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反論できない侯爵令嬢の婚約解消 ~王子に黒猫を捨てろと言われたので、侍女は初めて逆らいました~

作者: 水主町あき
掲載日:2026/01/25

※公開後に気になる点が出てきたため、冒頭を調整しました。

「捨ててきなさい。王族の婚約者が、こんな不吉な獣を飼うなど許されない」


 第二王子レイノルドの冷たい声が、応接室に響いた。

 婚約者である侯爵令嬢ソフィアは反論できず、ただ俯いた。

 プルーデンスは息を呑んだ。エボニー――あの小さな黒猫を、捨てろと言うのか。


 レイノルドがエボニーに手を伸ばしたとき――


「殿下、お待ちください!」


 侍女の分際で、王族に声を上げる。それがどれほど無謀なことか、プルーデンスは知っていた。

 でも、ソフィアが苦しんでいるのを見ているほうが、もっと怖かった。


 *


 すべては、三ヶ月前から始まった。


 春の朝、プルーデンスは馬車の窓から見える景色に目を見張った。地方の小さな男爵領から三日かけて辿り着いた王都。

 そびえ立つ煉瓦造りの侯爵邸は、彼女が今まで見たどの建物よりも壮麗だった。


「緊張しているのね」母チャリティが優しく娘の手を握った。


「でも心配いりませんよ。侍女長のマーガレット様は遠縁ですもの。きっと良くしてくださるわ」


 プルーデンスは深呼吸をした。十六歳の彼女にとって、これは人生の転機だった。

 侯爵令嬢ソフィア様の話し相手として仕え、社交界の作法を学ぶ。そして来年、自分も社交界にデビューする――。


 母と並んで馬車を降りると、マーガレットが出迎えてくれた。


「メグ、本当に久しぶりね」


「お元気そうで何よりだわ」


 二人は懐かしそうに言葉を交わした。けれど母も長くは留まれない。男爵領での仕事が待っている。


「あなたならきっと大丈夫。マーガレット様もいらっしゃるもの」


「はい、母様」


 プルーデンスは笑顔で頷いたが、馬車が門を出ていくのを見送ると、急に心細さが込み上げてきた。


「さあ、参りましょう」


 マーガレットの穏やかな声に我に返り、プルーデンスは頷いた。


 玄関ホールの大理石が足音を反響させる中、侍女長に導かれて図書室へと向かった。


「ソフィア様、新しい侍女のプルーデンスにございます。以後お取り計らいを」


 マーガレットの声に応じて、椅子から、一人の少女が優雅に立ち上がった。

 栗色の髪を編み上げ、瞳と同じ淡い青のドレスに身を包んだ彼女は、絵画から抜け出してきたように美しかった。


「ようこそ、プルーデンス。お会いできて嬉しいわ」


 ソフィアの柔らかな笑顔に、プルーデンスの緊張は少しずつ解けていった。


「私も話し相手が欲しかったの。同じくらいの年頃の方の」


「光栄です」プルーデンスは丁寧にカーテシーをした。


「形式的なのは大人たちの前だけでいいわ。二人きりの時は、もっと気楽にしましょう。……プルーと呼んでも構わないかしら?」


 そう言ってソフィアが微笑むと、プルーデンスの心に温かいものが灯った。


 *


 数週間が過ぎ、プルーデンスはソフィアとの日々に慣れていった。午前中は一緒に刺繍をし、午後は図書室で本を読み、時には庭園を散策した。

 ソフィアは聡明で優しく、プルーデンスにとって憧れの存在となった。


「プルーデンス」


 廊下で、侍女長のマーガレットに声をかけられた。


「所作が洗練されてきましたね。ソフィア様と過ごすうちに、自然と身についたのでしょう」


「ありがとうございます、マーガレット様」


「あなたを見ていると、お母様を思い出しますよ」


「母を……ですか?」


「ええ。彼女とは同じ屋敷で侍女見習いをしていたことがあるのです」


 マーガレットの目が懐かしそうに細められた。


「私は彼女のことをチャットと呼んでいました。そのまっすぐな眼差しも、チャットにそっくりです」


 マーガレットがそっと肩に手を置いた。


「これからも、頑張りなさい」


 ある午後、ソフィアの婚約者である第二王子レイノルドが邸宅を訪れた。

 金髪碧眼の王族らしい容姿は、美術品を思わせるほど秀麗だった。

 二人は完璧な組み合わせに見えた。プルーデンスは控えめに部屋の隅で待機していた。


「ソフィア、その刺繍はまだ完成していないのか」


 レイノルドの声に落胆の響きがあった。


「私の婚約者としてふさわしい技量を示すべきだろう」


「申し訳ございません。もっと精進いたします」


 ソフィアの声は小さかった。


「君の母君は優雅だったと聞くが」


 プルーデンスは息を呑んだ。ソフィアの指先が、刺繍糸を強く引いた。


「君なら、もっと高い水準に行けるはずだ。それを信じて私の横に立ってもらうことにしたのだから」


 レイノルドが去った後、ソフィアは窓辺に立ち、じっと外を見つめていた。


「ソフィア様……」


 プルーデンスが声をかけると、彼女は振り返って微笑んだ。しかしその笑顔は、どこか悲しげだった。


「レイノルド様は正しいわ。私はもっと努力しなければ」


 以来、プルーデンスは気づき始めた。レイノルドが訪れるたび、ソフィアは少しずつ小さくなっていく。


「君は考えが浅い」「そんな意見では恥をかくだけだ」「私の婚約者なのだから、もっと完璧であるべきだ」

 ――そんな言葉の数々が、美しい令嬢の輝きを曇らせていった。


 *


 初夏のある日、雨上がりの庭園を散策していた二人は、薔薇の茂みの下で小さな鳴き声を聞いた。


「まあ!」


 ソフィアが駆け寄ると、そこには濡れそぼった黒い子猫がいた。


「可哀想に……」


 プルーデンスがそっと抱き上げると、子猫は震えながらも彼女の手のひらで小さく鳴いた。


「館で飼いましょう」


 ソフィアの目が久しぶりに輝いた。


「この艶やかな黒い毛……エボニーと名付けるわ。黒檀(エボニー)のように美しいもの」


「素敵なお名前ですね」


「プルーの色と同じね。あなたも素敵よ」


 プルーデンスは子猫の世話を任された。ミルクを与え、柔らかい布で体を拭き、温かい籠を用意する。小さなエボニーはすくすくと育ち、ソフィアの部屋を元気に駆け回るようになった。

 ソフィアも変わった。子猫と遊ぶ時、彼女は心から笑った。その笑顔は、プルーデンスが最初に会った日の、あの柔らかな笑顔だった。


 しかし、それは長くは続かなかった。


 レイノルドが訪問したその日、エボニーが客間に飛び込んでしまった。


「これは何だ」


 レイノルドの声は氷のように冷たかった。


「子猫です。エボニーと申します」


 ソフィアが説明した。


「黒猫か。不吉な」


 レイノルドは嫌悪を隠さなかった。


「捨ててきなさい。王族の婚約者が、こんな不吉な獣を飼うなど許されない」


「でも、レイノルド様……」


「私の言うことが聞けないのか」


 ソフィアは俯いた。


「……承知いたしました」


 その夜、プルーデンスはソフィアが泣いているのを見つけた。


「どうすればいいの、プルー。エボニーを捨てるなんて……でも殿下に逆らえば……」


 翌日、プルーデンスは邸内でレイノルドがエボニーの入った籠を持っているのを目撃した。彼は門の外へ向かおうとしていた。


「殿下、お待ちください!」


 プルーデンスは走った。身分も立場も忘れて。


「ソフィア様のエボニーです。どうか……どうかお返しください」


「侍女の分際で私に命令するのか」


 レイノルドの目は冷酷だった。


「命令ではございません。お願いです」


 プルーデンスは途切れそうな声で続けた。


「殿下は……ソフィア様を傷つけておられます。お言葉の一つ一つが、優しい方の心を削っていくのです」


 静寂が降りた。


「証明できるのか」


 レイノルドは静かに、しかし脅すように言った。


「侍女の戯言だと、皆が思うだろうな」


 *


 プルーデンスは侯爵夫人の前に呼び出された。レイノルドが「侍女が王族に不敬な態度を取った」と告げたのだ。

 応接室の重い空気の中、プルーデンスの隣には侍女長マーガレットも立っていた。彼女も共に召集されていた。


「プルーデンス」


 侯爵夫人の声は硬く響いた。


「説明なさい。何が起こったのか」


 侯爵夫人はマーガレットに視線を向けた。


「マーガレット。プルーデンスはあなたの遠縁だったわね」


「はい、レディ・ローズモント」


「あなたが推薦なさるから信頼していたのだけれど……」


 言葉の端には失望が滲んでいた。プルーデンスは胸が締め付けられた。マーガレット様にまで迷惑をかけてしまう。


「私の目に適ったからこそ、推薦いたしました」


 マーガレットの声は穏やかだが、確固たる信念があった。


「もしプルーデンスが間違っているのであれば、私が責任を取ります」


 マーガレットと視線が合う。その穏やかな瞳には、静かな励ましがあった。

 プルーデンスは必死に声を振り絞った。


「私は……殿下がソフィア様を傷つけておられると申し上げました……」


「黙るんだ」


 レイノルドが立ち上がった。プルーデンスは気圧されて、それ以上何も言えなくなってしまった。


「これ以上、侯爵家の名誉を傷つける前に――」


「お待ちください」


 扉が開き、ソフィアが入ってきた。彼女の顔は青白かったが、瞳には確かな決意が宿っていた。


「母上。プルーデンスは正しいことを申しております」


「ソフィア!」


 侯爵夫人が驚きの声を上げた。


「私は……ずっと黙っていました」


 ソフィアの声は揺れていたが、確かだった。


「殿下は私に優しいお言葉をかけてくださいません。いつも私の至らなさを指摘され、私を愚かだと、価値がないと示されているようで」


「ソフィア、君のためだ。私は君を守りたいだけ――」


「いいえ」


 ソフィアが初めて、レイノルドの言葉を遮った。


「あなたは私を支配しようとしていたのです。私の心を折って、あなたの思い通りにしようと」


 ソフィアの普段とは違う様子に、侯爵夫人は言葉を失った。


「着ている服が地味すぎる、婚約者の私に恥をかかせたいのか、と。そう言われて華やかに装うと、今度は派手な服装をして慎みはないのかと詰られる」


 ソフィアは続けた。


「殿下のご友人に声をかけられても、必要なことしか話さなければ社交性がないと言われ、それで談笑をすれば親しくしすぎだと叱責され――」


 ソフィアは目を伏せた。


「これでは何もできないではありませんか……」


 ソフィアの言葉を聞くごとに、侯爵夫人の表情は厳しくなっていった。


「プルーデンスは私を守ろうとしてくれました」


 ソフィアがプルーデンスに目を向けた。


「たった一人で、レイノルド様に立ち向かって。私は……私も勇気を出さねばならないと気づきました」


 ソフィアの瞳には力強い輝きがあった。


「殿下は私に相応しくありません」


 レイノルドの顔から血の気が引いた。


 侯爵夫人が宣言した。


「この件、正式に陛下へお伺いを立てます。娘をこれ以上、この場で責めることは許しません」


 *


 数日後、王家からソフィアとレイノルドの婚約解消が通知された。同時に、第二王子は王立陸軍士官学校への入学が決定したとも伝えられた。

 陸軍士官学校は王族や貴族の子弟が通うとはいえ、その訓練は容赦なく厳しいことで知られていた。早朝からの行軍、質素な食事、一切の特別扱いなし――。


 図書室の窓辺で、ソフィアとプルーデンスは並んで座っていた。ソフィアの膝の上では、エボニーが喉を鳴らして眠っている。


「怖くなかった?」


 ソフィアが聞いた。


「とても怖かったです」


 プルーデンスは正直に答えた。


「でも、ソフィア様が苦しんでおられるのを見ているほうが、もっと怖かったのです」


「ありがとう」


 ソフィアが微笑んだ。それは、プルーデンスが初めて会った日の、あの穏やかな笑顔だった。


「あなたが声を上げてくれたから、私も声を上げる勇気を持てた」


 エボニーが目を覚まし、小さくあくびをした。その仕草に二人は笑った。窓の外では、初夏の日差しが庭園を照らしていた。薔薇が咲き誇り、鳥が歌っている。


「これからどうなさいますか?」


 プルーデンスが尋ねた。


「わからないわ」


 ソフィアはエボニーを愛おしそうに撫でた。


「でも、もう誰かの言いなりにはならない。私自身の人生を生きるの」


「私も、ソフィア様のお傍にいたいです」


「プルーは、私の大切な友人よ」


 二人は微笑み合った。エボニーが二人の膝の間を移動し、満足そうに丸くなる。

 黒檀(エボニー)色の小さな命が運んできた変化。それは勇気という名の、何よりも美しい輝きだった。

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― 新着の感想 ―
プルーの勇気と献身、良かったです。 ソフィアも声をあげられて良かった。 もう少し期間が長かったら自己肯定感底辺になって取り返しがつかない事になってましたね。 美しい花を咲かせるでなく、萎らせる事に楽し…
己の虚栄心のために小さな命すら粗雑に扱い、護るべき者を持たないなら、為政者としての資格はありませんからね。 パートナー1人すら幸せにするどころか、縛り付けて支配しようなどという男なら、軍役の中で使い潰…
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