12歳(前): 傷はひとつではなく
「マリー、具合はどうだい?」
部屋を訪ねてきた兄に声を掛けられ、マリエラは顔を上げた。
季節の変わり目にいつもの通り風邪を引いたマリエラは、布団の中で星座盤をいじりながらベッドに横たわっていた。
十二歳の誕生日に作ってもらったその星座盤は、マリエラが図面を引いて注文を出しただけあって非常に精巧で美しい品だ。
その精密な図面や繊細な作りに驚いた職人が、もう少し簡単な物を複製して販売してもいいかと侯爵に伺いをたてるくらいに良く出来ている。マリエラは意外に器用なのだが、自分からは滅多に何もしないのでそれが知られることはあまりない。
最近の彼女は、天界の隙をついて自分の寿命を短く出来ないか毎日時間をずらして試してみることくらいしかしていない。
おかげで星や運命を司る神々は交代で一日中対策室に詰める事を余儀なくされていたが、そんな事は彼女の知ったことではなかった。
「いつも通りよ、お兄様。心配なさらなくても二日後の朝には良くなる予定よ」
「それなら良かった。マリーの病気予報はどんどん精度が上がっているからな」
「そのぐらいしか特技がないもの」
最近のマリエラは自分の熱の高さや咳の音、節々の痛みなどで、自分の体調があとどのくらいで治るかぴたりと当てられるようになった。だからと言ってそれを早めたりすることが出来る訳ではないのだが。それでも以前よりは多少は予定を立てやすくなったので、全くの無駄特技という訳でもない。
ちゃんと薬を飲んで寝ていれば本当に言った通りの日時で良くなるので、おかげで最近家族は風邪くらいならあまり心配しなくて良くなったのも大きい。
「星占いも得意じゃないか。良く当たるって皆言ってるよ?」
「これはただの趣味だもの。それに人を占う事は簡単でも、その結果を言うのは気が重い事もあるから、得意だなんて言いたくないの」
「そんな事があるのかい?」
「ええ。三股かけたあげくに刺されて死ぬ運命だとか、女に振られて自棄になって男に走って、生涯独身だけど幸せに過ごすとか、二十五まで独身のままで遊びの付き合いしかしなかったら、二十九になった時にある日突然上司に四十二の女を押し付けられる運命だとか。そういうのは、ちょっと言い辛いわ」
「……それは言い辛いね。ちなみに、最後のは誰の占い結果だい?」
「さぁ、名前は何だったかしら……この間お父様の所に来たお客様の誰かの連れよ。私はお父様に紹介されてすぐ下がったけど、なんだか釣り書きを残していったって言うから、試しに占ったの」
それは後で調べておこうとレイルは脳内にそっと記憶した。
最近侯爵領には妙に客が多い。
マイルズが周辺の貴族と上手く仲良くやっているせいでもあるのだが、豊かな侯爵領の恩恵に少しでもあやかろうと、息子や娘を連れて訪ねてくる者が多いのが困るところだ。
あわよくばいずれ親戚付合いでも、という魂胆なのだろう。
それは承知の上で、マイルズはマリエラを客の前にそっと呼ぶ。
相手は娘を紹介されて脈ありかと勝手に喜ぶことが多いが、マイルズの目的は別の所にある。
「占いでそんな結果が出た男は論外だけど、たまにはマリーが顔を憶えられる男がいるといいんだけどね」
「そうねぇ……でも、そういう人は多分年を取るごとに減ると思うわ」
人というのはどうしても汚れやすい。子供の頃は純粋で光り輝いていた魂でも、曇る時はあっという間だ。
マイルズはマリエラが顔を憶えた男がいたら取り立てたり、縁を繋いでもいいと思っているのだが、なかなか出てこないのが現状だった。
「あ、お兄様の友達はたまに憶えやすい人がいるわよ。たまにだけど」
「たまにか……まぁ、人というのは要は使いようだから、僕の周りにはたまにでもいいんだよ。あんまり綺麗な人間ばかりだと逆に使いにくいからね」
「私、お兄様のそういうお父様と似たところ、結構好きよ」
「そうかい? マリーにそう言ってもらえると嬉しいな」
どことなく黒い会話を交わしながら、兄と妹はにこやかに笑みを交わした。
年を追うごとに、マリエラはこの家族の事が好きになる。
当たり前の人間でありながら、風変りなマリエラを娘として妹として姉として受け入れ、何度死にかけても必死に引き留めてくれるこの家族が、いつの間にか彼女はとても好きになっていた。
好きになる努力なんていつからか必要なくなるくらいに。
生きる事は相変わらず面倒くさいが、この家族を用意してくれたアウラには感謝してもいいと思えた。
(思えば家族に売られた人生もあったっけ……それに比べればすごく良い家族だよね)
持って生まれた加護や能力が原因で、家族に神殿に売られたり、軍に売られたりした記憶を思い出しマリエラは遠い目をした。
売られた記憶は確かにマリエラの傷の一つだったのだが、今の家族のおかげでそれも随分と癒えている。
まだまだ傷は多いが、それでも家族というものに対する信頼をマリエラは少しずつ取り戻しつつあった。
おかげで家族相手にならこうして他愛ない事を喋る時間も随分と増えた。
「……お兄様はまだ休暇なのよね? しばらくこちらにいるの?」
「ああ。今は上の学校に進むための準備期間だからね。もうすぐ僕も社交界に顔を出さなきゃいけなくなるし、その準備もあるからもうしばらくこっちにいるよ」
レイルは先だって十六歳まで通う貴族学校を卒業し、そのまま王都の大学を受験し合格している。士官学校という道もあったが、彼はそちらは選ばなかった。大学を卒業したら王都で数年働き、いずれはこの領地に戻るつもりらしい。
マリエラはその返事を聞くと、しばし兄の顔を見つめて、言い辛そうにゆっくりと口を開いた。
「あのね、お兄様。あの……言わないでおこうと思ったのだけど……」
「うん? 何だい?」
「うちに……レイローズ家に、昏い星がかかっているわ。嫉妬、策謀、侵入……きっと何か、起こるわ。怖いの、私」
「……それは、近いのかい? 場所とか何か、それ以上の事はわからないのかな」
「時期は近いかもう前兆は起こっているわ。でもそれ以上はわからないの。ごめんなさい……」
俯いて謝るマリエラの頭を撫でて、レイルは気にしなくていいと微笑んだ。
「ちょっと父上の所に行ってくる。マリエラは心配しなくていいから、もうお休み。早く良くなってね」
「ありがとう、お兄様」
部屋を出ていく兄を寝たまま見送り、マリエラはため息を吐いた。
本当はマリエラにはもっとはっきりわかっている。この領内で、今何が起こっているのか。
けれどそれを言う勇気を、マリエラはまだ持っていない。
かつて、マリエラには地上に生まれ、占いを生業としていたことがあった。
もうそれがいつだったのか年代も定かではないその時、結局はその生業が元で命を落とした記憶が彼女の口を閉ざす。
星座盤を手にするようになってからしばらくしてから、もう随分昔のそんな記憶が最近不意によみがえって、マリエラはこのところ少し沈んでいた。
この世に生まれれば傷が痛みだす、とマーレエラナはかつて天界でそう言った。
それは事実だ。天界の自分の領域には自分を傷つけるものは何もないから忘れていただけだ。
この世に生まれてからというものこうして時折、マーレエラナが記憶の底に沈めた古い傷がよみがえることがあるのだ。
マリエラは占いが今でも好きだが、同時にこの人の世で何かに利用することは怖くもあった。
趣味だと言っているうちはいいのだ。時々わざと外せばそれで済む。
外れても笑われるだけでいいのだからどうという事はない。
都合の悪い事を当てられて怒り出す者や攻撃して来ようとする者とも会わなければいいのだし、都合のいい占いをすることを強要されることも、虚言で人を陥れようとしていると訴えられることもない。
「……まぁ、自業自得なんだよね、それは」
まだ若く、真っ正直でごまかすこともしない、馬鹿だった頃の記憶だ。今回と違って神としての意識もない、ただの人だったのだから仕方ない。
忘れてしまえ、と思うのに。
「地上でついた傷は、地上でしか癒えない、か。ずっと忘れていられたのに、地上に来てから思い出す傷って言うのも、困るよ、ねぇアウラ……」
使うでもなく星座盤を手でいじりながら、マリエラはそっとため息を吐いた。
「マリエラがそんな事を?」
「ええ。心当たりはありますか、父上」
「……ある、と言えばあるな。これかもしれない。見てみろ」
そう言ってマイルズがレイルに渡したのは、数枚の報告書だった。
レイルはそれにさっと目を走らせると、苦い顔を浮かべた。
「加護者の誘拐事件ですか。しかも、もう何件も」
「そうだ。うちの領内にはちょっとおかしいくらい加護者が多いからな……今のところは各神殿の神官数名、というところだ。普通に在野で過ごしているものは、有名じゃない限りその加護の有無が分かりづらいからな」
「確かにそうですね……目的はやはり加護者の囲い込みですか?」
「恐らくはな。今どこの手の者か探らせているが、どうも難航している。うちは他の領地には援助を惜しんでいないから、おそらく国外の可能性も高い。警備も増やしているんだが何せ加護者が多いし、あからさまにその周りに人を増やすとそれが加護者だと教えているようなものだからな……やはりもう少し、私兵を増やさないといけないな。後回しにしたのは失敗だった」
領内が豊かになって来ると人の流入が増え、治安が悪化することもある。そういう時は確かに少し増やしたのだが、だからといってあまり急激に私兵を増やしたりすれば、上の方から痛くもない腹を探られる可能性もあってなかなかに難しい問題なのだ。
「今言っても仕方ないですね。とりあえずすぐ街や村に連絡を回して、加護持ちにさらなる警戒を呼びかけ、自警団による地区ごとの見回りの強化と、うちの騎士たちによる巡回をさせましょう」
「ああ。それくらいしか今のところは無理だな。後は傭兵を雇う算段でもつけておくか」
「母上にこのことは?」
「言っていない。ただ、しばらくはリアンナの傍にいるように後で言っておくよ」
リアンナの加護を知るのは侯爵家以外では王家のみだが、万一ということもある。
しかし結果的に、狙われたのはリアンナではなかった。
「ユリエがいなくなったって……本当なの、お父様」
「ああ、それと、庭師のジョンもだ」
数日後の夜、眠りかけていたところを急に母に起こされ父に呼び出されたマリエラは、そう告げられて顔を青くした。
「ユリエは昨日実家から使いが来て休みを取っただろう。あれが実は偽の使いだったらしい。今日の夕方には戻ると言っていたのに帰らないから、連絡して判明した。ジョンは自分の家から通いだからな、その行き帰りに攫われたらしい」
「どうして、二人が……」
「少し前に神官が攫われた事件で、どうやら神殿が保有していた加護者の名簿も一緒に盗まれていたらしい。他にも何人か攫われたので、今は残りの加護者を全員を集めて避難させているところだよ。犯人達は別の国の者のようだ」
私兵も出して追わせているがまだ助け出したという報は入っていない。侯爵領をすでに出ているという事はわかっているのだが、どの国か絞りきれないのでその先が難航しているのだ。
「お父様……この国は少しずつ豊かになっているんでしょう? 外の国は、まだそんなに違うの?」
「ああ。加護者も少しずつ生まれてきているとは聞くが、まだ荒れた土地は多い。我が国は大分豊かになりつつあるし、うちの領内は特に豊かだから忘れがちだけれど。加護を得た者をうちから他に紹介したり派遣したりはしているんだが、まだ国内で手いっぱいなんだ。しかしだからと言ってまさか国外から、しかも派遣を頼むどころかいきなり誘拐に来るなんていう馬鹿がいるとは思わなかったが……僕の油断だな」
マイルズの言葉を聞いて、マリエラは俯いた。
自分が聖女として立っていたなら、そんな事は起こらなかったのだろうかと考える。しかしすぐにそれに首を振った。
そうしたらきっと、病弱なマリエラはすでに死んでいた可能性も高い。あるいはもっと大きな争いが起きているだろう。
そうたやすく予想でき、マリエラはため息を吐いた。いつだってそうだ。加護があっても、神としての記憶を持っても、力を持っても、この地上ではちっともままならない。
いや、本当は天にいてさえ、思い通りになる事は自分が思っているよりもずっと少ないのかもしれない。神々でさえ、万能ではないのだから。
「マリエラ、頼む。ユリエらの行方を占って欲しい。正確でなくてもいい、せめて今いる方角くらいでもわかれば、助けになるんだ」
「……」
「駄目かい、マリエラ?」
「……間違っていたら、と思うと、私……」
「間違っていても構わないよ。それは君の責任じゃない。自分で判断すべきそんな大事なことを占いなんかに頼った愚か者だと笑われ、責任を取るべきは僕だ。君が気にすることじゃない」
「お父様……」
潔い父の言葉に、マリエラは顔を上げた。
自分を責めるのは時間の無駄だ、と気づく。事態は一刻を争うのだから。
星座盤をくるくると回し、ユリエの事を思う。
占いを始めてから以前一度彼女の事を占ったので、必要なことはわかっている。そこに今日の日付と、時間を加える。
前に占った時はユリエの上に特に気になる星は出ていなかった。マリエラが見落としたのか、それとも何かがあって運命が変わってしまったのか。あるいは今回の誘拐が、ユリエの人生に何ら影を落とさず解決する出来事だった可能性もある。
いや、そうしてみせる。マリエラにはそれが出来るのだから。
マリエラはこの世に生を受けて初めて、自分から誰かのために動こうとしていた。
「北……北東に星が動いているわ。国を示す星は変わらない。まだユリエ達は国内にいるわ」
「それがわかっただけでも大分ましだ。すぐ伝令を出そう。国に掛け合って、同時に北東の国境の軍を動かしてもらえるよう魔法を飛ばすよ」
「ええ。けれどもう少し待って」
部屋を出て行こうとする父を止め、マリエラは傍らに積まれた小さなカードの束と小さな袋を手に取った。
カードはマリエラが作らせた専用のもので、彼女の小さな手の平に収まるくらいの小さな厚紙にそれぞれ数や色が異なる星の絵が描いてある。小袋の中には適当に磨かれた様々な色の貴石が入っていた。これらの使い方はマリエラしか知らなかった。
マリエラはカードの束を机の上にざっと崩し、そこから何枚か次々と拾う。一枚カードを拾うごとに袋から石を一つ取り出し、その色を確かめてはまた袋に戻す。それを何回か繰り返すと、テーブルの上には何枚ものカードが並んだ。
赤と緑を始めとした一つ星のカードが何枚か、それと白の五つ星、黄色の十の星、青い三つ星。それから満天の星の描かれたカードが一枚。
それらを確かめると、マリエラはまた星座盤に目を落とした。
「ユリエの星の行く末に差す星は、恐れ、暗闇、流離、河に橋。小さな希望と……女神、そして帰還」
女神ともう一度呟いて、その手が止まる。マリエラはしばらく考え、そして顔を上げて父を見た。
「ユリエとジョン、そして五人の神官、他に何人か一緒にいます。彼らを連れ去り輸送しているのは、黄色を旗色としている国の兵士で、数は恐らく十人前後。そう離れていないところにうちの所属の人間が三人いるはずです。北東方面に行っている人たちをすぐに探して魔法で連絡を取って。犯人たちはユリエらをつれて大きな川に架かった橋を目指しているけれど、砦の無いどこかから渡るつもりよ」
「わかった。黄色で北東ならばネルラルドの方面だ。国境の砦にすぐに連絡をしよう。レイル、手伝え」
「はいっ!」
父は一言も疑いの言葉を投げず、力強く頷いて踵を返した。
マリエラはそれを見送り、道具をまとめると自分の部屋へと戻る。傍についていた母が心配そうについてきてくれたが、少し休みたいといって部屋に一人になった。
自分以外誰もいない部屋で、マリエラは灯りもつけずにカーテンを開け、そして窓越しに天を仰いだ。今日は夜になっても良い天気で、星が良く見える。
あの占いには父らには言わない続きがあった。
希望と女神、そして帰還。その意味するところは、『女神の助けがあれば、希望は叶い、星は帰還する』
マリエラはユリエの事を考えた。マリエラの傍につく侍女はたまに入れ替わることもあるが大抵はユリエが担当している。マリエラが彼女の事を気に入っているのを皆知っているからだ。
マリエラの傍に彼女がつくようになってもう五年ほどは経つはずなのに、ユリエの魂の輝きは未だに昔と変わらない。
年経るごとに魂の色が濁ることの多い人の中にあって、彼女は稀有な存在と言えた。
真面目で心優しい、そしてあんまり煩いことを言わないユリエ。
マリエラが色々な事がだるくてだらりとしていても、彼女は他の侍女のように小言を言ったりしない。
一度何故何も言わないのか聞いたことがあったが、ユリエの答えは、「お嬢様はちゃんと場を心得ておいでと私は存じております。お嬢様がそんなお姿の時は、息を抜きたい気分でいらっしゃる時でしょう。それならば私の役割はそれを邪魔することではなく、誰もお嬢様のそんな姿を見ないよう周囲に気を配ることでございますから」というものだった。
美味しいお茶を入れてくれるユリエ。お茶が美味しいというと嬉しそうなユリエ。器用じゃないけど辛抱強く、いつも一生懸命で、いつだって真っ直ぐマリエラを見ているユリエ。
マリエラは窓辺に椅子を一脚引きずってくると、そこに座り背もたれに体を預けて力を抜いた。
この人の身でどれほどの力が使えるかはわからない。
けれどマリエラは、自分にできる全ての事をやってみるつもりだった。
もう長いこと傍にいてくれた、ユリエのために。
「……我が名は、星天のマーレエラナ。応えよ、我が身の内の力。見通せ、全天の瞳」
そう唱えた次の瞬間、マリエラの視界は暗転した。




