毒薔薇に捧ぐ
――喩え我が血筋絶えようとも毒薔薇の意志は絶えぬ。奪い合え、業に踊らされる愚かな者たちよ。その頭上に血濡れの栄光を戴け。
***
熱風が宮殿最奥のここにまで届いている。人々の怒声や悲鳴が、風に混じって露台に立つ男にもよく聞こえた。
頬を嘗める熱は火だけでなく様々な怨嗟や思惑をも孕んでいる気がして、男は額ににじむ汗を袖で乱雑に拭き取った。
「荒れているなあ、アズマ」
そんな男に対して、どこか楽しげな声が部屋の奥から投げ掛けられた。しっとりと落ち着いた声は、しかし華やかさも持ち合わせており声の主が女性だと知れる。
「……いけませんか、姫」
「いいや? 常に涼しげな表情を崩さぬお前にしては珍しいと、観賞させてもらっているよ」
男はゆっくりと視線を窓の外から部屋の奥に移し、刺繍がふんだんにあしらわれた坐具を敷き詰めた山の中で、埋もれるように身を預ける女性に向き直る。
未だ少女と大人の女性の狭間を行き来する彼の主は、器用に口の端だけを持ち上げて微笑んでいた。そうすると無邪気な少女の様で、同時に纏う色香は成熟した女性のそれであり、掴み所のない印象を受ける。
「先帝の崩御からたったの一日。ここまであからさまでは天晴れとしか言えませんね」
昨晩の夕餉時、まだ壮年と言っていい若さの帝王が倒れ、そのまま亡くなられた。死因は毒だった。
そして今日の昼には、葬儀も執り行われてないうちに大臣の一人が率いる革命軍による帝都襲撃。
突然の崩御に気を取られていた宮は何の対策も立てられず、衝突らしい衝突もなくほぼ一方的に帝都は相手側に制圧された。勢いそのままに革命軍は宮に乗り込み、聞こえる喧騒は確実に近づいてきている。
放ってある偵吏の情報によれば帝国軍も大半が寝返っているという。帝国軍軍将の位を持つ男としては苦々しいやら忌々しいやらで、荒れるのも無理らしからぬものだろう。
「ふん、先帝もずいぶん無茶な政策を強行していたしな。想定外というわけでもあるまい……まあ憐れではあるか」
鎮魂の間に安置した遺体も、この様子では無事ではなかろう。静かな呟きは夜の闇に消えた。
崩御の報せを受けた時もそうだったが、実の父に対してはあまりにも淡白な反応だった。
この姫は目鼻立ちがはっきりとした美しさと鋭い観察眼、そして歯に衣着せぬ容赦ない物言いから『焔の君』と呼ばれる姫だった。しかし外の鮮やかさとは違い、その本質はひどく冷めた人だと男は知っている。
そう。男は姫が幼少の時分から仕えており、誰よりも近くに長く隣に控えていた。だから彼の君についてよく知っていた。……このような状況で慌てるでも逃げるでもなく、しかし大人しく相手に降る人でもないことを。
矜持の高い姫だった。そしてその矜持に見合う聡明さを備える人であった。同時に孤独で、武人たる男から見たらあまりにも脆い人でもあった。
だから傍について己が守るのだと誓った。
姫が選ぶ道は見えている。もし他国に攻め入られることがあればと皇族の女は皆、家紋の薔薇を模る胸留めに毒を忍ばせ常に身に付けているくらいなのだから。それでも叶うなら逃げて生き延びて欲しくて、彼はこうして戦闘の前線ではなく宮殿で寝そべる主のもとに駆け付けた。
しかし結局その提案を言うことは出来ず、然れど離れがたく、こうしてまんじりとした最後の時を姫と過ごしている。
「アズマ」
凛と空気を震わすその声に、いつの間にかまた窓の外を睨んでいた男は視線を戻した。姫は変わらず微笑んだまま。深淵湛える黒耀の輝きと目が合った。
「なあアズマ、今ならまだ間に合うと思わないか」
それを聞き、男はまさかとあり得ない期待を芽生えさせた。
まさか姫は、生きたいと、共に逃げようと言ってくれるのではないか。
「おそらく革命軍はこの宮殿にまだ到達していまい。向こうに寝返るなり、騒ぎに乗じて帝都を出るなり、好きにすればいい」
温度のない声は男の期待を容赦なく切り捨て、しかしあまりにも姫らしい言葉にしっくりときている己を知って笑った。
ああ、己は何を下らない望みにすがっているのか。こんな時にそんなことを言う姫だからこそ、剣を姫に捧げたのではなかったか。
同時に嫉妬にも似た暗い苛立ちが広がる。姫はどうしてここまで平静でいられるのか。仮にも護衛係を務める臣下に裏切りを促す、その心にはさざ波一つ生まれないのか。
顔を歪ませた男に何を思ったのか、姫は気だるげに手を挙げ男を呼び寄せた。その足元まで近づいた瞬間、身を起こした姫が男の腰に刺さった剣をつかみ、止める間もなく自身の胸元に押し付ける。
もちろん鞘に収まったままの剣を突き立てたところで傷一つつかない。けれど男はひどく動揺し、姫が手を放した後もしばらく同じ体勢で固まっていた。
何、を。
…………違う。動揺の最たる理由は姫の行動ではない。姫の胸に突き立てられた剣を見たその一瞬、抗し難い衝動に襲われたのを自覚した。
他でもない、この自分が目の前で不敵に笑う姫の命を奪う。
それは、目眩がするほど甘美な誘惑だった。誰のものにもなりえない気高き人。どのみち革命軍の誰かの剣で散るのだ。なら誰かに奪われてしまうその前に。
「……寝返るなら簡単だ。私を殺し、心の臓に突き立てた剣を持って革命軍と合流すればいいよ。奴等が欲しいのはこの私、毒薔薇の血なのだから」
黒い思考に囚われた男を眺め、果たしてどこまで悟っているのか姫は静かに口を開く。その声にはっと息を呑んで理を取り戻した。
……毒薔薇。それはかつて五海と三陸を支配し、この国を建てた伝説の女王陛下。その存在は伝説的過ぎてもはやお伽噺にも近い。そして脈々と受け継がれる血と意志を宿す皇族もまた毒薔薇と呼ばれ、神格化されていた。
その経緯はもちろん政治的な意味合いが強かったが、それを差し引いても皇族の血に対する執着は異常だった。より濃く血を継承させていくために親族婚を重ね、血も風習も何もかも門外不出の極秘事項である。
それを知った時、何か大いなる一つの意志の存在を感じて薄気味悪い感情を抱いた。それこそまさしく、毒薔薇の意志が国の深い部分で息づいているようで。
「逃げたくば代々伝わる秘密の抜け道を教えよう。山向こうに通じている。誰も追ってこれない」
悠々と寝そべり続ける姫の真意は、長年仕えた男でも分からない。けれどちらりとも常の態を崩さないその人を見て、昂る感情が思考を赤く染める。
「……いい加減にしてください」
無意識に口をついて出た言葉には、不敬にあたるほどの怒りを帯びていた。理性の一部が歯止めをかけるが、男の大部分はそれを無視した。
「貴女は、貴女様は、一体私を何だとお思いになっていらっしゃるのか。私が貴女を殺す? 貴女を置いて逃げる? 聡い御方と思っておりましたが、貴女の目には私など、その程度の男としてしか写らないのですか」
怒りに任せて剣を抜く。男らしくなく、抜刀の音がうるさく鳴った。
風を切る音。その次瞬には姫の目の前に剣が置かれていた。膝をついた男が低頭し、腕だけを高くあげて剣を支える。
それはまさしく主君に忠誠を、剣を捧げる姿であった。
対して受けた姫は驚きで僅かに目を見開き、しかしすぐに切なげに目を細めて磨き抜かれた刀身を、頭を下げる男を見つめる。それを男が見ることは叶わなかったが。
「私アズマは生涯を姫の剣でございますれば…………毒薔薇の人、気高き人。どうかこの剣を取り、生き延びる道を選んではくれませんか」
言うまいと思っていた。姫がやろうと思っていることが何かは知っている。それを思えばこんな発言自体が姫の誇りを傷つけかねないと思ったから。だが己の忠心を疑われては引き下がれない。
偽りない口上の後、辺りを静寂が支配する。遠くから剣戟の音がわずかに聞こえてきた。それは先ほどよりずっと近づいていて、この時間が限られたものであることを教える。
しゃらりと髪飾りの玉が触れ合う音が夜気を震わす。見れば身体を揺らして笑う姫が身を起こすところだった。
くくっ、と姫が喉の奥で笑う。
「素晴らしい。よもや毒薔薇の意志をはね除けるとはな。確かに妾はお前を見誤っていたようだ」
「毒薔薇の」
「そう、『毒薔薇』の本質とは奪い合うこと。栄光は血の果てに得られるものなのさ。そうして歴史は紡がれていく……それが毒薔薇の意志。定められしこの国の在り様」
それはそのまま、この国の人間の在り様に繋がる。
何かを犠牲にしなければ得られるものなど何一つなく、何かを得るということは他者はそれを得られないということ。そして人という生き物は、他者が持つものに憧れる。欲しくなる。
やがて羨望は妬みに変わり、ささやかな願望は歪み欲望へと形を変えるだろう。その結果、真実何を得て何を失うかも分からないまま。
「人は繰り返す。何度でも。決して毒薔薇の意志からは逃れられぬ」
姫の声だけが明朗に響く。あたかも空間全てが姫に譲るように、従うように。
姫はしゃらりしゃらりと部屋の中央に歩を進め、文台の横に立った。何の采配か、予めそこに用意してあった二つの金杯に酒を注ぐ。それは赤黒く、いやでも血を連想させた。
そのうちの一つを誰かに捧げるようにかるく掲げ、台に戻す。もう片方を掴み、男へ振り返ったその表情は月光の影に隠れてよく見えない。しゃらりしゃらり。姫が動く度に美しい音が鳴る。
「だからこそ毒薔薇の存在を忘れぬように、戒めるように、我ら一族は皆がそれぞれ毒薔薇として在り続けた。その存在が時とともに色褪せることなきように。……我が祖は毒薔薇の意志を継いだが、従うことはなかった。奪い合うことは悲しかろう。その果ての王になるなど虚しかろう」
そこで一度言葉を切り、軽く目を伏せた姫の瞳には本当に一瞬だけ憂いが過った。しかしすぐに上げられたそこには強すぎる意志を宿していた。空いている方の手を勢いよく広げ、声を張り上げる。その後ろでは月が冷やかに輝いていた。
「しかしその結果はこれだ。愚かな者たちは毒薔薇を過ぎ去った伝説としか見ぬ……浅薄! 私の血が欲しい? いくらでもくれてやるさ。ただし毒薔薇の意志からは逃さぬ、誰一人として!」
生命力の全てを放つかのような立ち振舞いはかの女王を思わせた。冷血ともとれる淡白さは消え、姫が本来備えている燃え上がる美しさを隠さず見せつける。
……これこそが毒薔薇。美しくも苛烈な至高の花。
何よりも熱い、鮮やかな赤い血をその身に流し、同時に冷絶な理性を持ち合わせた絶対的な支配者。彼の主。
「アズマ、お前だけは」
じゃらり、と一際大きな音とともに姫が男の前に立つ。
「……毒薔薇から逃がしてやろう」
細い指が男の武骨な頬を撫で、手を添えて上を向かせる。姫の黒耀が触れるほど近くにあると思ったときには、男の唇に姫のそれが強く押さえつけられた。同時に熱い液体が喉の奥に流し込まれる。
そのやけつく熱に耐えきれず激しくむせた。間をおかず襲ってきた目眩と頭痛に、毒が混ぜられていたと知る。自分が床に倒れたことは辛うじて判断できた。
白く霞む視界の先で、月光を受けた影が一つ動いた。しゃらりしゃらり。涼やかな音が子守唄のように耳朶を震わす。
赤い酒が注がれた、金の杯。ほっそりとした手がそれを掲げる。
「滅びゆく一族、毒薔薇の血を継ぐ最後の者。決して意志は絶えぬ、毒薔薇はまた目覚める。その時までしばらく微睡むことにしよう……毒薔薇に祝杯を!」
高らかな笑いが余韻をもって辺り一面に響き渡った。
――男の意識はそこで途絶える。次に目を覚ました男を出迎えたのはアルコールの匂いと真っ白い天井、そして「最後の毒薔薇を討った英雄」という賛辞。
革命軍が姫の居室であるあの宮に入り込んだとき姫はすでに息絶えていたという。
床に転がる金杯と、酒と血が染み込んだ絨毯。その中央で倒れていた姫の胸には男の剣が突き刺さっていた。
姫が自ら剣を突き立てたのか。男には分からない。姫は男の手によって死ぬことを望んでいたのかもしれない。……だとすれば何故男に毒を盛ったのか。
盛られたのは毒は微量であったから目覚めてすぐに退院できた。しかし外では奇跡の生還のように扱われたのが滑稽で、少し笑った。
新帝王擁立にあたり宮は解体。「宮殿」は「城」と呼び名が変わった。元帝都軍は位も職も剥奪され落ちぶれる他ない者が多かったが、男にはそれまでの地位に匹敵する役職を与えられた。
しかしそのことに対して男は何の感慨も持てなかった。羨望や嫉妬の声も、媚びてくる輩の存在も遠く感じた。かつて軍将にまで登り詰めたような野心を自分の中に感じられない。
奪い合うことの虚しさが胸を占めるばかりだ。
目覚めた後の、姫が居ない世界はひどく薄っぺらいもので。何もかもがどうでもよかった。
姫は言った。逃がしてやると。これがそういうことなのだろうか。しかしその真相もどうでもいいことだった。
――姫は何をお望みだったのだろう。
唯一関心があることは、もう決して得られない問い。確かに毒薔薇からは逃れたかもしれない。けれどあの姫には囚われたままだろうな。そう思うとあまり悪い気はしなかった。
そして今日は、戴冠の儀が執り行われる。
玉座に座る禿げ頭の男を見上げた。矮小さが染み込んだ振る舞いも、威厳の欠片もない笑い方もその玉座には相応しくなく、まるで道化のようだと思った。その後ろに彫られた薔薇の紋章が持つ圧に完全に負けている。
あの玉座に座り、正しくその紋章を自分のものにできるのは毒薔薇の血を継ぐ者しかいないのだろう。男は一つの国が今、緩やかに滅亡へ歩み始めた音を聞いた。
新帝王が演説する中に混じって高らかな笑い声が男の中で響く。男が真実、最後に耳にした『毒薔薇』の宣告。
「毒薔薇は新たな王を歓迎しよう。聞け! お前が座すのは荊の玉座。お前が立つのは幾千と積まれる骸の上。お前が手にするは血濡れの栄光である。愚かな英雄よ、盲目の革命者よ。毒薔薇の王冠をお前にくれてやる。その頭上に戴くがいい!!」
最後の、そして彼の毒薔薇はきっと、今でもあの宮殿の奥で微笑んでいる。