02
開けた空間に落ちた沈黙は、あまりに重く、山の空気が鉛に変わったかのようだった。
ライナー大尉は、その場から動けずにいた。
国境戦争を三度生き延び、《鉄門包囲戦》を経験した歴戦の兵。
その彼が、まだ白煙を上げる《厄災熊》の二つの肉塊を、ただ呆然と見つめている。
冒険者ギルドの公式記録によれば、Bランク魔獣は“国家殺し”。
無防備な村であれば、半日で壊滅させる存在だ。
――死ぬ覚悟は、できていた。
それなのに今、彼の視界にいるのは。
王女の腰袋を、王族への敬意とは無関係な“捕食者の目”で凝視する、絹の湯着の男だった。
「塩だ」
男――マグス・サトゥリが、もう一度言った。
石が擦れるような声。落ち着いていて、異様なほど揺らがない。
「あるのか。二年も砕いた海貝で代用している。歯が痛み始めてな」
第三王女、王国の“第三宝玉”セラフィナは、ようやく声を取り戻した。
「あなた……いま、第十階位《灼光閃》を使いました」
触れた熊の断面を指差し、声が震える。
「触媒なし。詠唱なし。あの一撃の魔力密度は……一平方センチあたり一万MP……!」
マグスは首を傾げた。
絹のような黒髪が、静かに揺れる。
「えむ……ぴー?」
「香辛料の一種か?」
「魔力です!!」
セラフィナは叫んだ。王女の威厳は、完全に蒸発していた。
「どうして、そんな力を持っていて魔法を知らないんですか!」
マグスは自分の刀を見て、それから少女を見た。
溜息。
山の空気は肺に良い。
だが、谷の人間の頭を少し柔らかくしすぎるらしい。
「摩擦だ」
彼は刀を掲げ、淡々と説明する。
「鋼を鞘から、音速――概ね毎秒三百四十三メートル以上で引き抜けば、
空気抵抗と運動エネルギーが熱に変わる。それだけだ。山の基礎物理だ」
彼は言わなかった。
その“基礎物理”が、仕事とエネルギー保存則に従い、
Q=½mv² に近い形で発熱していることを。
彼の中で、自分は魔導士ではない。
冬が退屈すぎたから、一日一万回、素振りをしただけの人間だ。
「……摩擦……」
ライナー大尉は、自分の錆びた長剣を見下ろし、呟いた。
「彼は、Bランクを摩擦で斬ったと思っている」
「浪人だ……」
若い護衛の一人が、羽織を指差して震える。
「極東の剣士。剣意だけで、世界の法則を斬るって……」
マグスは無視した。
熊の死骸に近づき、鉄毛を下駄で軽く突く。
「弱いな」
「北斜面の奴らは八本脚で、霜を吐く。あれでようやく準備運動だ」
「これは……燃えやすかったが。まあ、大抵のものは燃える」
鎧の男たちを見る。
まだ、震えが止まっていない。
胸に、わずかな痛みが走った。
十年前。
八歳の子供が、岩を投げるような濁流から、自分を引き上げた。
今ここにいる大人たちは、六本脚の太った狸に怯えている。
「立ち続けると、冷える」
カチリ、と納刀。
「山は来訪者を嫌う。ついて来い」
「小屋がある。狭いが、屋根はある」
「……私たちを……あなたの家に?」
セラフィナは目を見開いた。
第十階位の賢者の住処とは、浮遊要塞か、ゴーレムに守られた塔だと信じていた。
「塩があるならな」
マグスは釘を刺す。
「それと、“えむぴー”の香辛料も。高そうだ」
一行が、背の高い侍の後を追い、松林へ入る。
マグスは“存在不明”のまま歩き、足は針葉にほとんど触れない。
彼は気づいていなかった。
ただ歩くだけで、その剣意が瘴気を裂き、“聖なる道”を刻んでいることを。
後に王国史家たちは、この日をこう記す。
――世界最強の侍が、山より降りた日、と。
だが、マグスの思考は一つだけだった。
(粗塩だといいが……)
(細かいのは、山羊の炙りに合わん)
背後で、セラフィナ王女が彼の背中を見つめていることにも気づかない。
恐怖と、熱を帯びた頬。
(……待って)
(山の侍って……こんなに……無自覚?)
そう思いながら、彼女はローブを強く握りしめた。




