『緋の扉』 彼と彼女の奇跡と言えるかもしれないある夜
緋の扉の世界にクリスマスはないので本文には書いていませんが、クリスマスの夜だと思ってお読みください。
ある寒い日の夜、『黄玉邸』では年に一度の特別な夜会が開かれていた。どう特別かというと、この日だけは紹介状さえあれば貴族でなくても会に参加できるのだ。そのため、普段貴族に贔屓にしてもらっている衣装屋や宝石商の娘、息子が、こぞって出席している。退屈な毎日に飽き飽きしている貴族の戯れと言えなくもなかったが、普段は絶対に入ることのできない貴族の夜会に参加できるとあって、毎年庶民の間では誰が招待されるのか注目の的になっていた。もしかして素敵な貴族の男性から声をかけてもらえるかもと夢見る年頃の女性も少なくない。
「どうして俺が夜会になど……」
華やかに彩られた会場を眺めながら苦々しげに呟く、眼つきの鋭い怜悧な顔をした黒髪の男、ローディス国第三騎士団団長ルークウェル・ダレスもまた、この夜会に参加していた。もっとも彼の場合は自ら望んでなどではなく、他の二人の団長とやった賭けで負けたという、なんともぱっとしない理由からだった。
ちなみに、彼はいつもの黒い騎士服ではなく、白を基調とした礼装を身に纏っている。
「どうにもヴォードにはめられた気がしてならないのだが……まあいい、約束は果たしたのだ。もう帰るとし――」
会が始まってからずっとちらちらと向けられる視線にいい加減うんざりしたダレスは、とりあえず約束どおり夜会に参加はしたということで、さっさと帰ろうと出口に向かいかけたのだが、視界の隅にここにいるはずのない人物を捉えてぴたりと足を止めた。一瞬だったが、彼にはそれが誰なのかすぐにわかった。
(何故彼女がここに)
人ごみに消えゆくその人物を慌てて追いかける。もう、ダレスの頭から帰るという選択肢は綺麗さっぱりなくなっていた。今あるのは一人の女性のことだけだ。彼女は仕事柄様々な姿に変わるが、どんな姿になっても見つけられる自信がダレスにはあった。
広間を横断するダレスに話しかけようとした人は大勢いたのだが、彼の形相を見て全員が瞬時に諦めた。皆命は惜しいと思ったようだ。本人としては多少焦っているだけなのだが。
目的の人物は、テラスへと続く窓の向こうへと消えて行った。ダレスも違う窓から外に出る。
だが、なぜかテラスに彼女の姿は見当たらなかった。テラスからは庭に行けるようになっているのだが、灯りがところどころにしかないためかなり暗い。特別な用でもない限りそんな場所に行くことはないはずだ。
そう、例えば人目を忍んで誰かと会うような用でもない限り。
ダレスは自分が思いついた考えに目の前が真っ暗になる。ここに彼女をよく知る人物がいれば、彼の考えを即座に否定するのだが、残念ながらこの場に彼の暴走を止められる人間はいなかった。
「な……だろ……お……は……から」
「……ま………の……なさ………い」
相手の男をどう始末するべきか。ダレスの思考が黒く暗い闇の底なし沼に囚われかけたとき、庭にある背の高い彫像の後ろから話し声のようなものが微かに聞こえてきた。途切れ途切れなので誰なのかまでは不明だが、どうやら男と女が会話しているようだ。
(彼女もこんな風に誰かと逢瀬を……!?)
恋人同士が隠れて甘いひと時を過ごしているのだと判断したダレスは、再び思考を闇に落とすべく、他人の声に邪魔されない場所に移動しようと彫像に背を向けて歩きだそうとした。と、そのとき――
「私が否と申し上げているのが分からないのですか」
「っ!」
彫像の後ろからダレスの探し求めていた人物の声がした。聞こえてきた彼女の少し低めだが透き通った声は、珍しく苛立ちを含んでいた。いつも冷静で滅多なことでは感情を表さない彼女が怒りを覚えている。何か問題が起こっているに違いないとダレスは急いで彫像に近づいた。
「お前こそ分かってないだろう。俺は貴族だぞ。俺の誘いを断るなんて、そんなこと出来ると思っているのか」
「貴方様がなんと仰られようと、私の答えが変わることはありません」
「お前、調子に乗るのもいい加減にしておけよ。庶民が貴族に逆らえばどうなるか、分かっているんだろうな」
どうやら彼女は貴族の男に強引に迫られているらしい。ダレスは、空気すら彼に近づくことを躊躇うような殺気を放ちながら二人の前に姿を現した。
「何をしている」
「ダレス様……」
聞いた者は数日間悪夢にうなされるだろう声で、男に問いかける。
彼の探していた女性――ライカは、突然の第三騎士団長の登場に驚き、僅かに眼を見開いた。
「な、なんだ貴様は!」
貴族の男はかなり鈍いようだ。ダレスの登場に驚いてはいるものの、彼の放つ殺気に全く気付いていない。
「何をしているのかと聞いている」
「貴様には関係ないだろう! 邪魔だからさっさとこの場から消えろ!」
ダレスが誰なのか分かっていないうえに、空気も全く読めない男は、高圧的な態度を崩さなかった。
「邪魔なのはお前の方だ。生まれてきたことを後悔したくなければ、今すぐこの場から立ち去れ」
もし、言葉に殺傷能力があれば、確実に男はその一生を終えることになっていただろう。それほど殺気を含んだ言葉だった。まともな神経の持ち主ならば、泡を吹いて気絶するか、全速力でこの場から逃走するに違いない。
「貴族の俺を脅すとはいい度胸だな。貴様を潰すことくらい訳ないんだぞ!」
「ほう」
だが、男は壊滅的に救いようのない人間だった。ダレスの漆黒の瞳に危険な光が宿る。このままでは確実に死人が出ると思ったのか、ついにライカが止めに入った。
「ダレス様、落ち着いて下さいませ。そのように殺気立つ必要はございません」
「ライカ」
彼女は先にダレスを諫めると、次に男の方に顔を向けた。
「早々にこの場から立ち去ることを推奨します」
「何で俺が――」
「立ち去っていただけない場合、貴方様は貴族に相応しくない行いをしたとして、法の下で裁かれるでしょう。最悪の場合、爵位の返上もあり得ます。それを免れたとしても、貴方様が大事になさっている貴族の名に傷がつくのは必死。家名を守りたいのであれば、引かれるのが賢明な判断かと存じますが、如何でございましょう、第三騎士団長ルークウェル・ダレス様?」
向けられた銀の瞳を受けてダレスは厳かに頷いた。
「異論はない。すぐにでも審問場に召喚しよう」
騎士団長、審問場という言葉を聞いた男の顔が見る間に青ざめていく。かちかちと歯を鳴らし始めたが、寒いわけではないだろう。彼はようやく知ったのだ。己が息巻いていた相手が誰なのかを。
「あ、あ、あああのあの、お、俺は、私は、け決して」
「消えろ。次はない」
震えながら釈明しようとする貴族の男を闇色の瞳で睨む。殺した方がこの国のためになるのではないかと、ダレスは半ば本気で思った。
「ひっ、ひいぃぃっ!」
男は足を縺れさせながら、逃げて行った。
「ダレス様、ご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません。ですが、どうしてここに私がいるとお分かりになられたのですか?」
「そ、それは……ぐ、偶然テラスに出たらお前の声が聞こえたのだ」
まさか追いかけてたとも言えず、ダレスは眼を泳がせながら咄嗟に思いついた理由を口にした。
「左様でございますか。それに致しましても、ダレス様もこの夜会にご出席されていらっしゃったとは存じませんでした」
「好きで来たわけではない。ヴォードとグレアスとした賭けに負けたのだ。それよりも、ライカこそどうしたのだ? まさか陛下からの?」
何か調査でも命じられたのか、それならこの場所に彼女がいるのも頷ける。だが、返ってきた言葉は否だった。
「いえ、私は姫様のご厚意によりこちらに参りました。自分は王城で催される会にしか参加できないので代わりに、と。ですが、私には分不相応な場所でございました」
「そんなことはない。そ、そのドレスもよく似合っているぞ」
ダレスは言葉を詰まらせながら、ぎこちなく褒める。確かに彼の言うとおり、真紅の布にに黒糸で刺繍が施されたドレスは、彼女にとてもよく似合っていた。普段は一纏めにしている美しい銀色の髪も、今は一部分を残して結い上げられている。耳元で蒼く煌く耳飾りが、風に揺られて庭の灯りを映し出す。ダレスは、彼女の真白なうなじを見て軽い眩暈を起こしかけた。
「恐れ入ります。僭越ながら、ダレス様も大変お似合いでいらっしゃいます」
「あ、ああ」
それ以上二人の会話は続かなかった。ダレスはそもそも口数の多い方ではないし、ライカも必要なこと以外を口に出すことをあまりしない。
無口な二人の周りに、沈黙の帳がおりる。
「あら」
帳を破ったのはライカだった。彼女は小さく声を上げると、手のひらを空に向けてかざす。
「雪が」
白く冷たい雪が、はらはらと落ちてくる。それは彼女の手に触れると刹那に水へと還っていった。
「綺麗ですね。でもどこか儚い。雪を見ると何故かそう思ってしまいます」
「ああ、そうだな。もしかしたら雪は消えたくない一心で積もるのかもな。自分は確かに存在するんだという証を残すために……どうしたんだ?」
深く考えたわけではない。ただライカと一緒に雪を眺めていると、なんとなくそんな気がしたのだ。視線を感じて彼女の方を見ると、彼女にしては珍しく、はっきりと驚きの感情を表に出していた。
「あ、いえ、ダレス様がそのようなことを仰るとは思いませんでしたので。失礼致しました」
「謝る必要はない。自分でも似合わないことを言ったと思ったからな。グレアスなら似合うのだろうが」
「そのようなことはございません。ダレス様のお言葉はとても……なんと申せばよいのでしょうか。そう、心に響くものでございました」
「そ、そうか」
ライカの言葉に耳を赤くしたダレスは、早くこの話題から離れようと視線をあさっての方に向ける。何か他の話題をと必死に考えていると、広間からゆったりとした曲が流れてきた。夜会では定番のワルツの曲だ。
「ライカ、その、踊らないか」
「私とでございますか? 本当に今日のダレス様は意外なことばかり仰います。……畏まりました。分不相応ではございますが、お相手をさせていただきます」
ライカはダレスの提案に戸惑ったようだが、断って彼に恥をかかせるわけにはいかないと思ったようで、快く……かどうかはわからないが受け入れてくれた。
「では」
ダレスは手を差し出す。その手をそっと取り、ライカは膝を折って軽く頭を垂れた。ダンスを踊る前にする挨拶のようなものだ。ダレスが手を引くと二人の影が一つに重なる。
庭の淡い灯りとはらはら降り続ける白く儚い雪だけが、踊る二人の姿を静かに見守っていた。