滅びた王国の戴冠式を、三百十二回も夢に見ました。――ですので陛下、あなたの即位式の不備は全部書き出してあります
「レイリア。お前の夢物語はもういい。式典から外れろ」
記録室の扉が、蹴り開けられる音と一緒にその言葉は降ってきました。
戴冠式まで、あと十日。
わたくしは羽根ペンを置き、インク壺の蓋を閉め、椅子を引いて立ち上がり、深く一礼しました。手順です。王族に対する起立礼は、相手の第一声が終わってから三呼吸以内。古法典第十二条。
「陛下。おはようございます」
「まだ陛下ではない。――十日後だ」
訂正ありがとうございます。
(十日後の正しい呼称を、今から練習しておりました。とは、申しませんけれど)
カイゼル・ヴェルディアナ王太子殿下。金髪碧眼、剣技ギフト〈輝剣〉、肖像画にすればそのまま貨幣になりそうなお顔立ち。
悪い方ではありません。
ただ、致命的に鈍感でいらっしゃる。
その腕に、蜂蜜色の巻き毛の女性がぶら下がっておりました。聖女ミレーヌ・レスタン様。わたくしの机の上の紙束を覗き込み、ふふ、と笑います。
「これ、なあに? ぜんぶ手順?」
「はい。戴冠式進行台本、全九十八項目でございます」
「九十八!」
彼女は心から面白そうに笑いました。悪意はないのだと思います。そこが一番、厄介なところです。
「夢で見た手順? 寝言で国を動かすつもり? 三百年も前に滅んだ国の作法なんて、誰が要るの」
「……そうですね。誰も、要らないと仰います」
二年かけました。
聖油の調合比を神殿の古記録から逆算し、参列貴族二百十四名の序列と動線を一人ずつ確認し、蝋燭の融点から燃焼時間を算出して灯火配置を七度引き直し、誓約詠唱の『間』を砂時計で三百回測りました。
前世でも、同じことをしておりました。
国際会議、VIP式典、進行管理十二年。最後は会場の控室で倒れて、そのまま目が覚めませんでした。救急車の中で、わたくしが考えていたのは『次の案件の資料、どこに置いたっけ』でした。
我ながら、見事な社畜でございます。
「殿下」ミレーヌ様が、わたくしの台本の束を両手で持ち上げました。「もっと華やかで、もっと短い式がいいわ。だって、そのほうが綺麗でしょう?」
カイゼル殿下が、頷きました。
「……そうだな」
紙束が、暖炉に投げ込まれました。
炎が一度、大きく膨らみました。
(――ああ。インクは燃えるとき、少し青くなるのですね。二年かけて、初めて知りました)
「レイリア・ウィンドール。式典省より解任する。理由は、職務への妄想的執着」
「かしこまりました」
わたくしは、もう一度深く礼をしました。
「では、わたくしは何も申し上げません」
(――言わないとは申しましたけれど。
聞かれてもいないですしね)
顔を上げたとき、部屋の隅で、上司のソフィ・ランベール様が唇を噛んで立っておりました。眼鏡の奥の目が、何か言いたげに震えて、そして逸れました。
「いいんですよ、ソフィ様。中間管理職とは、そういうものです。――失礼いたします」
退室の際、わたくしは入口の燭台の位置を、指一本分だけ直しました。
職業病です。
廊下に出て、扉が閉まる寸前、暖炉のほうでぱちん、と音がしました。
台本が、燃え尽きた音です。
――ところで。
前世からの、わたくしの習慣をひとつ申し上げておきます。
重要書類のバックアップは、必ず三箇所。
これは、もう、治りません。
◇ ◇ ◇
解任当日の夜、わたくしは最後の仕事をしておりました。
国宝の手入れです。
引き継ぎが完了するまでは職務ですので。前世でも、退職日の最終時刻までは稼働するのが礼儀でした。
宝物庫の奥、天鵞絨の台の上。
『オルデンの最後の約束』――三百年前に滅びた王国から継承された、戴冠用の王冠。
金と地脈銀を編み、中央に曇った乳白色の地脈石を抱いています。磨き布で石の表面を撫でると、曇りが少しだけ薄くなりました。
『ねえ』
手が止まりました。
『ねえってば。聞こえてるんでしょ。きみ、ぜったい聞こえてるよね』
幼い子どもの声でした。拗ねて、少し鼻にかかった、甘ったるい声。
わたくしのギフトは〈夢見〉。戦闘力ゼロ、判定は『外れ』。
十九年生きてきて初めて、このギフトが役に立ちました。
「……聞こえております」
『やった! やっと! 三百年ぶり!』
王冠が、きらきらと光りました。物理的に。宝物庫の壁がうっすら明るくなるほどに。
「お静かに。衛兵が参ります」
『あっ、ごめん』
素直でいらっしゃる。国宝が。
『ねえ、きみ、ぼくの夢を見てるでしょ。三百回くらい』
「三百十二回でございます」
『かぞえてるんだ』
「記録官ですので」
毎夜、同じ夢を見ます。オルデン王国、最後の戴冠式。
毎回、視点が違うのです。ある夜は王の目で。ある夜は大神官の目で。ある夜は蝋燭を運ぶ下働きの少年の目で。
そして、ある夜は――この王冠の目で。
だから知っています。あの日、大聖堂で何が起きたのかを。
『ぼくを正しく被せてよ』
王冠が囁きました。甘えた声から、ふっと熱が抜けていました。
『前の国は、それを間違えて死んだんだ』
「……三歩、ですね」
『そう。たった三歩。玉座が、地脈の結節点から三歩ずれてた。誰も測らなかった。みんな、だいたい合ってるからいいやって言った』
「それで、国がひとつ枯れた」
わたくしは磨き布を置きました。
「申し訳ございません。わたくしは本日付で式典省を解任されました。次の戴冠式に、立ち会うことはございません」
『……は?』
「ですので、どなたか別の方に」
『だれも聞こえないよ! 三百年だれも聞こえなかったんだよ!』
王冠が泣き出しました。国宝が。
『ずっと待ってたのに。ずっとひとりで、磨かれるだけで、頭に乗っけられるだけで、だれもぼくの名前を呼ばないんだ。契約なのに。ぼくが契約そのものなのに』
「……名前」
『うん。呼ばれなきゃ、なんにも始まらないのに』
わたくしは、しばらく黙っておりました。
それから、天鵞絨の台に王冠を正しく戻し、角度を古法典の規定どおりに整えて、一礼しました。
「わたくしが申し上げても、どなたも信じません。――ですが」
『ですが?』
「わたくしは、記録しております。全部」
(頭の中に、ひとつ。
実家の書斎の床板の下に、ひとつ。
そして、もうひとつ)
「バックアップは、三箇所。これは、わたくしの前世からの信仰のようなものですので」
『ぜんせ?』
「お気になさらず」
宝物庫を出るとき、背中に小さな声がしました。
『……ねえ。ぼくの名前、知ってる?』
「存じております」
『呼んで』
「まだです」
『えー!』
「呼ぶべき場所と、呼ぶべき時がございます。手順ですので」
『きみ、ほんとうにそういうところだよ!』
扉を閉めました。
廊下の燭台を、指一本分直しました。
◇ ◇ ◇
――ぼくは、トト。十一さい。
式典省の下ばたらきで、しごとは蝋燭はこびと、灯りのすす取り。
字は読めません。孤児院には本がなかったから。
その夜、厨房のうらでパンの耳をかじっていたら、レイリアさまが来ました。
「トト。まだ起きていたのですか」
「レイリアさま、おしごと、やめちゃったって」
「やめたのではありません。辞めさせられたのです。語彙は正確に」
レイリアさまは、いつもこういう言いかたをします。こわい顔なのに、ぜんぜんこわくない。
レイリアさまは棚から蜂蜜の壺を下ろして、ぼくのパンの耳にたらりとかけてくれました。
甘いにおいがしました。
ぼくは両手でパンを持ちました。おとすともったいないから、食べものはいつも両手で持つんです。
「レイリアさま、いかないで」
「わたくしがいなくても、式典は行われます」
「でも、だれも手順を知らないよ。みんなレイリアさまに聞いてたもん」
レイリアさまの手が、止まりました。
「……そうですね」
それから、レイリアさまはぼくの隣に座って、炭のかけらで床に絵を描きはじめました。
丸がななつ。矢じるし。星。
「トト。歌は覚えられますか」
「うた、だいすき! 一回聞いたら、ぜんぶ覚えられるよ」
「では、歌にしましょう」
レイリアさまは、うたいました。へたでした。すごく、へたでした。
『灯は七つ、北から時計まわり、三つ目で息を止めて――』
でも、ふしぎと耳にのこる節まわしでした。
ぼくはくりかえしました。何度も、何度も。
一の節。聖油は、三対七、火を近づけず。
二の節。貴族はひだり、神官はみぎ、まんなかは空けて。
……
四十一の節。『誓いのあと、じゅうにこきゅう、だまること』
「レイリアさま、これ、なんのうた?」
「国の作りかたです」
「くに?」
「ええ。いつか、誰かが忘れたときに、トトが思い出してあげてください」
ぼくは、うなずきました。
意味はよくわからなかったけど、レイリアさまがぼくに何かをあずけたことだけは、わかりました。
九十八まで歌い終わったのは、空が白くなるころでした。
「レイリアさま、ぼく、まちがえませんでした?」
「一箇所も」
レイリアさまは、ぼくの頭をぽんとしました。
「トトは、この国で一番優秀な記録官です」
「じは読めないよ」
「記録とは、文字のことではありません。――正しく残すことです」
その朝、レイリアさまは王宮を出ていきました。
ふりかえらなかった。背すじが、まっすぐでした。
ぼくは、蜂蜜のついた指をなめながら、ずっと歌っていました。
灯は七つ、北から時計まわり――
◇ ◇ ◇
王都下層、冒険者ギルド。
受付の掲示板には、三年前の討伐依頼が貼られたまま色あせておりました。
床には乾いた血。空気には酒と鉄と革のにおい。
「事務の求人を拝見しました」
わたくしが言うと、カウンターの向こうの巨体がゆっくり振り向きました。
身長二メートル超。鈍色の鱗に覆われた腕。片目を縦に断つ古傷。牙。
元竜人将軍、ギルドマスター・ガルド・ヴァルザーク。戦場での二つ名は『血濡れの竜槍』。
新人冒険者が三人、彼の視線だけで椅子から落ちました。
「……嬢ちゃん。ここは貴族の娘が来る場所じゃねえ」
「存じております。給金は週払いとのことですが、源泉の控除はございますか」
「げんせん?」
「失礼しました。では、棚の裏の件について伺います」
ガルド様の肩が、びくりと跳ねました。
「……棚の、裏?」
「入口から見て、依頼書の棚が壁から十五センチほど浮いております。背面に紙束が押し込まれている状態かと。重量で棚板がわずかに撓んでおりますので、相当量ですね」
沈黙。
ギルド中の視線が、棚に集まりました。
「……みんな、見ねえふりをしてくれてたんだ」
「見ましょう」
「やめろ」
「見ます」
三日かかりました。
未処理依頼、一万二千四百八十六件。最古のものは十二年前。
わたくしは分類しました。
期限切れ・受理不能(赤)。
報酬未払い・要支払(黒)。
依頼主死亡・遺族通知必要(灰)。
文言不備により契約無効(青)。
青が、三千件ございました。
「……青ってのは、どういう意味だ」
「討伐依頼書に『討伐』の定義が書かれておりません。魔物を追い払っただけでも討伐と主張できますし、逆に依頼主が『死体を持ってこないと討伐ではない』と言えば報酬を払わずに済みます。つまりこの三千件、ギルドは十二年間、支払うかどうかを気分で決めていたことになります」
「……気分で」
「冒険者が、ギルドを信用しなくなる理由です」
ガルド様が、机に突っ伏しました。
巨体が、震えておりました。
「お前、三日で十二年分の未処理依頼を片付けたのか……?」
「正確には分類が完了しただけです。処理はこれからです」
「泣いていいか?」
「どうぞ」
泣きました。竜人が。
翌週から、ギルドの依頼書には定型文言が入りました。わたくしが作った雛形です。
『討伐の定義』『報酬支払期限』『不履行時の処理』『再交渉の条項』。
冒険者たちが、ぽかんとしながら署名していきました。
「……なあ、嬢ちゃん」
ある夜、ガルド様が焼き菓子の包みをカウンターに置きました。わたくしのほうを見ずに。
「お前は、この国で一番の、なんだ、その……有能だ」
「恐れ入ります」
「なんで王宮をクビになった」
「職務への妄想的執着、だそうです」
ガルド様が、牙を剥きました。新人が二人、気絶しました。
「王宮の連中は、字が読めねえのか」
「読める方は多いのですが、読む方が少ないのです」
わたくしは焼き菓子を一つ取りました。蜂蜜の味でした。
――そのころ、王宮では。
式典まで、あと四日。
聖油の調合比を知る者が、ひとりもおりませんでした。
◇ ◇ ◇
「調合比は」
「……存じません」
「序列表は」
「……探しております」
「誓約詠唱の秒数は」
「わたくしの管轄外です」
逃げ口上を三つ並べて、わたしは口を閉じた。
式典省第二位記録官、ソフィ・ランベール、三十四歳。
第一位は名誉職の老伯爵で、週に一度しか登省しない。
つまり、今この省庁の実務責任者は、わたしだ。
――レイリアがいた頃は、そうではなかった。
卓上に積まれた未決書類を前にして、わたしは自分の呼吸が浅くなるのを感じていた。
聖油の調合比。神殿の古記録は火災で焼失している。レイリアは三年かけて、各地の分院に残る断片記録から比率を逆算した。その計算用紙は、彼女の机にあった。
机は、解任と同時に片付けられた。
参列貴族二百十四名の序列表。これは紙に存在しない。レイリアが毎年、婚姻・相続・爵位昇降をすべて追跡して、頭の中で更新していた。「書くと古くなりますので」と彼女は言った。あのときわたしは、几帳面な子ね、としか思わなかった。
誓約詠唱の『間』。十二呼吸。彼女は砂時計で三百回測って、呼吸の長さの平均値を出していた。
それら全部が、消えた。
一人の記録官を解任しただけで。
「ランベール殿」
大神官ヴェルナス猊下が、杖をつきながら入ってこられた。六十八歳。白髭。古法典の表紙を撫でるのが癖。
「いやはや、ミレーヌ様が、誓約の沈黙は長いので省きたいと」
「……十二呼吸は、古法典第四十一条です」
「まあ、まあ。三百年、誰も厳密には守っておらんのですよ」
「では、なぜ条文にあるのです」
猊下は、笑って答えなかった。
そのとき、わたしは思い出してしまった。
半年前。レイリアが、九十八項目の台本を猊下に提出した日。
猊下はぱらぱらと捲って、「若い娘の熱意だ」と微笑んで、棚に戻した。
わたしは隣にいた。
わたしも、何も言わなかった。
「ソフィ様!」
下働きのトトが駆け込んできた。煤だらけの頬。
「灯りの位置、ちがいます。北から時計まわりで、三つ目のろうそくが」
「……なぜ、お前がそれを知っているの」
「レイリアさまが、うたにして教えてくれました」
わたしは、椅子に座り込んだ。
字の読めない十一歳の子どもが、わたしより手順を知っている。
あの子は。
レイリア・ウィンドールは。
――省庁を、一人でやっていたのか。
その夜、わたしは使者を立てた。王太子殿下の名で。
『戻って手伝え。王命だ』
書きながら、吐き気がした。
これは、謝罪ではない。呼び戻しですらない。
召集だ。
二日後、返書が届いた。
白い紙に、黒いインク。癖のない、几帳面な文字。
『かしこまりました。
――いいえ。もう、お助けいたしません。
レイリア・ウィンドール』
矛盾した二行だった。
いや、矛盾ではない。
『承りました、という礼は尽くします。ですが、従いません』
そういう意味だ。
わたしは、その紙を胸に押し当てて、しばらく動けなかった。
当然だ。
当然なのだ。
◇ ◇ ◇
使者が来たのは、ギルドの昼過ぎでした。
白い手袋。紋章入りの外套。カウンターに肘をついて飲んでいた冒険者たちが、一斉に黙りました。
「レイリア・ウィンドール。王命である。式典省へ戻り、戴冠式の準備を補佐せよ」
わたくしは、羽根ペンを置きました。
「お断りいたします」
「……は?」
「書面でお返事を差し上げておりますが、読まれましたか」
「読んだが、王命だぞ」
「存じております。ですので『かしこまりました』と書きました」
「ならば」
「承ったと申し上げただけで、従うとは申し上げておりません」
使者の顔が、赤くなりました。
「屁理屈を――」
「いいえ、条文です。古法典第七条、王命の拘束力は『現に王家に仕える者』に及びます。わたくしは十日前、式典省を解任されました。理由は『職務への妄想的執着』。つまり王家は、わたくしを公式に、自ら、手放しております」
「……」
「文書は残っております。解任状の写し、こちらです」
羊皮紙を差し出しました。
(バックアップは三箇所。前世からの信仰です)
「それに」とわたくしは続けました。「仮にわたくしが参上したとして、あと三日で九十八項目を復元することは不可能です。聖油の調合だけで熟成に六日かかります」
「で、では、短縮の方法を」
「ございません」
「なんとかしろ!」
出ました。
前世で、何百回も聞いた言葉です。
『なんとかして』『そこを曲げて』『前例があるでしょう』『君ならできるよね』
わたくしは十二年、全部なんとかしました。
して、死にました。
控室の床で、冷たくなって見つかりました。
「――いいえ」
わたくしは、立ち上がりました。
「もう、お助けいたしません」
ギルドが、しん、としました。
「いいですか。わたくしは二年かけて台本を作りました。それは、燃やされました。手順は妄想だと言われました。『もっと華やかで、もっと短く』と」
「そ、それは聖女様が――」
「ご自分で決めたことを、他人のせいにする方々のために、わたくしはもう一度、徹夜をするのですか」
声は、まったく上げませんでした。
淡々と、事実だけを並べました。
「お帰りください。お茶はお出ししません。ここは冒険者ギルドで、茶葉は高価ですので」
使者は、しばらく口を開けて、それから逃げるように出ていきました。
扉が閉まったあと。
誰かが、小さく口笛を吹きました。
それから、拍手が起きました。
傷だらけの冒険者たちが、酒杯を掲げました。
「姐さん、かっけえ!」
「王宮にそれ言える人間、初めて見たぞ」
「結婚してくれ!」
「契約書の雛形を作ってからにしてください」
ガルド様が、奥から出てきて、わたくしの前に焼き菓子の袋を置きました。
中身が、いつもの倍ありました。
「……泣いてない。目に埃が入っただけだ」
「そうですか」
(――心内で、わたくしは呟きました。
十二年前世で働いて、今世でも二年。
わたし、もう残業しないって決めたんです)
そして、三日後。
大聖堂の地脈が、黒く変色しました。
◇ ◇ ◇
――ぼくは、オルデンの最後の約束。
金と地脈銀で編まれて、まんなかに地脈石を抱いてる。
人間はぼくを『王冠』って呼ぶ。それは種類の名前で、ぼくの名前じゃない。
犬のことを犬って呼ぶみたいなものだ。
ぼくの名前を呼んでくれた人は、三百年、いなかった。
一人目の王は、ぼくを頭にのせて「重いな」と言った。
二人目の王は、ぼくを磨かせて「もっと光らせろ」と言った。
十一人目の王は、ぼくの地脈石が曇っているのを見て、宝石職人に削らせようとした。やめてって叫んだけど、聞こえなかった。
宝石職人は、ノミを当てた瞬間に手が痺れて、泣きながら逃げた。
それがぼくの、精一杯の抵抗だった。
みんな、ぼくのことを帽子だと思ってる。
ちがうんだ。
ぼくは契約書なんだ。
地脈と、王と、そこに住む全員のあいだの、すごく長い契約書。
契約書は、名前を書かないと成立しない。
それだけのことなのに、三百年、だれも書いてくれない。
オルデンが死んだ日のことは、よく覚えてる。
あの日、玉座が三歩ずれてた。
石工の見習いが、前の晩に台座を動かしてしまって、言い出せなかったんだ。怒られるのが怖くて。
大神官は気づいてた。でも「だいたい合っているから」と言った。
王も頷いた。「時間がない」と。
ぼくは叫んだ。何度も、何度も。
三歩。たった三歩。
誓いの言葉が終わったとき、地脈がぼくを通して言った。
『この者を、知らない』
それから五十年かけて、オルデンの土は、ゆっくり死んだ。
麦が実らなくなって、井戸が枯れて、人が出ていって、最後に城が崩れた。
誰も、それが三歩のせいだなんて思わなかった。
ぼくは瓦礫の中で、四十年ひとりだった。
だから、彼女が来たときは、びっくりした。
レイリア・ウィンドール。
夜になると、ぼくの記憶の中に迷い込んでくる、ヘンな人間。
一回目は、王の目で見てた。
二十七回目は、大神官の目で。
百五回目は、蝋燭を運ぶ少年の目で。
そして二百十八回目。
彼女は、ぼくの目で見た。
ぼくが叫んでるのを、聞いた。
翌朝、彼女は泣きながら目を覚まして、それから紙に書き始めた。
『第三項:玉座の設置位置。地脈結節点より誤差ゼロ。測量は前日と当日の二回、立会人三名以上』
三歩のことを、条文にしてくれたんだ。
誰にも信じてもらえないのに。
でも、彼女は追い出された。
ぼくの台本は、燃やされた。
そして今日、新しい王が来る。
ぼくは、天鵞絨の台の上で震えてる。
玉座の位置、測ってない。
聖油の比率、たぶんめちゃくちゃ。
誓いのあとの沈黙、省略するって聞いた。
そして、名前。
今日も、呼ばれないんだろうな。
――また、国がひとつ死ぬのか。
ぼくのせいじゃないのに。
ぼくは、ずっと叫んでるのに。
『ねえ』
『ねえ、だれか』
『ぼくの名前は――』
◇ ◇ ◇
大聖堂の鐘が、十二度鳴りました。
わたくしは、裏口の柱の陰に立っておりました。
灰青の制服。インク染みの指。懐には三種の筆記具と、予備の手帳と――焼け残らなかったはずの台本の、全文写し。
「来ちまったか」
隣でガルド様が腕を組んでおりました。二メートル超の竜人が聖堂にいると、やたら目立ちます。
「見届けるだけです」
「嘘つけ」
「嘘ではありません。呼ばれておりませんので」
祭壇の前。カイゼル殿下が跪き、大神官ヴェルナス猊下が古法典を開きました。
聖女ミレーヌ様が、花に埋もれて微笑んでおります。楽団は四十人。わたくしの台本では十二人でした。音が多すぎて、詠唱の拍が取れません。
猊下が、誓約詠唱を始めました。
「汝、ヴェルディアナの名において――」
そして、最後の一節が終わった、その瞬間。
猊下は、間を置きませんでした。
十二呼吸の沈黙を、省略した。
――床が、鳴りました。
地鳴りではありません。もっと低く、長く、嫌な音です。
祭壇の石が、根元から黒く変色していきました。インクを零したように、じわじわと。
「な……なんだ、これは」
悲鳴が上がりました。参列者が後ずさり、椅子が倒れました。
ミレーヌ様の身体を包んでいた淡い光が、蝋燭を吹き消すように、ふっと消えました。
「え……? 待って、わたしの光が……」
そして。
カイゼル殿下の頭に載せられたばかりの王冠が、滑り落ちました。
石床に落ちて、硬い音を立てて、半回転して止まりました。
割れはしませんでした。
でも、地脈石が真っ黒に濁っておりました。
聖堂が、静まり返りました。
『……レイリア』
小さな声が、聞こえました。
『ごめん。ぼく、やっぱり、だめだった』
わたくしは、柱の陰から足を踏み出しました。
靴音が、聖堂に響きました。
二百人の視線が、一斉にこちらを向きました。
「お前……レイリア・ウィンドール!?」
カイゼル殿下が叫びました。
「何をしに来た! 貴様は解任された身だぞ!」
「ええ。ですので、本日は参列者として参りました。招待状は、二年前にわたくし自身が発行しております。式典省記録官は職権で一席を確保する――古法典第八十三条」
わたくしは、懐から紙束を取り出しました。
「それは……」
「進行台本、全九十八項目。暖炉で燃えたものの、全文写しでございます」
ミレーヌ様が、青ざめて口元を押さえました。
「どうして……あれは、燃やしたのに」
「ええ。燃やされました。ですので、燃やされる前に写しておきました」
(前世から申し上げております。バックアップは三箇所、と)
わたくしは、祭壇の前で立ち止まり、深く一礼しました。
手順です。王族への起立礼は、第一声の後、三呼吸以内。
顔を上げて、わたくしは言いました。
「陛下。申し上げることは、三点ございます」
◇ ◇ ◇
「一点目。玉座の位置でございます」
わたくしは、祭壇の奥を指しました。
「現在の玉座は、地脈結節点より、北東に三歩ずれております」
「……は?」
「測量は本日行われましたか」
「そ、そんなもの、玉座は百年前からそこにある!」
「百年前に、動かした者がおります。記録がございます。第七代王の治世、聖堂改修の際、採光のために祭壇全体を北東へずらしました。当時の建築記録、第十四巻、三百二十一頁」
ざわ、と群衆が揺れました。
「地脈は、玉座を見ております。王ではなく」
わたくしは、台本の一枚目を開きました。
「三百年前、オルデン王国は、この三歩を誤りました。石工の見習いが前夜に台座を動かし、言い出せなかった。大神官は気づいておりましたが、『だいたい合っている』と申しました」
(――夢の中で、ぼくは叫んでいた。何度も、何度も。誰にも届かない声で)
「誓約は成立せず、地脈は王を承認しませんでした。オルデンは五十年かけて枯れ、滅びました」
「な……たかが三歩だろう!?」
カイゼル殿下が叫びました。
「三歩で国が滅ぶか!」
「滅びました」
わたくしは、黒く変色した床を指しました。
「現にいま、始まっております」
殿下の喉が、鳴りました。
「二点目。誓約詠唱の『間』でございます」
「ま……間?」
「古法典第四十一条。誓約の言葉の後、十二呼吸の沈黙を挟むこと。この沈黙の間に、地脈が王を『読む』のです。読む時間を与えなければ、地脈は判断できません」
わたくしは、大神官猊下を見ました。
「猊下。本日、沈黙は挟まれましたか」
猊下の手が、震えました。
「……省き、ました」
「理由を伺っても?」
「……長い、ので」
「長い、ので」
わたくしは、復唱しました。それだけです。
聖堂が、凍りつきました。
「み、ミレーヌがその方が綺麗だと……!」
カイゼル殿下が、言ってしまわれました。
二百人の前で、恋人に責任を転嫁なさいました。
ミレーヌ様の顔から、血の気が引きました。
「殿下……?」
「だ、だって、お前が、短いほうが美しいと――」
「わたし、ただ、綺麗だと思って……そんな、知らなかったのよ、知らなかったの!」
「存じませんでした、は手順を省く理由になりません」とわたくしは申しました。「わたくしが二年前に提出した台本の、第四十一項に書いてございました。お読みになっていれば、ご存じでした」
ミレーヌ様の唇が、震えました。
「読んで……ないわ」
「存じております」
「……ひどい」
「いいえ。事実です」
そのとき、群衆の中から声が上がりました。
「待て! 聖女様の光は何故消えた!?」
わたくしは、ミレーヌ様を見ました。
「ミレーヌ・レスタン様。聖女認定の手続きは、神殿の仮認定のみで、式典省の正式登録を経ておりません」
「……え?」
「仮認定の有効期間は九十日。昨年の春に失効しております。本日、地脈が誓約を拒んだ際、聖堂内の全ての未登録の加護が無効化されました」
「う、うそ……だって、誰も、何も言わなかった」
「ええ。誰も読まなかったからです」
ミレーヌ様が、膝から崩れました。
手続き。たったそれだけのこと。
誰も読まず、誰も通さず、誰も確認しなかった、たったそれだけのことで、人は聖女になり、そして、ならなくなる。
「そして――三点目」
わたくしは、床に落ちた王冠を見下ろしました。
黒く濁った地脈石が、かすかに震えておりました。
「三点目。――王冠の名を、呼んでおられません」
カイゼル殿下が、眉を寄せました。
「名? 王冠の名など、『国宝・戴冠用王冠』だろう」
「それは分類名でございます。犬を『犬』と呼ぶのと同じです」
「……何を言っている」
「古法典第一条」
わたくしは、台本の最初の頁を開きました。
「『戴冠の誓約は、王と地脈と、王冠の三者による契約である』」
聖堂が、ざわめきました。
「三者、です。王冠は、装身具ではありません。契約の当事者でございます」
「そ、そんな馬鹿な」
「契約書に、当事者の名を記さなければ、契約は成立いたしません。これは古法典に限らず、あらゆる契約の原則です。ギルドの討伐依頼書でさえ、依頼主の名を書きます」
わたくしは、床の王冠の前に膝をつきました。
「三百年、誰もこの方の名を呼びませんでした。ですので三百年、戴冠の誓約は一度も、完全には成立しておりません」
「で、では、歴代の王は――」
「地脈が、大目に見ていたのです。オルデンの件で懲りましたので」
わたくしは、淡々と申し上げました。
「ですが本日は、三つ同時に誤りました。三歩のずれ、沈黙の省略、名の不記載。地脈は、ついに怒りました」
大神官ヴェルナス猊下が、震える手で古法典を繰っておられました。
頁を捲る音だけが、聖堂に響きます。
第一条。
第四十一条。
第八十三条。
猊下の顔から、色が抜けていきました。
そして、老人は古法典を胸に抱いて、床に膝をつきました。
「……すべて、事実です」
声は小さかったのに、聖堂の隅まで届きました。
「この娘の言うことは、すべて――古法典のとおりです。わたくしは、読まなかった。読んだふりをして、棚に戻した」
猊下が、わたくしに向かって頭を下げました。
「半年前、あなたの台本を、わたしは『若い娘の熱意』と言って、棚に戻しました。……申し訳ない」
群衆が、一斉にざわめきました。
空気が、変わりました。
これは、もう、わたくし個人の主張ではありません。
神殿最高位による、公式の認定です。
「――つまり陛下」
わたくしは、立ち上がりました。
「本日の戴冠式は、無効でございます」
カイゼル殿下が、よろめいて、祭壇に手をつきました。
顔が、真っ白でした。
「……どうしろと、言うんだ」
「ですが」
わたくしは、続けました。
ここで終わらせては、ただの断罪です。
わたくしは、式典係ですので。
「やり直しは、可能でございます」
「なん……だと」
「地脈はまだ、怒っているだけで、諦めてはおりません。黒く変色しただけで、崩壊はしておりません。オルデンのときは、三日で灰になりました」
わたくしは、ガルド様を振り返りました。
「玉座を、北東から三歩。わたくしの指示どおりに」
「おう」
竜人が、玉座に肩を入れました。石の軋む音。
「もう半歩。止まってください。――そこです」
そして、わたくしは床の王冠を両手で拾い上げました。
黒く濁った地脈石に、額を近づけます。
『……レイリア』
泣きそうな声でした。
『ぼく、もう、だめかと思った』
「お待たせいたしました」
『おそいよ』
「手順ですので」
わたくしは、顔を上げました。
二百人の前で、三百年ぶりに。
「――『オルデンの最後の約束』」
王冠の名を、呼びました。
「汝を、この誓約の当事者として、ここに記名いたします」
地脈石の黒が、音もなく退いていきました。
曇った乳白色が、水を注がれたように澄んでいきます。
『……ああ』
泣いておりました。国宝が、わたくしの手の中で。
『やっと、ちゃんと名前を呼ばれた』
「はい」
『三百年、待ってた』
「お待たせして、申し訳ございませんでした」
『……きみ、ほんとうに、そういうところだよ』
聖堂に、光が射しはじめました。
ですが、まだ足りません。
誓約詠唱を、もう一度、正しい手順で行わねばなりません。
そして――台本は、わたくしの手元にあります。
声に出して読むのは、記録官の役目ではありません。
記録官は、記録する者。唱えるのは、別の者です。
わたくしは、聖堂の隅を見ました。
煤だらけの頬をした、小さな下働きの少年が、震えながら立っておりました。
◇ ◇ ◇
「トト」
わたくしが名を呼ぶと、少年の肩が跳ねました。
「レ、レイリアさま」
「歌えますか」
大きすぎるお仕着せの袖を握りしめて、トトは首を振りました。
「むり。だって、ぼく、字が読めないし、ここ、えらい人ばっかりで、ぼくなんか」
「字は必要ありません」
わたくしは、台本を閉じました。
「これは紙に書いた記録です。あなたの中にあるのは、声に出せる記録です。どちらも同じ、正しい手順です」
「でも」
「トト。記録とは、文字のことではありません」
わたくしは、膝をついて、少年と目の高さを合わせました。
「正しく、残すことです」
トトの目が、揺れました。
貴族たちの視線。大神官。王太子。二百人。
十一歳の孤児院上がりの下働きが、生まれてこのかた一度も向けられたことのない数の視線です。
膝が、笑っておりました。
「……レイリアさま」
「はい」
「ぼく、まちがえませんでした?」
「まだ歌っておりません」
「……あ」
トトが、ふにゃ、と笑いました。
それから、息を吸いました。
小さな、痩せた胸が膨らんで。
『灯は七つ、北から時計まわり、三つ目で息を止めて――』
歌いました。
へたくそな節回しでした。わたくしが作った節ですので、当然です。
ですが、聖堂の天井に、その声はよく響きました。
貴族たちが、呆然と見ておりました。
煤だらけの少年が、朗々と歌っております。
『聖油は三対七、火を近づけず、東の窓から光を入れて』
神官たちが、慌てて動き出しました。油壺を取り、窓の帳を上げます。
『貴族はひだり、神官はみぎ、まんなかは空けて、地脈のみち』
参列者が、押し合いながら左右に割れました。中央に、一本の道が通りました。
石床の黒が、その道筋に沿って、薄れていきます。
『四十一の節――誓いのあと、じゅうにこきゅう、だまること』
トトが、歌うのをやめました。
聖堂が、静まりました。
一。
二。
三。
誰も、動きませんでした。
大神官猊下が、目を閉じて、数えておられました。
八。
九。
十。
十一。
十二。
――地脈が、応えました。
床の黒が、潮が引くように消えていきました。
祭壇の石が、生まれたての白さを取り戻しました。
聖堂の空気が、ふいに甘くなりました。春先の、土の匂いです。
光が、満ちました。
天窓からではありません。床から、壁から、柱から。
この土地そのものが、息を吸い直したような光でした。
参列者の何人かが、声を上げて泣きました。
わたくしの手の中で、王冠が笑いました。
『ぼく、生きてる』
「はい」
『ねえ、あの子、歌、へただね』
「わたくしの節ですので」
『きみのせいか』
トトが、こちらを見ました。
煤だらけの顔が、くしゃくしゃでした。
「レイリアさま、ぼく、まちがえませんでした?」
「一箇所も」
わたくしは、少年の頭に手を置きました。
「トトは、この国で一番優秀な記録官です」
聖堂の隅で、ソフィ・ランベール様が、書き取る手を止めて、袖で顔を押さえておりました。
「……記録官は、記録するしか、できません」
そう呟いて、それから、震える声で付け加えました。
「――わたくしの、責任です」
初めて聞いた言葉でした。
◇ ◇ ◇
光が落ち着いたあと。
カイゼル・ヴェルディアナ殿下が、祭壇の前に進み出ました。
顔は青白く、髪は乱れ、肖像画にはとても使えないご様子でした。
「……レイリア」
「はい」
「被せてくれ」
殿下は、膝をつきました。自らの意思で。
「手順は、正された。地脈は戻った。ならば――私は、王になれる。そうだろう」
聖堂が、固唾を呑みました。
わたくしは、王冠を両手で捧げ持ったまま、答えました。
「いいえ」
「……なに?」
「申し上げたはずです。戴冠の誓約は、三者の契約でございます。王と、地脈と、王冠」
わたくしは、一歩も動きませんでした。
「わたくしは式を整えました。手順を正しました。ですが、契約を結ぶかどうかを決めるのは、わたくしではございません」
「では、誰が決めるというのだ!」
「地脈と、この方です」
王冠が、わたくしの手の中でもぞもぞと動きました。
『ぼく、やだ』
(――聞こえているのは、わたくしだけですけれど)
『あの人、ぼくのこと落としたもん。それに、ぼくの名前、三回聞いても覚えてないよ。さっき「おるでんのなんとか」って言ってた』
「……陛下。王冠の名を、もう一度仰っていただけますか」
「な、名? ……『オルデンの……最後の……』」
「それから」
「…………」
沈黙が、十二呼吸より長く続きました。
わたくしは、静かに申し上げました。
「『約束』でございます」
殿下が、唇を噛みました。
「正しい手順を踏んでも、器が誓約を軽んじる限り、同じことです」
わたくしは、王冠を祭壇の上に置きました。
そっと、規定の角度で。
「わたくしはもう、式を作るだけでございます。誰が被るかは、地脈がお決めになります」
そして、下がりました。
王冠は、祭壇の上で、動きませんでした。
殿下が、手を伸ばしました。
指先が触れる直前、王冠はほんの少しだけ――本当に、指一本分だけ――横に滑りました。
拒絶でした。
暴力でもなく、罵倒でもなく、ただ静かな、指一本分の拒絶。
カイゼル・ヴェルディアナは、膝をついたまま、動けなくなりました。
大神官ヴェルナス猊下が、古法典を閉じました。
「……戴冠は、延期と致します」
老人の声は、震えておりましたが、はっきりとしておりました。
「王太子殿下におかれましては、古法典九十八項目の習得と、地方領の巡検を。一年。――これは神殿の裁定ではなく、地脈の裁定です」
「……一年」
「短いとお思いか」
猊下が、わたくしを見ました。
「この娘は、二年かけました」
殿下は、何も言い返しませんでした。
花に埋もれた席で、ミレーヌ様が、小さく泣いておられました。
誰も、慰めに行きませんでした。
わたくしは一礼して、聖堂を出ました。
呼び止める声が、いくつか聞こえた気がしました。
振り返りませんでした。
扉のところで、燭台の位置を指一本分だけ直しました。
職業病です。
外には、ガルド様が立っておりました。
「……終わったか」
「終わりました」
「報酬は?」
「招かれておりませんので、ゼロです」
ガルド様が、低く唸りました。
「お前、それ、前世でもやってたんじゃねえだろうな」
「……どうしてそれを」
「勘だ」
竜人は、焼き菓子の包みをわたくしに押しつけました。
「帰るぞ。未処理が千件ある」
「千件も?」
「お前が片付けたから、冒険者が増えたんだ」
春の風が、聖堂の鐘の音を運んできました。
◇ ◇ ◇
半年後。
王都下層、冒険者ギルド三階。
階段を上がったところに、小さな看板がかかっております。
〈式典・契約手続代行所 儀式の不備、承ります〉
文字はわたくしが書きました。看板の板は、ガルド様が切ってくださいました。やたらと分厚くて、重くて、落ちると人が死にます。
本日の依頼は三件。
一件目。竜人族の婚礼儀礼の進行監修。
「鱗の贈り合いは、誓いの前ですか、後ですか」
「後だ。前にやると『先に身体をやる』って意味になる」
「……そういう重要事項は、先に仰ってください」
「すまん」
二件目。北部の村の収穫祭。昨年、順序を間違えて醸造樽が全部腐ったそうです。
「原因は、祈祷の前に樽を開けたことですね。開封は祈祷後と記録にございます」
「そんな紙、誰も読まねえよ」
「では、歌にしましょう」
三件目。魔物討伐契約の文言チェック。依頼主が『討伐』の定義を書いておりません。
「これですと、逃げた魔物も討伐扱いになります」
「そりゃ困る」
「困るように書いてあります」
◇
王宮からの便りは、月に一度ほど届きます。
ソフィ・ランベール様は、式典省の実務責任者として立派にやっておられるようです。月に二度、こちらへ書類を持っていらっしゃいます。
「外注費、この金額で宜しいですか」
「適正です」
「……安すぎませんか」
「以前は、ゼロでした」
ソフィ様は、黙ってお茶菓子を置いていかれます。
トトは、正式に式典省へ採用されました。
『歌える記録官』という前例のない職名が新設されたそうです。
手紙が届きましたが、字が読めないので絵と、記号と、短い言葉でした。
『レイリアさま ぼく つくえ ある はちみつのパン まだありますか』
あります、と返事を書きました。絵で。
カイゼル殿下は、地方領を回っておられます。
北部の村で、泥だらけになって堤防の測量をしていたという噂を聞きました。
『三歩のずれ』を、ご自分の足で測って回っているそうです。
一度だけ、手紙が来ました。
『聖油の熟成に、本当に六日かかった。すまなかった』
それだけでした。
謝罪としては稚拙ですが、事実の確認から入ったのは、進歩です。
ミレーヌ様は、神殿の書庫で写本労役中です。
三年。古法典を、一字ずつ写しておられます。
人伝に聞いた話では、ある日、インクで真っ黒になった指先を見て、泣き出したそうです。
『誰かが、毎日、これをやっていたんだわ』
――はい。誰かが、毎日やっておりました。
◇
「おい」
階段を上がる足音。扉が開いて、鈍色の鱗の腕が焼き菓子の包みを差し出しました。
「……ついでだ」
「本日で、百八十七回目の『ついで』でございます」
「かぞえてんのか」
「記録官ですので」
ガルド様が、ぐ、と喉を鳴らして、顔を背けました。
「お前は、この国で一番の、なんだ、その……有能だ」
「それも、百八十七回目です」
「うるせえ」
「泣いておられますか」
「泣いてない。目に埃が入っただけだ」
「そうですか」
焼き菓子は、蜂蜜の味でした。
◇
その夜。
わたくしは、久しぶりに夢を見ました。
三百十三回目。
ですが、今度の夢は、滅びたオルデンのものではありませんでした。
見たことのない大聖堂。
白い石。まだ削られたばかりの、角の鋭い柱。
窓の硝子に、見たことのない紋章。
まだ、建っていない城です。
灯は七つ。北から時計まわり。
玉座の位置は、結節点から誤差ゼロ。
参列者は左右に割れ、中央に地脈の道が通っております。
祭壇の上で、『オルデンの最後の約束』が、きらきらと嬉しそうに震えております。
誰かが、歌っています。少年の、少し声変わりしかけた声で。
そして、その玉座に座ろうとしているのは――
鈍色の、鱗の。




