反論できない侯爵令嬢の婚約解消 ~王子に黒猫を捨てろと言われたので、侍女は初めて逆らいました~
※公開後に気になる点が出てきたため、冒頭を調整しました。
「捨ててきなさい。王族の婚約者が、こんな不吉な獣を飼うなど許されない」
第二王子レイノルドの冷たい声が、応接室に響いた。
婚約者である侯爵令嬢ソフィアは反論できず、ただ俯いた。
プルーデンスは息を呑んだ。エボニー――あの小さな黒猫を、捨てろと言うのか。
レイノルドがエボニーに手を伸ばしたとき――
「殿下、お待ちください!」
侍女の分際で、王族に声を上げる。それがどれほど無謀なことか、プルーデンスは知っていた。
でも、ソフィアが苦しんでいるのを見ているほうが、もっと怖かった。
*
すべては、三ヶ月前から始まった。
春の朝、プルーデンスは馬車の窓から見える景色に目を見張った。地方の小さな男爵領から三日かけて辿り着いた王都。
そびえ立つ煉瓦造りの侯爵邸は、彼女が今まで見たどの建物よりも壮麗だった。
「緊張しているのね」母チャリティが優しく娘の手を握った。
「でも心配いりませんよ。侍女長のマーガレット様は遠縁ですもの。きっと良くしてくださるわ」
プルーデンスは深呼吸をした。十六歳の彼女にとって、これは人生の転機だった。
侯爵令嬢ソフィア様の話し相手として仕え、社交界の作法を学ぶ。そして来年、自分も社交界にデビューする――。
母と並んで馬車を降りると、マーガレットが出迎えてくれた。
「メグ、本当に久しぶりね」
「お元気そうで何よりだわ」
二人は懐かしそうに言葉を交わした。けれど母も長くは留まれない。男爵領での仕事が待っている。
「あなたならきっと大丈夫。マーガレット様もいらっしゃるもの」
「はい、母様」
プルーデンスは笑顔で頷いたが、馬車が門を出ていくのを見送ると、急に心細さが込み上げてきた。
「さあ、参りましょう」
マーガレットの穏やかな声に我に返り、プルーデンスは頷いた。
玄関ホールの大理石が足音を反響させる中、侍女長に導かれて図書室へと向かった。
「ソフィア様、新しい侍女のプルーデンスにございます。以後お取り計らいを」
マーガレットの声に応じて、椅子から、一人の少女が優雅に立ち上がった。
栗色の髪を編み上げ、瞳と同じ淡い青のドレスに身を包んだ彼女は、絵画から抜け出してきたように美しかった。
「ようこそ、プルーデンス。お会いできて嬉しいわ」
ソフィアの柔らかな笑顔に、プルーデンスの緊張は少しずつ解けていった。
「私も話し相手が欲しかったの。同じくらいの年頃の方の」
「光栄です」プルーデンスは丁寧にカーテシーをした。
「形式的なのは大人たちの前だけでいいわ。二人きりの時は、もっと気楽にしましょう。……プルーと呼んでも構わないかしら?」
そう言ってソフィアが微笑むと、プルーデンスの心に温かいものが灯った。
*
数週間が過ぎ、プルーデンスはソフィアとの日々に慣れていった。午前中は一緒に刺繍をし、午後は図書室で本を読み、時には庭園を散策した。
ソフィアは聡明で優しく、プルーデンスにとって憧れの存在となった。
「プルーデンス」
廊下で、侍女長のマーガレットに声をかけられた。
「所作が洗練されてきましたね。ソフィア様と過ごすうちに、自然と身についたのでしょう」
「ありがとうございます、マーガレット様」
「あなたを見ていると、お母様を思い出しますよ」
「母を……ですか?」
「ええ。彼女とは同じ屋敷で侍女見習いをしていたことがあるのです」
マーガレットの目が懐かしそうに細められた。
「私は彼女のことをチャットと呼んでいました。そのまっすぐな眼差しも、チャットにそっくりです」
マーガレットがそっと肩に手を置いた。
「これからも、頑張りなさい」
ある午後、ソフィアの婚約者である第二王子レイノルドが邸宅を訪れた。
金髪碧眼の王族らしい容姿は、美術品を思わせるほど秀麗だった。
二人は完璧な組み合わせに見えた。プルーデンスは控えめに部屋の隅で待機していた。
「ソフィア、その刺繍はまだ完成していないのか」
レイノルドの声に落胆の響きがあった。
「私の婚約者としてふさわしい技量を示すべきだろう」
「申し訳ございません。もっと精進いたします」
ソフィアの声は小さかった。
「君の母君は優雅だったと聞くが」
プルーデンスは息を呑んだ。ソフィアの指先が、刺繍糸を強く引いた。
「君なら、もっと高い水準に行けるはずだ。それを信じて私の横に立ってもらうことにしたのだから」
レイノルドが去った後、ソフィアは窓辺に立ち、じっと外を見つめていた。
「ソフィア様……」
プルーデンスが声をかけると、彼女は振り返って微笑んだ。しかしその笑顔は、どこか悲しげだった。
「レイノルド様は正しいわ。私はもっと努力しなければ」
以来、プルーデンスは気づき始めた。レイノルドが訪れるたび、ソフィアは少しずつ小さくなっていく。
「君は考えが浅い」「そんな意見では恥をかくだけだ」「私の婚約者なのだから、もっと完璧であるべきだ」
――そんな言葉の数々が、美しい令嬢の輝きを曇らせていった。
*
初夏のある日、雨上がりの庭園を散策していた二人は、薔薇の茂みの下で小さな鳴き声を聞いた。
「まあ!」
ソフィアが駆け寄ると、そこには濡れそぼった黒い子猫がいた。
「可哀想に……」
プルーデンスがそっと抱き上げると、子猫は震えながらも彼女の手のひらで小さく鳴いた。
「館で飼いましょう」
ソフィアの目が久しぶりに輝いた。
「この艶やかな黒い毛……エボニーと名付けるわ。黒檀のように美しいもの」
「素敵なお名前ですね」
「プルーの色と同じね。あなたも素敵よ」
プルーデンスは子猫の世話を任された。ミルクを与え、柔らかい布で体を拭き、温かい籠を用意する。小さなエボニーはすくすくと育ち、ソフィアの部屋を元気に駆け回るようになった。
ソフィアも変わった。子猫と遊ぶ時、彼女は心から笑った。その笑顔は、プルーデンスが最初に会った日の、あの柔らかな笑顔だった。
しかし、それは長くは続かなかった。
レイノルドが訪問したその日、エボニーが客間に飛び込んでしまった。
「これは何だ」
レイノルドの声は氷のように冷たかった。
「子猫です。エボニーと申します」
ソフィアが説明した。
「黒猫か。不吉な」
レイノルドは嫌悪を隠さなかった。
「捨ててきなさい。王族の婚約者が、こんな不吉な獣を飼うなど許されない」
「でも、レイノルド様……」
「私の言うことが聞けないのか」
ソフィアは俯いた。
「……承知いたしました」
その夜、プルーデンスはソフィアが泣いているのを見つけた。
「どうすればいいの、プルー。エボニーを捨てるなんて……でも殿下に逆らえば……」
翌日、プルーデンスは邸内でレイノルドがエボニーの入った籠を持っているのを目撃した。彼は門の外へ向かおうとしていた。
「殿下、お待ちください!」
プルーデンスは走った。身分も立場も忘れて。
「ソフィア様のエボニーです。どうか……どうかお返しください」
「侍女の分際で私に命令するのか」
レイノルドの目は冷酷だった。
「命令ではございません。お願いです」
プルーデンスは途切れそうな声で続けた。
「殿下は……ソフィア様を傷つけておられます。お言葉の一つ一つが、優しい方の心を削っていくのです」
静寂が降りた。
「証明できるのか」
レイノルドは静かに、しかし脅すように言った。
「侍女の戯言だと、皆が思うだろうな」
*
プルーデンスは侯爵夫人の前に呼び出された。レイノルドが「侍女が王族に不敬な態度を取った」と告げたのだ。
応接室の重い空気の中、プルーデンスの隣には侍女長マーガレットも立っていた。彼女も共に召集されていた。
「プルーデンス」
侯爵夫人の声は硬く響いた。
「説明なさい。何が起こったのか」
侯爵夫人はマーガレットに視線を向けた。
「マーガレット。プルーデンスはあなたの遠縁だったわね」
「はい、レディ・ローズモント」
「あなたが推薦なさるから信頼していたのだけれど……」
言葉の端には失望が滲んでいた。プルーデンスは胸が締め付けられた。マーガレット様にまで迷惑をかけてしまう。
「私の目に適ったからこそ、推薦いたしました」
マーガレットの声は穏やかだが、確固たる信念があった。
「もしプルーデンスが間違っているのであれば、私が責任を取ります」
マーガレットと視線が合う。その穏やかな瞳には、静かな励ましがあった。
プルーデンスは必死に声を振り絞った。
「私は……殿下がソフィア様を傷つけておられると申し上げました……」
「黙るんだ」
レイノルドが立ち上がった。プルーデンスは気圧されて、それ以上何も言えなくなってしまった。
「これ以上、侯爵家の名誉を傷つける前に――」
「お待ちください」
扉が開き、ソフィアが入ってきた。彼女の顔は青白かったが、瞳には確かな決意が宿っていた。
「母上。プルーデンスは正しいことを申しております」
「ソフィア!」
侯爵夫人が驚きの声を上げた。
「私は……ずっと黙っていました」
ソフィアの声は揺れていたが、確かだった。
「殿下は私に優しいお言葉をかけてくださいません。いつも私の至らなさを指摘され、私を愚かだと、価値がないと示されているようで」
「ソフィア、君のためだ。私は君を守りたいだけ――」
「いいえ」
ソフィアが初めて、レイノルドの言葉を遮った。
「あなたは私を支配しようとしていたのです。私の心を折って、あなたの思い通りにしようと」
ソフィアの普段とは違う様子に、侯爵夫人は言葉を失った。
「着ている服が地味すぎる、婚約者の私に恥をかかせたいのか、と。そう言われて華やかに装うと、今度は派手な服装をして慎みはないのかと詰られる」
ソフィアは続けた。
「殿下のご友人に声をかけられても、必要なことしか話さなければ社交性がないと言われ、それで談笑をすれば親しくしすぎだと叱責され――」
ソフィアは目を伏せた。
「これでは何もできないではありませんか……」
ソフィアの言葉を聞くごとに、侯爵夫人の表情は厳しくなっていった。
「プルーデンスは私を守ろうとしてくれました」
ソフィアがプルーデンスに目を向けた。
「たった一人で、レイノルド様に立ち向かって。私は……私も勇気を出さねばならないと気づきました」
ソフィアの瞳には力強い輝きがあった。
「殿下は私に相応しくありません」
レイノルドの顔から血の気が引いた。
侯爵夫人が宣言した。
「この件、正式に陛下へお伺いを立てます。娘をこれ以上、この場で責めることは許しません」
*
数日後、王家からソフィアとレイノルドの婚約解消が通知された。同時に、第二王子は王立陸軍士官学校への入学が決定したとも伝えられた。
陸軍士官学校は王族や貴族の子弟が通うとはいえ、その訓練は容赦なく厳しいことで知られていた。早朝からの行軍、質素な食事、一切の特別扱いなし――。
図書室の窓辺で、ソフィアとプルーデンスは並んで座っていた。ソフィアの膝の上では、エボニーが喉を鳴らして眠っている。
「怖くなかった?」
ソフィアが聞いた。
「とても怖かったです」
プルーデンスは正直に答えた。
「でも、ソフィア様が苦しんでおられるのを見ているほうが、もっと怖かったのです」
「ありがとう」
ソフィアが微笑んだ。それは、プルーデンスが初めて会った日の、あの穏やかな笑顔だった。
「あなたが声を上げてくれたから、私も声を上げる勇気を持てた」
エボニーが目を覚まし、小さくあくびをした。その仕草に二人は笑った。窓の外では、初夏の日差しが庭園を照らしていた。薔薇が咲き誇り、鳥が歌っている。
「これからどうなさいますか?」
プルーデンスが尋ねた。
「わからないわ」
ソフィアはエボニーを愛おしそうに撫でた。
「でも、もう誰かの言いなりにはならない。私自身の人生を生きるの」
「私も、ソフィア様のお傍にいたいです」
「プルーは、私の大切な友人よ」
二人は微笑み合った。エボニーが二人の膝の間を移動し、満足そうに丸くなる。
黒檀色の小さな命が運んできた変化。それは勇気という名の、何よりも美しい輝きだった。




