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標高四千メートルの風は、ただ吹くだけではない。
それは、削る。
谷の下では、人々はその大山脈を「神の爪」と呼んでいた。
息をするには空気が薄すぎ、数えるには魔物が多すぎる場所。
だが――マグス・サトゥリにとって、そこはただの故郷だった。
静寂の場所。
松脂の香りに満ちた朝。
そして、砥石が鋼に触れる、規則正しい――カチ、シャッ――という音。
マグスの身長は六フィート二インチ。
森林限界に生える、ねじ曲がった木々と比べれば、文字通りの巨人だった。
長い黒髪は麻紐で簡素に束ねられ、色褪せた黒白の羽織を風に揺らしている。
彼は息を吸った。
凍てつく空気を、長く、制御された一吸い。
普通の人間なら肺が結晶化していただろう。
――十年。
最後に他人の顔を見てから、ちょうど十年が経っていた。
「狂流川」の事故は、今でも覚えている。
八歳だった。
痩せ細った身体は、岩をビー玉のように転がす鉄砲水に呑まれた。
溺れ、視界が泥色に染まり、意識が遠のいた、その瞬間。
襟を掴む手があった。
自分とそう変わらぬ年頃の子供。
その子は彼を泥だらけの岸へ引き上げると、マグスが水を吐き出すより早く、霧の中へ消えていった。
それ以来、マグスはここで生きてきた。
他にやることを知らなかったから、鍛えた。
刀を振り、摩擦で空気がオゾンに変わるまで振り続けた。
腹が減るから、狩った。
――ギィィィィッ!!
山の静寂を引き裂く音。
鷹の鳴き声でも、岩猿の威嚇でもない。
高く、甲高く、そして震えるような恐怖を含んだ声。
人間の声だった。
マグスは考えない。
十年にわたる高地走で鍛え上げられた脚が、螺旋のように縮み、弾ける。
彼は――消えた。
傍目には、黒と白の瞬きにしか見えなかっただろう。
彼は地を走らない。
古く、節くれだった松を階段のように扱う。
踏む。
跳ぶ。
霞む。
彼の存在は空白だった。
鳥たちは囀りを止めず、乾いた小枝一つ折れない。
重心は、完璧に分散されていた。
やがて、開けた空間を見下ろす巨大な枝に辿り着き、止まる。
針のように細い枝先に立ちながら、その体重は限りなくゼロに近い。
下では――
世界の「常識」が、崩壊していた。
銀白に輝くローブの少女。
この山には不釣り合いなほど、清潔な装い。
彼女は岩を背にし、四人の鉄板鎧の男たちが前に立つ。
剣は、震えていた。
「陣形を保て!」
一人が叫ぶ。
「厄災熊だ! 少なくともBランク!」
マグスは首を傾げる。
長い髪が肩を滑り落ちた。
――厄災熊?
六本脚の巨大な灰色熊。
毛皮は絡まった鉄線のようで、目は鈍く赤く光っている。
見覚えがあった。
干している魚を盗もうと、よく寄ってくる獣だ。
マグスにとっては、太った狸のような――少々鬱陶しい存在でしかない。
(なぜ、こんなに怯えている?)
(ただの弱い獣だ。それに……どうやってここまで?
この山道は、俺が来てから使われていないはずだが)
熊が咆哮する。
その音で、地面の水溜りが波打った。
盾を持つ護衛の一人が、人形のように吹き飛ばされる。
少女が、再び叫んだ。
マグスは溜息をついた。
ここで見殺しにすれば、埋葬しなければならない。
凍土を掘るのは、今日は気が進まない。
剣は、まだ抜かない。
彼は、ただ枝から一歩、踏み出した。
落ちたのではない。
――降りたのだ。
着地。
鉄毛の獣と、怯える人間たちの、ちょうど中央。
下駄の下で、埃がふわりと舞う。
音は、ない。
「だ……誰だ?」
隊長格の護衛が、喘ぐように問う。
空気から現れたかのような、奇妙な絹の外套の大男を見上げて。
マグスは答えない。
“未知の存在”は、まだ有効だった。
熊でさえ、そこに人間がいると気づいていない。
――カチ。
刀の柄頭を、軽く叩く。
熊が凍りついた。
原始的な本能が、目の前の“空白”は太陽より危険だと叫んだのだ。
マグスは柄を握る。
彼は「火魔法」を知らない。
十年の孤独の中で、世界が「魔法陣」や「詠唱」を使うことも知らなかった。
彼にとって、火とは――
速く動けば、起きるもの。
物理だ。
「完璧な抜刀」の結果にすぎない。
「退け」
マグスは言った。
低く、静かなバリトン。
十年間、木々にしか向けてこなかった声。
熊は、狂気じみた衝動に駆られ、突進した。
親指が鍔を弾く。
刀身は、観測者の視神経を置き去りにする速度で鞘を離れた。
――技・摩擦火花。
詠唱はない。
あるのは、雷鳴のような音だけ。
白熱し、浄化された炎の一閃が、刀の軌跡から噴き出す。
空気を切り裂くその温度は、熊の鉄毛を瞬時に溶融させた。
獣が鳴く暇はなかった。
身体は両断され、焼き塞がれた断面のまま、地に落ちる。
炎は一瞬、空中に残る。
神道の赤を帯びた、完璧な三日月。
そして、消えた。
――チン。
乾いた音と共に、納刀。
「……ここは、いつもこんなに乾燥してたか?」
焦げた草を見て、マグスは独り言を漏らす。
「摩擦には気をつけないとな。山火事は困る」
人間たちへ振り返る。
護衛四人は、感謝ではなく、脚が抜けて膝をついていた。
白衣の少女は、口を開けたまま、彼を見つめている。
マグスは彼女を見た。
闇色の瞳を細め、探す。
――あの時の子供に、似ているか。
「お前」
彼は、硬くなった指で少女を指した。
「なぜ、あんな弱い獣に手こずっている」
「それと……塩は持っているか? 三ヶ月前に切らしてな」
沈黙が落ちる。
王女と、その精鋭護衛にとって。
彼らは救われただけではなかった。
――研ぎ澄まされた金属一振りで、無詠唱の第十階位火炎魔法を見せられたのだ。
マグス・サトゥリが知りたかったのは、
ただ――調味料の有無だけだった。




