生まれる前のお話
無数の魂のための修行の場として作られた一つの世界のはるか高み、地上とは次元を異にした場所。
つまり天界と呼ばれる場所の片隅に、小さな森と小さな湖と小さな小屋のある、小さな世界があった。
小さいけれど美しい森の中で聞こえるのは小鳥達のさえずりだけ。
この閉じられた小さな世界、とある神が作り出した個人空間には主の望むもの以外は存在しない。
しない、はずだったのだが。
「嫌だ! 絶対やだ! 死んでも嫌!」
静かな森の中に突然、似つかわしくない怒鳴り声が響いた。
「そこを何とか、お願いします! 本当に他にいないんですよ!」
対して怒鳴り声の主に必死に懇願する声は、縋るような響きを帯びている。
先ほどまで可愛い声で鳴き交わしていた小鳥達は、声に驚いてたちまちどこかへ散ってしまった。
「いーやーだ! 私は休暇中なんだ! あと千年はこの森から動くつもりはない!」
「千年て長すぎですよ! もう百年も引きこもってるじゃないですか、十分でしょ!?」
声の主はその強い調子とは裏腹に華奢な体躯の女性だった。さらさらと背に流れる真っ直ぐな金の糸。瞳は新緑を溶かしたかのような美しい宝玉。怒鳴り声さえ涼やかな彼女は、穏やかに微笑んでいたなら見るだけで人の心をさぞや癒したことだろう。
しかし美しいその顔は今は嫌そうにしかめられ、歯をむき出しにして目の前の男を威嚇する姿はとても穏やかとは言えなかった。
「何が十分なもんか! 私の魂は傷つき疲れ切っている! 前回は背中からバッサリ、前々回は毒殺、その前は磔火あぶり! 毎回毎回お前らが持ってくる仕事は本当にろくでもない事ばかりだ! 千年の休暇だって短いくらいだ!」
「そ、それは……過酷な仕事を頼んで確かに申し訳ないと思っています……」
哀れっぽい男の言葉に、しかし彼女は首を大きく横に振った。
取りつく島のない態度に、男の顔が悲しげに歪む。男もまた大層な美貌の持ち主で、そんな顔をすれば世の女の大半がすぐさま駆けつけて慰めるだろうという風情だった。背には大きな白い羽根が生えているが、心なしかその羽もしゅんと萎れている。しかしそれらは彼女には何の効果ももたらさなかった。
「はん! なーにが申し訳ないだ。だったらお前らが代わりに行けばいいだろう。上でふんぞり返っていないで、たまには下に降りりゃいいんだ。何、簡単な仕事さ。ちょっと生まれて、長くても三十年ほど生きて、死んで来ればいいだけだからな! 任期も短いし楽でいいだろ。お前らがそう言って笑っているのを私が知らないとでも思っているのか?」
鼻で笑った彼女に、男は思わず返す言葉を失った。
確かに彼女のこなした過酷な仕事の記録を見ながらそんなことを言い、でも自分なら絶対嫌だけどな、などと笑っている同僚らがいたのは確かなのだ。誰が彼女にそれを伝えたのかも知らないし、自分がそれに加わったことも一応はないが、同僚として責められても仕方のない話だった。
「私ほど死に方の種類が豊富なのも珍しいよなとも言っていたらしいな。確かにおかげで私は満身創痍で、魂には見えない傷が山のようにある。そういう訳で、絶対に、い・や・だ! 生まれ変わって聖女になるだなんて、そんなもんはもう少なくとも五回はやっている。今更ありがたくも何ともないわ!」
「本当に申し訳ありません……でも、貴女にお願いするしかないんですよ! 今回の聖女は地母神様のいとし子です、地母神様が貴女じゃなきゃ加護しないって仰るんですよぅ! 地母神様が滅多に地上に直接の加護を下さらないのはご存知でしょう。でも今回は下の階級の地神方ではもう間に合わない、非常事態なんです!」
泣き声に近い男の声に彼女は不快そうに眉をしかめると、小指で耳をほじった。美しい見かけが台無しな仕草だ。
「男の泣き声なんぞ聞かせるな。耳が腐る。」
「うう、ひどい……」
「何がひどいもんか。すべて貴様らの怠慢だろう。人手不足だからって安易に『地上干渉資格試験』の合格基準を下げやがって。そのせいで馬鹿な下級神の中に資格持ちが増えて、そいつらがちょっと気に入ったからって人間に加護を与えまくったんだろうが。あげくに加護者同士の戦いで地上がめちゃくちゃになっただと? アホか! 自業自得だ!」
天に座す神々の加護と共に生きる世界、と人々が呼ぶ地上世界ノヴァ。
神々は自分たちの神としての修行のために、様々な形で干渉し、世界を動かす。
しかし、天界から人の世界に干渉するには意外にたくさんの制約がある。
神々と呼ばれるくらいに力のある魂を持つ者はそれなりの数がいる。
彼らが皆好き勝手に世界に干渉すればそれこそ様々な天変地異や奇跡が起こりまくって地上世界が崩壊しかねない。
だから干渉するには上位の神々の間で話し合い決められた厳格な資格試験に合格しなければならないと定められているのだ。
その資格も幾つもの階級や分野に分かれ、持った資格によって干渉できる範囲も細かく分かれている。
神といってもその力も本人の性格も個人によって差が激しいがゆえの必要措置で、ついこの間まで資格を持たない力の弱い下級神などはせいぜい『加護:職種限定(弱)』や『見守り』くらいの干渉しか許されてはいなかった。
ついこの間までは、だ。
「そうは言っても、本当に人手不足が深刻だったんです……百年前の戦争と、その後始末でもうてんてこまいで」
「ふん、だからなんだ。あの戦争が私のせいだとでも言いたいのか? 言っておくが私はお前たちの計画に従ったまでだ! 世界が最近停滞してきたので大幅な技術の向上を図りたいと提案してきたのはそっちだろうが。しかも私にはそう言っておきながら、戦争を起こしててっとり早く技術の向上を狙うなんていうあほな副案を隠しておいて、私を勝手にそのきっかけにしたのは誰だった?」
「……重ね重ね申し訳ありません」
「大国の王太子の暗殺とくれば、戦争のきっかけには十分だったろうが。結果それで世界が動いたのだ。満足だったろう?」
百年前、とある国の王太子の死によって、天界の思惑通り確かに世界は動いた。
しかし、彼らの誤算はその王太子の影響力を過小評価していたことだった。
大国とは言えまだ若い王太子。彼一人が死んだところでまだ下に弟妹もいる。隣国の暗殺者に殺された彼の弔い合戦はその大国と隣国の間で済むと思っていたのだ。
しかし、その王太子は非常に人に好かれる性質だった。彼は少年の頃から自国に留学してきた周辺諸国の王族貴族と交流を持ち、また自身も他国へと良く赴いた。市井に降りて民と交流することも好んでいた。
誰からも好かれる優しく朗らかな人柄で外交や民間との交流に大いに貢献し、彼がいるからと大国と新たに和平を結んだ国の数の多さを天界がきちんと把握していたら、天界側ももっと違う手段を持って世界を動かす道を探したことだろう。
彼の死後、彼の弔い合戦から始まった戦火は瞬く間に周辺諸国に飛び火した。もともと危い均衡で保っていた平和だったこともあり、その火は収まるところを知らなかった。
人々に加護を与えていた神々はその加護者を守ったり、力を与えたりするのに大わらわになった。
国々の版図は目まぐるしく変わり、それが変われば国に加護を与えている神々の勢力圏も変わってしまう。
その変化やせめぎ合いを巡って神々達の話し合いが長い時間をかけて行われたが、それももちろん穏やかには済まなかった。
結局その後、確かに長引く戦で様々な技術は向上したが、同時に戦で消えた国や技術や文化もあったので、この計画は失敗だったという結論が出た。
その頃には勢力圏を大きく失って力を落とした神や、愛しい加護者を失って意気消沈した神々の中には引きこもってもう何十年も表に出てこない者もかなりおり、天界は随分な人手不足ならぬ、神手不足になってしまったのだ。
その不足の解消のために、資格試験の合格者枠の増加が決定されたのだが……。
「本来なら、加護を与えられる人物も出来るだけ純粋で高潔であるべきだというに、そんな原則も無視しおって。特に強い加護は受ける者も有資格者たる神の転生体でなければならないという規則も破られたようだしな」
「……仰る通りです」
百年前に始まった戦争は三十年続き、ただでさえ世界は大きく疲弊していた。
そこに新たに干渉資格を持って浮かれた神々が次々に人々に大きすぎる加護を与えたものだから世界は大混乱になった。下級神とはいえ一応は神だ。その本気の加護はただの人間が持つには強すぎる。
結果、力を貰った人々が好き勝手に暴れる群雄割拠の時代へと世界は移り変わってしまったのだ。
加護者たちが次々と小さな勢力を作って国を興し、それぞれが覇権を巡って争った為に一体どれだけの血が流れたことか。考えなしに大きな力を使った者も多かったため、地形が変わった場所も少なくない。
本来ならばそれほどの力を持つことが許されるのは、その資格を持つ者に限られるというのに。
結局、長く続いた争いでどの国も疲弊し尽くし、争う余裕がなくなったことでようやく戦乱の時代は終わりを告げた。今は人々はかろうじて残った国々で小さくまとまり、どうにか生きているのがやっとという状態だ。
「どうか、どうかお願いします……もう地母神様の加護をもってして、大地を一気に癒すしかすべがないのです。全て私達の失敗です。貴女には本当にご迷惑しかかけていないとわかっていますが、他に今転生できて、資格を……『地上転生:加護受託資格(特級)』を持つ神は他におられないのです!」
地上世界ノヴァには、時折神々も人として生まれる事がある。
世界が停滞したり天の予期せぬ方向に向かおうとしている時に非常措置として地上に生まれ、それらに影響を与えて世界を動かしたり、その方向を修正したりする役目を担うのだ。
だがしかし人として生れ落ちる時に力を大きく制限されるためその大変さから嫌がる神も多いし、生まれたとしても一人で世界を動かすことはもちろんできはしない。
世界を動かすには外からの力も必要で、その力を授けるのも資格ある強い神である方が望ましい。
そうなると記憶を封じてまっさらな人間として生まれても、得た加護に左右されて道を踏み外さぬ高潔な人柄であることが求められるのは必然な訳で。
「くっそ、何でこんな資格を取ったんだ私は! 馬鹿か! いや、馬鹿だ! 間違いなく馬鹿だった!」
純粋で人を疑う事も知らず、ただ他者の役にたてばと資格を取ってしまった光と愛に満ちた若かりし日の自分を彼女は口汚く罵った。
彼女が持つ資格は『地上干渉資格:特級(限定解除)』というものだ。
その名の通り、計画に従えばあらゆる制約を取り払って地上に干渉することが許されている。それはもちろん自分が地上に転生した際も最大限の天の支援を受けることが出来るということだ。
だがその資格を持つ数少ない存在であるばかりに背負わされてきた様々な苦労とバラエティに富んだ死に様を思うと罵りたくもなる。地上に生まれ世界に様々な影響を与えた事は間違いなくても、もはや彼女にとってはどれも黒歴史のようなものなのだ。
そんな彼女の自身への止まらぬ罵倒を遮ったのは、柔らかな女性の声だった。
「そんな事を言ってはだめよ、マーレエラナ」
美しい金髪をガシガシと掻き毟っていた手がぴたりと止まる。
彼女が顔を上げればそこにはいつの間にやって来たのか、新たな客人の姿があった。
「アウラ……」
「ち、地母神様っ」
地母神と呼ばれた彼女は慌てたように一歩下がって礼をとる男に鷹揚に頷き、柔らかな笑顔を浮かべてマーレエラナと呼んだ女性の元へと歩み寄った。そして立ったまま男と話を続けていた彼女の手を取り、傍らの花畑へと誘い腰を下ろす。男はそんな二人を見守るように少し離れた場所へと移動した。
「久しぶりね、マナ」
「ああ……アウラも元気そうだ」
昔からの大事な友の一人であるアウラには、さすがの彼女も強くは出られない。
地を司る神々の頂点たる地母神アウレエラは、その名の通り柔らかで暖かな雰囲気の女神だ。豊かに波打つ土色の髪と、慈愛に溢れどこか愛嬌のある美しい顔、マーレエラナとはまた違う、深い森の瞳。
姉妹のように親しくしてきた神の一人である彼女の顔を見ると先ほどまでの怒りが薄れてしまい、それが何となく悔しくて、マーレエラナは憮然とした顔を浮かべた。
「君まで来るとは、よほど本気らしいな……。だがアウラが何を言っても駄目だ。私はまだ地上に生まれる気はない。もう当分ごめんなんだ」
「貴女の苦労は毎回上から見守ってきたから良く分かっているわ。もちろん、安易にわかっているなんて言っては貴女に失礼だという事も十分承知しているの。それでも、今回は本当に非常事態のようなのよ」
「それなら尚更だ。今の私はまだ前回、地上干渉計画審議会が企てた私の死に納得していない。下に降り立って、こんな気持ちのままで十分な仕事などできないから断っているんだ」
資格を持ってしまって以降、何度も地上に生まれた彼女は基本的には女神ではあるが、計画の為に男として生まれる事も多かった。
百年と少し前、彼女はその問題の王太子として地上に生を受けた。
その際に彼女が聞かされた計画では、周辺諸国との関係改善による技術交流や文化の発展を促し、同時に下層階級への教育の推進などによって文明度の底上げをする、となっていた。平和的なその案に彼女は賛同し、生まれる事を承諾したのだ。
しかしその計画には他にも代案が幾つかあり、上層部は彼女が生まれた後、時間がかかる計画を修正することを勝手に決定してしまった。
その結果の自分の死と、それまでの人生が無駄になったことにマーレエラナは大きく傷ついた。
自分だけの小さな世界を作り出し、そこに引きこもってゆっくりと傷を癒す時間を必要とするくらい傷ついたのだ。
「今度ばかりは私は天界に不信を持った。もう純粋ではないこんな気持ちで大きな力など扱えない。それこそ今度は私が天変地異を引き起こすかもしれない。私は特級資格の返上も考えているんだ」
「あの計画を実行した者達やその後の騒動を引き起こした馬鹿達は千年の謹慎と研修をさせられているわ。それでも貴女の苦しみと悲しみを思えば足りないくらいでしょうけど……でも、もう貴女だけが頼みなのよ、マナ……運命を廻す女神、マーレエラナ」
アウラの告げた名に、マーレエラナは眉を寄せた。
いつからか呼ばれるようになったその二つ名を、彼女は好いていなかったからだ。
遥か昔、創造主と呼ばれる始原の神が自らの下に多くの存在を作った時、生み出された一柱である彼女は特別力のある神ではなかった。世界の頭上に煌めく星々を司る女神として生まれたが、同じような仕事に就く者は他にもおり、彼女は取り立てて特別な存在ではなかった。
彼女を天界で特別な存在にまで押し上げたのは、他者よりもほんの少し若い見かけで、少しばかり夢見がちで、光り輝くような希望をその胸に抱いて生まれたばかりの地上を見ていたこと、ただそれだけだった。
創造主が意図したのかどうなのか、その性質を少しずつ受け継いだ神々はそれぞれ個性に溢れていた。
その個性として創造主がマーレエラナに与えたものは何かと問えば、かつての彼女は恐らく『喜びと願いだ』と答えただろう。
神によってこの世に生み出され、自身を高めて行ける喜び。
地上に生きる人々に、自身が創造主から与えられた光と愛をもたらしたいという願い。
若い彼女を動かしたのはその二つだけだった。
そうしてその二つに突き動かされた彼女は長い修行を得て力をつけ、やがて少しずつ地上に干渉する資格を得る事になった。時と共に資格も少しずつ上のものになっていき、最後には全ての制限を取り払って地上に干渉する資格まで有してしまったのだ。
この資格を持っている者は神々の中でも少ない。数少ない彼らがその力を使ったり、転生して地上に降りる時、それは救世主や世界的な宗教の教祖、偉大な覇王などが生まれ世界を大きく動かす時と相場が決まっている。
けれどマーレエラナはいつもそうした立場に身を置くことを望まなかった。大きな力は好きではないと、ありふれた人間の一人として生まれる事の方が多かった。
そうしてゆっくりと世界を変える事を彼女はいつも目指して来たのだ。
「その名は好きじゃないと知っているだろうアウラ。何が運命だ。いつだってそんなものは私とは無関係に勝手に転がっていくだけだ。主に審議会の思惑でな」
「その審議会の思惑すら無為にするほど世界を動かすのはいつも貴女の方じゃないの。まぁ、審議会もいい加減貴女の性質を正確に理解したうえで物事を進めればいいのに、本当に馬鹿なのよねぇ」
この上なく優しい声でアウラはそう言ってため息を吐いた。後ろでその審議会の使いでやってきた男が小さく縮こまる。
マーレエラナはいつも真剣だった。全力で生き、全力で死ぬ。
今ではすっかり擦れて口が悪くなってしまったが、彼女は基本的にとても真面目でひどく優しい。胸の奥に決して消えぬ喜びと願いを抱き、その明りで人々を照らす。だからいつだってその全力の生と死は多くのものに図らずも様々な影響を与えてきた。
大抵がその死をもって人々に衝撃を与え、周りの人間に決起させたり、反省を促したり、世論を変えたりして、結果的に世界を救う事も数多くしてきた。もちろん前回のように戦争のきっかけになることも何度かあった。
彼女が地上に降りれば、例えどんな立場の人間に生まれたとしても必ず世界は動いてしまう。その規模の大小はあったけれど、必ずと言っていいほど。
だからそんな彼女の生き様に神々が与えた二つ名が『運命を廻す女神』なのだ。
その名を得たことで皮肉にも彼女の神としての力は更に高まり、今では彼女は天界でもある意味特別な存在の神となってしまった。
「ねぇマナ。今回は私が全力で貴女を助けるわ。私の眷属も動ける者は全て使うつもりなの。今回ばかりは私の力がなければ地上はもうもたないの。けれど力の受け皿がいないと、私は地上に力を下ろせない」
親しい友の懇願に近い言葉に、マーレエラナはぐっと言葉を飲んだ。
地母神であるアウラの力は強い。強すぎる故に、その加護を地上に直接与える事は滅多にない。それを与えなければいけないほど切羽詰まっているという事に、マーレエラナの心も少しばかり痛む。
けれど彼女は首を縦にはふらなかった。
「……私は、無理だ。見てくれ、アウラ」
マーレエラナはしばらくの沈黙の後、そう言うと自分の胸に手を当て、胸の奥から手の平で掬うように、小さな光を取り出した。
「私の魂は今こんなに弱っている。前回の傷は大きく、それ以前の傷も治りきっていない。この箱庭にいる間は痛まないけれど、地上に行けばどの傷も痛みだす。きっと私は今度は、人を信じられない、臆病で疑りぶかい人間として生まれるだろう。もう私は地上に降りても、自分の喜びも願いも、思い出せそうにない」
「マナ……こんなに……」
アウラは悲しげに顔を曇らせると、そっと手を伸ばしてその小さな光を両手で包んだ。
ぽぅ、とアウラの手がオレンジ色の光を帯び、傷ついた彼女の魂を温める。光が収まったころには、その魂は少し元気を取り戻したように見えた。
「貴女がどんなに傷つき疲れているのか、よく分かったわ。でも……貴女もわかっているでしょう? 地上でついた傷は、地上でしか真の意味では癒せない事を」
「……」
「もう一度、行くべきだわ。そして今度こそ、幸せな人生を送るのよ。その深い傷を癒すために」
マーレエラナは応える事ができなかった。アウラの言葉は確かに正しい。
けれど、どうしてもこの穏やかな庭で千年眠る方が良いように思えてならないのだ。
彼女はどうしても地上に、そしてこの天界にも、再び希望を見出す事はすぐにはできそうに思えなかった。
「お願いマナ。私が、あのクソ審議会の馬鹿どもの尻を蹴飛ばして、全力で貴女の支援をするわ。貴女が地母神のいとし子だ、聖女だと崇められるのが嫌だというなら、同時期に他の神の加護者を可能な限り送って、隠れ蓑にしたっていい。貴女を笑っていた連中は貴女の転生の下準備をさせるために、もう転生コースに無理矢理投げ込んであるのよ。貴女の生まれる基盤を作るために、今頃は荒れた農地でも必死で耕しているはずよ」
「アウラ……君って時々ものすごく過激だよな……」
「あら、それが大地というものよ。私だって怒る時は怒るのだから。ねぇ、そこの君? 審議会は全面的に彼女を支える為に動くのよね?」
「はっ、はい! もちろんであります!」
アウラの苛烈な言葉にぶるぶると震え顔を青ざめていた男は、突然声を掛けられ冷や汗を流しながらも答えを返した。
「計画では、八十年は平穏無事に過ごせるよう、万全の支援体制を組んでおります!」
「八十年!? 何それ長っ! 冗談じゃないよ!」
生まれるだけでも嫌だというのに八十年も生きるなんてうんざりするとしかマーレエラナには思えない。
思い返せばここ何転生も、三十前後で死んだ記憶ばかりなのだ。前回なんてたった十八だ。
どれも短すぎその傷は深かったが、あまりにそんな記憶ばかり積み重ねたせいか長い人生が幸せなのかも彼女にはもうわからない。
「ごめんなさい、でも最低でも六十年は生きて貰わないと、大地の傷を癒しきれないのよ。せめて貴方が幸せになれるよう、暖かい両親や優しい兄弟、安全で豊かな家、素晴らしい伴侶候補、出来のいい子供候補などなどを厳選するから……」
「それも重いし! やめてよ! いいよ普通で!」
「あら、じゃあ行ってくれるのね?」
思わず答えてしまってから、マーレエラナはハッと口をつぐんだ。しかし一度出した言葉は覆せない。神々の言葉は力があるほど重く、たった一言が約定となることもあるのだ。
マーレエラナはしばらくじっと考え、それからおもむろに男の方をキッと睨んだ。
「仕方ない……わかった。そこまで言うなら、アウラに免じて生まれてやってもいい」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
「ありがとう、マナ!」
「喜ぶのはまだ早い。いいか、これは勝負だ」
「勝負……ですか?」
「お前ら審議会は私の転生を軽く考えているだろう。いい環境さえ与えれば無事で済むと。だがな、これだけ魂が弱り傷ついていると、器というものは少なからず影響を受ける。私は恐らく、生まれてすぐに死ぬだろう。死産の可能性すらある。体も弱いだろう。魂に生きる力が備わっていないのだから当然だ。いま私が元気に見えるのは、この自分の領域にいるからにすぎない」
「そ、そこまでなんですか……」
彼女の語る言葉に男は顔を青ざめさせた。
本人の意思にかかわらず死ぬと言うほどマーレエラナが弱っているとは思わなかったのだ。
「そうとも。だからこその勝負だ。賭けと言ってもいい。お前たちの計画より先に私が死ぬかどうか、そういう賭けだ。お前らはせいぜい私を生かすべく奔走するがいい。私はどっちに転んでもかまわないのだから」
「ぜ、全力を尽くします……」
どうにかそう答えたものの、内心で男は頭を抱えていた。
それが本当なら、これから彼女が転生の準備に入る前に計画を大きく修正しなければいけない。彼女を生かすために、天界の総力を挙げて更に支援する必要が出てくる。
「あら、楽しくなりそう。審議会が右往左往するの、見学に行っちゃおうっと」
語尾にハートが付きそうな楽しそうな声でアウラにそう告げられ、彼は思わず涙をこぼしそうになった。
こうしてこの日、天界と地上を巻き込んだ一つの賭けが成立した。
賭けるのは一人の女が無事に生まれ最低でも六十歳まで生きるかどうか。
賭け金は地上世界の命運。
全てを巻き込んだ運命がどう廻るのか。
それは運命を廻す女神本人でさえ、未だ知りうるところではなかった。
小説を書くことのリハビリとして書いたものです。
25話前後で終わる予定です。