表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

1

標高四千メートルの風は、ただ吹くだけではない。

それは、削る。


谷の下では、人々はその大山脈を「神の爪」と呼んでいた。

息をするには空気が薄すぎ、数えるには魔物が多すぎる場所。

だが――マグス・サトゥリにとって、そこはただの故郷だった。


静寂の場所。

松脂の香りに満ちた朝。

そして、砥石が鋼に触れる、規則正しい――カチ、シャッ――という音。


マグスの身長は六フィート二インチ。

森林限界に生える、ねじ曲がった木々と比べれば、文字通りの巨人だった。

長い黒髪は麻紐で簡素に束ねられ、色褪せた黒白の羽織を風に揺らしている。


彼は息を吸った。

凍てつく空気を、長く、制御された一吸い。

普通の人間なら肺が結晶化していただろう。


――十年。


最後に他人の顔を見てから、ちょうど十年が経っていた。

狂流川マッド・リバー」の事故は、今でも覚えている。


八歳だった。

痩せ細った身体は、岩をビー玉のように転がす鉄砲水に呑まれた。

溺れ、視界が泥色に染まり、意識が遠のいた、その瞬間。

襟を掴む手があった。


自分とそう変わらぬ年頃の子供。

その子は彼を泥だらけの岸へ引き上げると、マグスが水を吐き出すより早く、霧の中へ消えていった。


それ以来、マグスはここで生きてきた。

他にやることを知らなかったから、鍛えた。

刀を振り、摩擦で空気がオゾンに変わるまで振り続けた。

腹が減るから、狩った。


――ギィィィィッ!!


山の静寂を引き裂く音。

鷹の鳴き声でも、岩猿の威嚇でもない。

高く、甲高く、そして震えるような恐怖を含んだ声。


人間の声だった。


マグスは考えない。

十年にわたる高地走で鍛え上げられた脚が、螺旋のように縮み、弾ける。

彼は――消えた。


傍目には、黒と白の瞬きにしか見えなかっただろう。

彼は地を走らない。

古く、節くれだった松を階段のように扱う。


踏む。

跳ぶ。

霞む。


彼の存在は空白だった。

鳥たちは囀りを止めず、乾いた小枝一つ折れない。

重心は、完璧に分散されていた。


やがて、開けた空間を見下ろす巨大な枝に辿り着き、止まる。

針のように細い枝先に立ちながら、その体重は限りなくゼロに近い。


下では――

世界の「常識」が、崩壊していた。


銀白に輝くローブの少女。

この山には不釣り合いなほど、清潔な装い。

彼女は岩を背にし、四人の鉄板鎧の男たちが前に立つ。

剣は、震えていた。


「陣形を保て!」

一人が叫ぶ。

「厄災熊だ! 少なくともBランク!」


マグスは首を傾げる。

長い髪が肩を滑り落ちた。


――厄災熊?


六本脚の巨大な灰色熊。

毛皮は絡まった鉄線のようで、目は鈍く赤く光っている。


見覚えがあった。

干している魚を盗もうと、よく寄ってくる獣だ。

マグスにとっては、太った狸のような――少々鬱陶しい存在でしかない。


(なぜ、こんなに怯えている?)

(ただの弱い獣だ。それに……どうやってここまで?

 この山道は、俺が来てから使われていないはずだが)


熊が咆哮する。

その音で、地面の水溜りが波打った。

盾を持つ護衛の一人が、人形のように吹き飛ばされる。


少女が、再び叫んだ。


マグスは溜息をついた。

ここで見殺しにすれば、埋葬しなければならない。

凍土を掘るのは、今日は気が進まない。


剣は、まだ抜かない。

彼は、ただ枝から一歩、踏み出した。


落ちたのではない。

――降りたのだ。


着地。

鉄毛の獣と、怯える人間たちの、ちょうど中央。

下駄の下で、埃がふわりと舞う。

音は、ない。


「だ……誰だ?」

隊長格の護衛が、喘ぐように問う。

空気から現れたかのような、奇妙な絹の外套の大男を見上げて。


マグスは答えない。

“未知の存在”は、まだ有効だった。

熊でさえ、そこに人間がいると気づいていない。


――カチ。


刀の柄頭を、軽く叩く。


熊が凍りついた。

原始的な本能が、目の前の“空白”は太陽より危険だと叫んだのだ。


マグスは柄を握る。

彼は「火魔法」を知らない。

十年の孤独の中で、世界が「魔法陣」や「詠唱」を使うことも知らなかった。


彼にとって、火とは――

速く動けば、起きるもの。

物理だ。

「完璧な抜刀」の結果にすぎない。


「退け」


マグスは言った。

低く、静かなバリトン。

十年間、木々にしか向けてこなかった声。


熊は、狂気じみた衝動に駆られ、突進した。


親指が鍔を弾く。

刀身は、観測者の視神経を置き去りにする速度で鞘を離れた。


――技・摩擦火花。


詠唱はない。

あるのは、雷鳴のような音だけ。


白熱し、浄化された炎の一閃が、刀の軌跡から噴き出す。

空気を切り裂くその温度は、熊の鉄毛を瞬時に溶融させた。


獣が鳴く暇はなかった。

身体は両断され、焼き塞がれた断面のまま、地に落ちる。


炎は一瞬、空中に残る。

神道の赤を帯びた、完璧な三日月。

そして、消えた。


――チン。


乾いた音と共に、納刀。


「……ここは、いつもこんなに乾燥してたか?」

焦げた草を見て、マグスは独り言を漏らす。

「摩擦には気をつけないとな。山火事は困る」


人間たちへ振り返る。


護衛四人は、感謝ではなく、脚が抜けて膝をついていた。

白衣の少女は、口を開けたまま、彼を見つめている。


マグスは彼女を見た。

闇色の瞳を細め、探す。


――あの時の子供に、似ているか。


「お前」


彼は、硬くなった指で少女を指した。


「なぜ、あんな弱い獣に手こずっている」

「それと……塩は持っているか? 三ヶ月前に切らしてな」


沈黙が落ちる。


王女と、その精鋭護衛にとって。

彼らは救われただけではなかった。


――研ぎ澄まされた金属一振りで、無詠唱の第十階位火炎魔法を見せられたのだ。


マグス・サトゥリが知りたかったのは、

ただ――調味料の有無だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ