『黒犬と旅する異世界』 将軍とあの人と雷華
「シルグに」
「シルグさんに」
掲げたグラスの中身を一気に飲み干す。喉が焼けるように熱くなったが、哀しみを紛らわすには丁度良かった。
アディシェと王都のちょうど中間にある、やや大きな村に泊まった夜のこと。雷華がそろそろ寝ようかとベッドに入ろうとすると、部屋の扉が控えめに叩かれた。ミレイユが何かを伝えに来たのかと思いながら扉を開けると、立っていたのはディー。酒瓶を見せ「付き合ってよ」と言う彼の顔に、寂しさのようなものを見出した雷華は、頷いて部屋に招き入れた。
「人を殺してもなんとも思わないのに、仲間が死ぬと哀しいと感じるなんて矛盾してるよね」
空になったグラスに酒を注ぎ、ディーは再び一気に飲み干す。
「そんなことないわよ」
好きで人を殺すのはただの殺人鬼だ。ディーはそんな狂った人間ではない。ただ、そうしなければ生きていけなかった。心を鈍らせ、痛みを感じない振りをしているだけなのだ。
大切な人を失う哀しみ。それがどれほど辛いものなのか。想像することは出来ても、分かってあげることが雷華には出来ない。両親を亡くしてはいるが、幼すぎて人の死をいうものを、そのときは理解していなかった。だから親がいないということを、すんなり受け入れられた。
ディーは過去に愛する人を失っている。恋人か妻か。どちらかは分からないが、彼がその女性のことを心から愛していたことだけは確かだ。安らかに眠る女性にすがりつき、吼えるように啼いていた姿が忘れられない。
もしかすると――窓の外に見える、静かに瞬く無数の星を見上げ雷華は思う。眼の前でグラスを傾け酒をあおっている男は、目覚めぬ悪夢の中に身を委ね続けているのかもしれない。愛する人を永遠に失った、その日から。
「ディーは……」
「ん? なに、ライカちゃん」
「ディーはシルグさんが亡くなったあと、泣いた?」
「いんや、いい歳したおっさんがそんな簡単に泣くわけにはいかないでしょー」
「泣くのに年齢は関係ないでしょう。哀しいんだったら泣けばいいじゃない」
涙が枯れ果てるまで泣けばいい。感情を吐き出して楽になればいい。
あのときと同じように。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。雷華が過去を知っていることをディーは知らない。力のことを言っていないからだ。どうしようもない状況にならない限り言うつもりはない。利用されるのを防ぐためだが、後ろめたいという感情も少なからずあった。雷華が見た過去は、おそらくディーにとっては触れられたくないものであるはず。
「そうねえ、ライカちゃんが慰めてくれるなら泣いちゃおっかなー」
「はあ、すぐそうやって茶化して誤魔化す。……まあいいわ、今日だけ特別だからね」
グラスを机に置き、雷華は向かいに座るディーの隣に立った。そして、彼の肩にそっと腕を回す。一瞬ディーの鍛え上げられた身体がぴくりと震えた。
「亡くなった人は還ってこない。でも、星になって地上の大切な人をずっと見守っているわ。どうか幸せになってと願いながら」
現実には死んだ人間が星になったりなどしない。生きている人間がそうであればいいと思っているだけだ。だけど、それで少しでも哀しみが和らぐのであれば、少しでも生きる糧になるのであれば、けして間違った表現ではないはずだ。死んでしまった人の姿を見ることは出来ないけれど、夜空に光る星ならばいつでも見ることが出来る。身近に感じることが出来る。
「もしそうなら、――も星になったのかな」
回された雷華の腕を握りディーが呟く。
「え?」
「いや……ライカちゃん、もう少しこのままいさせてくれる?」
「しょうがないわね」
言葉とは裏腹に、雷華は腕に力を篭めた。少しでもディーの哀しみが和らぎますようにと願いながら。
「ありがと」
寄り添う二人の後ろ、窓の外でひと際綺麗に輝く星が、一筋の軌跡を描き、流れていった。
「なあ、ライカ。本当に奴に何もされなかったのか」
クルディアの王都エクタヴァナから港町ザーラグに向かう道すがら、木蘭の手綱を握るルークがくるりと振り返って訊ねる。
「え、ええ、されてないわよ」
脳裏にディーを抱きしめたことが甦った雷華は、眼を逸らして答える。嘘は言っていない。何かをした記憶はあるが、された記憶はない。
「嘘」
並走しているロウジュが、じっと見つめてくる。
「嘘じゃないわよ」
「では何故視線を逸らす」
「それは、ええっと……そう! 虫が飛んでたのよ。それを見てただけ。あ、ほら二人とも前を見ないと。馬車とぶつかるわよ」
「…………」
疑いの眼差しを向けるルークの背中を叩いて前を指差す。
道の傍らには、二輪の可憐な黄色い花が、寄り添うように風に揺れていた。