18
オークヘイヴンの王都の朝は、高価な香炉の香りと、溢れんばかりのマナを持ちながら使い道のない人々が放つ、苛立ちに似た熱気に包まれていた。
王立演習場の中央に立つ魔導師マグスは、いつもの白黒の羽織を身に纏っていた。その姿は、伝説の戦士というよりは、炭の値上がりに頭を抱える小市民のようだった。
(なぜここの地面はこれほど柔らかいんだ?)
マグスは重心を移しながら考えた。
(踏み込みを強くすれば、足首まで埋まってしまう。都会の連中は、排水の重要性をこれっぽっちも理解していないな)
彼の向かいには、銀等級の冒険者ケーレンが立っていた。その鎧はあまりに磨き上げられ、もはや第二の太陽として機能している。ケーレンの手にある細剣は、「氷結」の付与による青い光を放ち、唸りを上げていた。
「よもや、錆びた刀を提げた平民が騎士教官の試験に合格できると思っているとはな」
ケーレンは嘲笑った。その声が石造りの観客席に響き渡る。そこでは上級魔導師たちが、臨床的な退屈さを漂わせながら見守っていた。
「ここに入り込むために使った『隠形』の小細工も、決闘では通用せんぞ。動いてみろ、抜刀する前に貴様の血を凍らせてやる」
マグスは瞬きをした。彼は「小細工」など使っていない。ただ、じっと立っていただけだ。山では、不要な動きはカロリーの浪費に繋がる。カロリーを無駄にすれば、吹雪の際に餓死するかもしれない。それは単純な生物学の話だった。
「凍るのには興味がない」
マグスは低く響く声で言った。
「興味があるのは手当だ。教官になれば、高級な岩塩が割引になると聞いたが。それは本当か?」
「私を愚弄するか!」
ケーレンが突進した。
観客席の監視者たちの目には、ケーレンは銀と氷の残像——「縮地」の技術を極めた達人級の動きに見えた。だがマグスにとって、その男は傷ついた野良山羊のような、もどかしいほどの遅さで動いていた。
(摩擦が大きすぎる)
マグスは観察した。
(地面を蹴る角度が……空気そのものと喧嘩をしているな。効率が悪すぎる)
マグスは刀を抜かなかった。代わりに、ただ半歩だけ前に踏み出した。
「残心」
空気が単に動いたのではない。屈服したのだ。マグスがケーレンの「無敵」の間合いに踏み込んだ瞬間、半径五メートル以内の気圧が急上昇した。上級魔導師たちには、それが池に広がる波紋のように見えた。次元の裂け目から見守る「影の観測者」には、特異点が鳴動する音として聞こえた。
「なっ——!?」
ケーレンの細剣が砕け散った。
マグスが叩いたからではない。マグスの「剣気」——極限まで練り上げられた殺意——の密度が、周囲の空気を物理的な壁へと変えたのだ。氷結の付与が施された刃は、超圧縮された酸素の塊に衝突し、乾いた枝のように折れた。
マグスは手を伸ばし、二本の指でケーレンの胸を軽く突いた。
「姿勢が左に傾いている」
マグスは言った。
「そんなことでは四十歳になるまでに腰を痛めるぞ。物理学は、貴様の付与魔法など考慮してくれないからな」
ケーレンは後方へ吹き飛んだ。魔術ではなく、マグスによる単純な力の転換が生んだ運動エネルギーの放出によるものだ。彼は闘技場の強化石壁に激突し、困惑しきった貴族の形をしたクレーターを残した。
「……今のは、何だ?」
上級魔導師の一人が、水晶の片眼鏡を落としながら囁いた。
「マナの痕跡がない。属性の変位もない。彼はただ……第四階梯の『氷結盾』を、夏のそよ風のように通り抜けただけだぞ」
「物理的な異常現象だ!」
別の者が叫んだ。
「隠しアーティファクトを装備しているに違いない! 身体検査をしろ!」
マグスは溜息をつき、自分の硬くなった掌を見つめた。
(また騒いでいる。たぶん壁のことだろうな。粘土で補修すると申し出なくては。岩塩の手当から差し引かれないといいんだが)
亜空間の奥深くで、「影の観測者」は赤い目を見開き、耳障りな笑い声を上げた。
「『物理学』、だとさ。己の存在感だけで空気中の窒素をダイヤモンドの硬度まで圧縮しておいて、心配しているのは姿勢の良し悪しか」
観測者は身を乗り出し、にやりと笑った。
「ああ、マグス。お前が『普通』であろうとすればするほど、この世界の矮小なルールは壊れていくな」
マグスは審判員たちの方を向き、無表情に言った。
「それで、塩はもらえるのか?」




