られた体はあちこちが軋み、馬車の振動が体に堪える。それでもしっかりと周囲に意識をやり、自分の状況を少しでも確かめようと努める。
時折ユリエの体に誰か別の人間の腕や足が当たる。自分の他にも何人もこの馬車に詰め込まれている事がわかるが、それは安心できる要素ではなかった。
幾ら神経を研ぎ澄ませても、ユリエにわかる事は多くない。
実家に帰る途中で誰かに路地裏に連れ込まれ、気を失った事。
その間に縛られ目隠しをされてこの馬車に乗せられた事、そしてどこかに向かっている事、同じような境遇の人間が何人もいる事。
馬車は多頭引きなのか、振動の大きさから考えると随分と早い速度で走っていたようだ。
だがしばらく前から速度を急に落とし、今はかなりゆっくりなのでひょっとしたら日が落ちた中を灯りをともして無理矢理走っているのかもしれない。馬車の音に混じって馬の走る音が時折聞こえる事から、誰か別の人間が先導しているらしかった。だとすれば随分と無理をして急いで、遠くへ向かっている事になる。
ユリエはあまり深く物事を考えない性質だが、それは考えても仕方のない事をくよくよと悩まない、目の前の事実をそのまま受け入れる、という性格なだけで、考える事が出来ない訳ではない。
わかる情報から色々と考えた中で、最初はこの誘拐は侯爵家に対するものかと思っていた。
しかし自分が大した駒になるとも思えず、その考えはすぐに打ち消した。
馬車が走る時間が長くなるにつれ、国外と言う選択肢が出てきた。そうなれば、目当てはきっと加護なのだろう。
ユリエの加護は火の神からのもので、さほど大きなことができる訳ではない。部屋や風呂を温めたり、お茶を入れるお湯の温度を調整したりと、普段はそんな事にしか使っていない。
便利だとは思っているが、魔法でもできる事が大半なので、魔力を使えば同じことが出来る者は多いだろう。
ただ自分がお茶やお風呂を用意すると、マリエラの顔色がいつも少しだけ良くなるのがユリエの密かな自慢だった。
多分一定の強さ以上の加護者なら誰でもよかったのだろうが、たったそれだけの加護なのに、こうして攫われるほど欲されることがあるなんて、おかしなものだと思う。
ユリエの加護は、ユリエの為のものではないというのに。
ユリエがいつの間にか加護を授かっていたことが分かったのは十五の年。十二で侯爵家に奉公に上がり、マリエラの傍に着くようになって少し経った頃だった。
加護を授かったことは侯爵家の方々にも使用人仲間にも歓迎され、ユリエも嬉しかった。
しかし同時に、同じように侯爵家で働く加護者たちから、ひっそりと聞かされた噂話がある。
『侯爵家で働くうちに得た加護は、急に仕事を辞めて他領に移ったりすると、突然消える事がある』
神殿に入ったり、侯爵様から話を持ちかけられて他領に派遣されたりするなら大丈夫だという話だが、他家に引き抜かれたり、突然結婚して引越し、などの不義理をしたりして加護を失った者がいるというのだ。
最初は本当かどうか疑問を感じたが、侯爵家で過ごす時間が長くなるにつれいつの間にかユリエもその噂を信じるようになった。
レイローズ侯爵家の人たちは皆どことなく変わっている。
先祖から受け継いだという、甘いと近隣から笑われている家訓のせいなのか、使用人や民に彼らは皆優しい。
強かでやり手なのに野心が少なく、善政を頑なに守る侯爵。
貴婦人には珍しく子供たちを主に自分の手で育て、大抵の事は笑顔で受け入れる奥方。
年齢に釣り合わぬほど賢いと評判で、冷徹な合理主義者だが家族には甘い長男。可愛らしいのに時々強かな次女に、たまに年齢を逸脱した動きを見せる面白い次男。
そしてひどく病弱で、不思議な長女。
もう何年もマリエラの傍にいたユリエは、彼女の不思議さに気づいている数少ない人間の一人だろう。
マリエラはやる気のない時は(それが大半なのだが)かなりぼんやりしているから、本人すらきっと気づいていない。
例えば、マリエラが座って本を読む木陰の影が、太陽が動いても絶対に彼女に日を当てない事。
マリエラの部屋は一階にあるのに、決して外から虫が入ってこない事。
彼女の部屋の傍の木でだけ、餌もやらないのに毎朝必ず鳴く小鳥がいる事。
彼女の部屋のすぐ外にだけ、冬になっても何かしら花が咲いている事。
マリエラが好きだというので植えられた木苺が、何故か彼女が摘みに行ける範囲の木だけ棘をつけていない事。
そういう一つ一つは小さいが不可思議なあれこれに、侯爵家の家族は皆本当は気づいていて、黙っている事。
あとは、レイルがこの上なく優しい顔をするのは妹たちの前だけだという事や、マリエラに顔を憶えて貰えない使用人はいつの間にか辞めてしまう事、それと、マリエラは滅多に占いを外さないが、たまに言いづらかったり悪い結果だったりすると、わざと外すことがあること。そんな時はちょっと悩むようにちらりと右下を見る事、なんかもあったりする。
そういう色々なことを、侯爵家の皆は誰もが些細なことだと考えている。
それよりももっと大事なのは、マリエラが元気で幸せに暮らす事だと思っているのだろう。
まるで侯爵家はマリエラのために用意された美しい温室のようだと思う事がある。そしてユリエもきっと、マリエラのために用意された存在なのだと。
それは決して嫌ではなかった。あるがままを受け入れるのはユリエの得意とするところだ。
人の顔も名もすぐに忘れるマリエラに間違えずに名を呼んで貰えることも、入れたお茶を美味しいと言って貰える事も、些細な事だが大切な、ユリエの誇りだ。
その気持ちがどこから来るのかユリエは知らないが、知らなくていいと思う。
ただ、お茶を入れると必ずありがとうと言ってくれるマリエラが好きだ。
傍に控えるのがユリエである時は安心して過ごしている彼女のために働くのは楽しい。侯爵家の方々の事も、皆好きだった。
ただ、それだけでいいのだ。
何事にも無関心なフリをしていながら、本当はとても優しいマリエラが日々をつつがなく過ごせることこそが、ユリエの望みなのだから。
だから、ユリエは目を開けて、ただ考える。
(……馬を走らせ続ける事はきっと出来ない。どこかで休むかもしれない。大きな火を起こす為には、力をためて、魔力と加護を合わせないと)
火の加護者のユリエは多少警戒されているだろうから気を付けて事を起こさないといけない。それでも、せっかく攫った加護者をすぐに殺すような事はないと思いたい。
時間を稼ぐだけでもいいのだ。侯爵家は、きっとユリエらを放って置いたりしないのだから。
(マリエラ様……私、絶対帰りますから)
チャンスを逃さぬように、ユリエは暗闇を見つめながらただ強くそう思い続けた。
マリエラは天の高みから地上を見下ろしていた。
暗い地上を神の視点で見ながら、今が夜で良かったと考える。
星の女神の御業の一つ、『全天の瞳』は星の出ている夜の間だけ、望めば地上のあらゆるところを見渡せるという神術だ。
便利なようにも見えるが、夜しか使えないし雲が出ていると見えないし、建物の中が見通せるわけでもないという大変微妙な技だと本人はいつも思っている。
それでもこうして役に立つ日が来たのだから、これも無駄な特技ではなかった。
侯爵家の屋敷を眼下に見下ろし、そこから北東へと視点を走らせる。瞬きを一つする程の時間で、マリエラの視界は国境の砦と思われる場所をとらえた。
アランドラの北東には、北の国ネルラルドがある。恐らく馬車が向かうのはその国なのだろう。
国の境には大きく長い河が横たわり、それがそのまま国境線となっている。河には大きな橋が架かり、その両側にはお互いの国の砦がある。アランドラとネルラルドは今は友好国で、砦は戦乱の時代の名残だ。今は国境の関所としての役割を果たしている。
当然ながらユリエらを攫った連中がその砦を通るとは考えられない。
マリエラは砦からもっと上流へと目を走らせた。占いで出たのは、あの大きな橋ではなかったのだ。
(きっと、もっと細い、かろうじて橋って言う感じの……あった!)
夜の全てを見通すマリエラの目に見えたのは、砦よりもずっと上流の川幅が狭くなった場所にかけられた、蔦で編まれた細いつり橋だった。
地元の人間だけが使っているのだろう。かろうじて橋の体裁を保っているという風情の橋は、とても馬車では通れそうに見えない。恐らくはここで馬車を乗り捨て、向こう側に迎えが来ているのだろう。
そこに向かって近づくものを探すと、そこからしばらく離れた場所に、暗闇の中を魔法の明りを灯して馬を走らせる人間たちが目に入った。彼らの後ろには四頭立ての大きな箱馬車の姿も見える。
恐らくはあの中にさらわれた人々がいるのだ。
目でざっと距離を測ると、彼らが橋のたもとまで着くにはあと半刻くらいしかないように思われた。
マリエラは焦った。橋を渡られれば追えなくなってしまう。父の部下や国の兵が追いつくのも難しい。
どうにか彼らを足止めしなければならない。
けれど、どうやって?
その答えは、自分の中にすぐ見つかった。
男たちは夜通し走って疲れ切っていた。乗っている馬もそろそろ限界だ。泡を吹いてもおかしくない馬もいる。
しかし目的地は近い。橋の手前で馬車と馬を捨て、乗せている荷物を歩かせて橋を渡る。向こう岸には迎えが来ているのだ。渡ってしまえばもはや追手は何もできない。
その細いつり橋を使っているのは猟師や樵を生業とする小さな村で、その村はもうとうに寝静まっている。
村の脇をできるだけそっと通り過ぎ、森の入り口に差し掛かる。村人が森から木を切り出すために荷馬車を使うので、村から橋まではかろうじてこの馬車も通れるくらいの細い道が通っていた。
慎重にそこを通って橋を目指す。
橋が見え、誰の顔にも、任務の成功が見えたことに対する安堵が浮かんだ、その時。
突然の轟音が夜空を走り、夜の静寂を断ち割った。
馬が驚いて棹立ち、馬車が大きく揺れて車輪が道を外す。
「何だっ!?」
「馬を止めろ! 馬車がひっくり返るぞ!」
誰もが慌てて馬を抑えるが、まだ轟音は続いている。その音は次第に大きくなり、やがて誰もが耳を押さえたくなるほどになった次の瞬間、視界が真っ白に染まった。
誰もが何が起きたのかわからなかった。ただ激しい衝撃に体を叩かれ、気が付けば全員が馬から叩き落されていた。
馬たちは恐慌をおこし、何頭かは足でも折ったのか倒れて泡を吹いていたし、騎手を振り落して森に走り去るものもいた。
しかしその場にいた誰もが、声も出せず、目の前を見ていた。
燃えながら落ちていく、目の前の細いつり橋を。
「……そんな」
「一体、何が……」
パチパチと乾いた音を立てながら橋が燃えて行く。丈夫な蔦をより合わせてつくられた吊り橋は炎の前にひとたまりもない。
どうしたら、と誰もが思考を停止させていたのはほんの短い間だった。しかし全てはもはや手遅れだった。
とりあえずこの場を離れなければ、と一人が我に返り馬車の方を振り向いた時、辺りは一息で炎に包まれた。
「うわぁあっ!」
誰かの叫び声が辺りに響いた。
馬車のあった方向から巻き起こった炎は、瞬く間にぐるりと彼らを取り囲む。度重なる突然の出来事に、誰もが恐慌を起こしていた。もう少し冷静だったなら、その炎はほんの薄い壁状で、彼らを取り囲むというよりも馬車を囲んでいるのだと誰かが気づいたかもしれない。
しかし彼らはそれを止める事も出来ず、気づけば炎は馬車と彼らを完全に分断してしまっていた。炎はさらに周囲に燃え広がり、パチパチと音を立てながら少しずつ近づいてくる。もはや馬車の姿も見えていない。
「加護者たちが……」
「駄目だ! もう手遅れだ、逃げるしかない! きっと砦から兵が出る!」
「逃げるってどこにだよ! 橋がなくなったんだぞ!?」
「知るか! とりあえずここを離れるんだ!」
男たちは地面に臥したまま動けない数人の仲間を背負い、炎から逃げるように森の中に走り出した。
「……行きました?」
「ええ。もう少し彼らが離れるまで炎を維持できますか、お嬢さん」
「何とか大丈夫です。神官様、残りの皆は無事ですか?」
「今怪我をした人を治療しています。向こうに地の神の加護者の方が木で隠れ場所を作っていますから、炎を消したらそこで助けを待ちましょう」
「はい。けど、本当に助かりました……さっきのは何だったんでしょうね」
「ええ、きっと神のご加護でしょう」
炎の壁の向こう側で、ユリエは壁に向けて手をかざしながらそれを維持し、けれど必要以上に燃え広がらないようにすることに神経を使っていた。
馬車が倒れる少し前、ユリエは小さな火で縛られた縄を焼き切り、そっと馬車の中にいた人々を起こして助けて回っていたのだ。馬車の中にいた見張りの男が、少し前に複雑な道に入ったために御者台に補助に回ったことが幸いした。
そうしてこっそりと縄をほどいて、全員で逃げ出すタイミングを見計らっていた時にあの轟音と衝撃が起こった。
幸い馬車の中にいたユリエ達はその車体に守られ、少し投げ出されただけで大した怪我もなく済んだ。御者台にいた男たちは気絶していたので縛って転がしてある。
ユリエたちは男たちが呆然としている間にこっそりと馬車から下り、その残った車体にユリエがためた魔力と加護の力を使って火を放った。隣にいる男は風の神の加護を持つ神官で、その炎を大きく見えるよう制御してくれている。
即興であったがどうにか全てが上手く行き、ユリエはほっと胸を撫で下ろしていた。
一体あの時の轟音がなんだったのか、何故突然爆発のような衝撃が走り、橋が燃え落ちたのか。
何もかもがわからないが、それでも助かったことには変わりはない。
きっとこれも、誰かが手を貸してくれたに違いないとユリエは思う。
これで自分はあの侯爵家に、マリエラの元に、帰ることが出来る。
そう考えると、体の軋みや疲れなどどうという事もないように思え、ユリエは小さく微笑んだ。
(ああ、間に合った……)
マリエラは椅子にぐったりと寄りかかり、安堵の息を吐いた。
もはや疲れ切っていて、指一本動かせない。
人の器で過ぎた力を使った結果だ。
この器に押し込められ、その大半を封印している神としての力を使うのは、マリエラ自身が想像もしていなかったくらい大変だった。
地母神の加護のような他者から与えられたものや、全天の瞳のような害のない術ならともかく、小さくとも星を生みだしそれを落とすのは天界にいた頃と比較にならないくらいの力を必要とした。恐らく目の前に星を落とすならともかく、全天の瞳を維持しながら遠隔地に力を伸ばしたことや、周囲に必要以上の被害を出さないようにものすごく精密な操作が必要だったことも重い負担だったのだろう。
使った力はマリエラの体の内のどこかを傷つけたのか、先ほどから吐き気がしてしょうがない。
しかし流星を生み出して橋に当ててそれを落としたことを、マリエラは後悔していない。
例えこの後寝込むことになっても、その異変が人々に取りざたされることになっても、ユリエや皆が無事だった。ただそれだけが嬉しい。
もしユリエらが連れ去られていたら、きっとマリエラは自分の魂に新たな傷を刻むことになっただろう。
最後にちらりと見たところ、近くの砦から父の部下らしき三人と彼らに先導された兵士たちが馬で駆けだすところが見えた。きっとすぐに彼らは異変の現場に駆けつけ、攫われた人たちを見つけるに違いない。
ユリエらは、無事に帰ってくる。力を使ったことに後悔はない。
大切なものを自分の力でちゃんと守れた事が、マリエラの魂の傷をまた少し癒した気がした。
この後、血を吐いて倒れているのを母に発見されて屋敷は大騒ぎになり、久しぶりに死にかけてそれから二月に及ぶ寝たきり生活を送ることになっても、マリエラは決して後悔はしなかった。