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セラフィナ王女に言わせれば、ラヴィラント王宮の賓客室は建築史の驚異であり、「高聖」なる贅を尽くした空間だった。しかし、魔導師サトリにとっては、ただの湿った箱に過ぎなかった。


「王女」 サトリの声は低いバリトンで、部屋の高級な絹のカーテンを震わせた。 「この街の空気は、いつもこう……淀んでいるのか? まるで濡れた毛布越しに息をしているようだ」


入り口からその様子を眺めていたセラフィナ王女は、ため息をついた。 「それは『湿度』と呼ぶのです、サトリ殿。ここは盆地なのです。川もあり、湖もあります。そして……天候というものがあるのですわ」


サトリは納得がいかない様子だった。 彼は色褪せた白黒の羽織を整え、鋭い武人の眼光で部屋を走査した。 (湿度。盆地の言葉で『腐敗』のことか)


彼は手彫りの重厚なオーク材のクローゼットへ歩み寄り、タコだらけの指で軽く叩いた。 その「重み」のある一叩きが周囲の空気に波紋を広げ、午後の光の中に塵を舞い上がらせる。 「木が泣いている」サトリは観察した。「水分で木目が歪んでいる。ここに一週間も刀を放置すれば、鞘が膨張し、抜刀が少なくとも0.002秒は遅れるだろう」


セラフィナは瞬きをした。「零点……サトリ殿、それはクローゼットであって、修練場ではありませんのよ。あなたは『リラックス』すべきなのです。あなたが仰っていた『スローライフ』というものでしょう?」


「リラックスとは、沼地で暮らすことではない」 サトリは絨毯の上に下駄をしっかりと踏みしめた。 (大気を安定させる必要がある。さもなければ、先ほど買った塩が夜明けまでにレンガになってしまう)


サトリは刀の柄に手をかけた。 抜刀はしない。その必要はないからだ。 ただ重心を移し、十年間の山籠りで磨き上げた感覚の網――「残心」を広げ、部屋の隅々まで満たしていく。


技:山嶺の息吹さんれいのいぶき


魔法の音はしなかった。「魔法陣」も「詠唱」もない。 あったのは、突発的で激しい空気の置換だけだ。 サトリは両手で一連の超高速かつ微細な動きを繰り出した。己の極限の身体能力を利用し、気圧を操作する「手動対流」である。


――ヴォォン!


オゾンと山の松の香りがかすかに漂う鋭い突風が、部屋の中心から巻き起こった。淀んだ湿った空気は開いた窓から強制的に「押し出され」、代わりに上層大気から引き込まれた新鮮で乾燥した気流が、真空状態を即座に埋めた。


塵は消え去り、木材の湿気は移動する空気の摩擦によって「焼き」飛ばされた。部屋は突如として、標高五千メートルの空気のように、冷たく、澄み渡った。


「よし」サトリは掌を払いながら言った。「これでようやく人が住める」


セラフィナ王女は震える手で光り輝く白いドレスを掴み、歯をガチガチと鳴らした。 「……息が、白くなっておりますわ、サトリ殿。高級スイートルームを冷凍庫に変えてしまうなんて!」


「『効率』と呼んでいただきたい、王女」サトリは淡々と答えた。 彼は腰のベルトから粗塩の入った小さな袋を取り出し、今や乾燥しきったテーブルの上に置いた。 「さて、炭はどこにある? この盆地の木の熱伝導率を試さねばならん。どうも……欠陥品に見えるのでな」


亜空間の深淵では、シャドウ・オブザーバーが頬杖をつき、ニヤリと笑っていた。現実の狭間から、彼は「特異点」が世界を変貌させるほどの物理法則への精通を……ただの掃除に費やす様を見届けていた。


「マナを滴りも使わずに、高位の大気浄化を成し遂げるとはな」オブザーバーは歓喜に目を赤く輝かせ、囁いた。「物理法則をほうきのように扱う人間か」


オブザーバーがギザギザな笑い声を上げると、黒曜石の玉座が小刻みに震えた。 「さあ、行くがいい、魔導師サトリ。貴様がこの世界の残りを『掃除』しようとした時、一体何が起きるのか見せてもらおうではないか」


一方、サトリは近くの茶器を眺めていた。 (磁器が厚すぎる。熱の保持にムラが出るだろう) 「王女」サトリが呟いた。「貴国の王は、もっと良い粘土に投資すべきだ。これでは、私の山ミントのフレーバーが台無しになってしまう」


世界の「常識」が、またしても粉々に砕け散った。 すべては、乾いた部屋と、一杯の美味い茶のために。

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