『黒犬と旅する異世界』 世界と男
本編に組み込もうかとも思いましたが、とりあえずはこちらに置くことにしました。黒犬三部全てを読み終えてから読むことをお勧めします。
一人の男がいた。
どこにでもいるような何の変哲もない男。
男はいつからかある一つの思いを胸に抱くようになった。
「神になりたい」
滑稽としか言えない馬鹿げた望み。だが、男は真剣だった。
世界は理不尽で満ちている。
争いで人が死に、天災でまた人が死ぬ。
人は己の不幸を嘆き、他人を不幸に陥れる。
世界は不合理で満ちている。
地位を求める人は、地位を求めない人を顧みない。
助けを必要としない人は、助けを必要とする人の手を取らない。
希望と絶望は常に隣り合わせ。
幸福だと感じたその先にあるのは、不確かな明日。
人は陽だまりの中で暗闇に恐怖する。
世界は――平穏を拒んでいた。
男は世界を変えたかった。だから神になりたいと望んだ。
男は世界を旅し、神になる方法を探した。幾月、幾年、灼熱の太陽の中、凍える吹雪の中、助けられながら、裏切られながら、探し続けた。
そして、ついに辿り着いた。
「神という存在になるには途方もない覚悟が必要。汝はそれでも望むか」
代償は世界に生きる人、半数の命。男は迷いなく望むと答えた。
男は世界になった。
と同時に、男から記憶や感情というものが消えた。
神になりたいという願いは叶ったが、世界を変えたいという望みは叶わなかった。忘れてしまったからだ。
繁栄と衰退、平和と混乱。
繰り返される歴史を管理し見守る中で、男はふと思った。
「自分は何故神になりたいと願ったのだったか」
男の疑問は小さな欠片となり、生まれたばかりの赤子に溶け込んだ。
それが『選定者』の始まり。
最初の『選定者』は十になる前に死んだ。欠片に含まれていた人ならざる力を恐れた者たちに殺されてしまった。
次の欠片が生まれたとき、男は赤子を異なる世界に送った。危険から遠ざけるためだった。
異なる世界がいくつも存在することは、人でなくなったときから知っていた。だが、どんな世界なのかは知らなかった。
十数年の歳月ののち、男は成長した『選定者』を己の世界に戻した。
『選定者』は言った。
「この世界は理不尽で満ちている」
遠い昔、男がまだ人であったときに感じていた思いと同じだった。
『選定者』は己が育った異なる世界へと戻っていった。
次の『選定者』は男の世界を素晴らしいと言った。そして、もっと豊かな世界にしてみせると言った。
男は『選定者』に自分の力を分け与えた。欠片に含まれていた力よりも強い力。
『選定者』は力に耐えきれずに死んでしまった。
刻は流れていく。
ある『選定者』が問いかけてきた。「世界を変えるにはどうすればいいのか」と。
男が忘れていた願いだった。
男は『選定者』に与えた力で世界を、自分を変えた。
また刻は流れ、幾人もの『選定者』が生まれ死んでいった。
ある者は不変を望み、ある者は改変を望んだ。だが、誰一人として男の代わりに、神に、世界になりたいと望む者はいなかった。誰もがその代償の大きさに怯んだ。
そしてまた、一人の『選定者』が男の前に現れる。
「私は皆の未来を守りたい。幸せになってほしい。それが私の望み、私の願い、私の思い。だから私はこの世界の過去を変えるわ!」
迷いなき信念、偽りなき心、揺るぎなき決意。
男が世界になったときに失ってしまったものを、その『選定者』は持っていた。
「絆、か」
自然と言葉が口から零れた。
一瞬、銀の瞳と銀の髪を持つ人の姿が頭に浮かんだ。それは男が人であったときの姿。神になり世界を変えたいと望み願っていたときの姿。
だけど男には分からない。全て忘れてしまったから。
一人の男がいた。
男は神になりたいと望み、世界そのものとなった。
男の世界は続く。
誰かが神になりたいと望む、その日まで。
世界の名前「クアラリエス」は、色なし(カラーレス)から考えました。どこにも書く場所がなかったので、ここに載せておきます。