いつか
昔から私は頭が悪かった。
と言うよりも考えることが嫌いだった。
15の時に精神病だと診断されたが、どうやら生まれつきらしい。
ADHD、注意欠如・多動症。そしてASD、自閉症スペクトラム障害。
簡単に言えば人と関わるのが苦手なのだ。
昔から頭が良いだとか言われてきたが、勉強は特に嫌いで高専に行った姉と比べられてはいつも貶された。
うちは四人兄弟で私は3番目の長男。上に二人の姉がいて、下に中のいい弟がいる。
体が弱いというよりも、細かった私は抵抗もできず姉2人の玩具のような扱いだった。それは5歳頃まで続いた。
1年というのはあっという間と言うが、それは過ぎた時を思い出した時にほとんどを忘れているだけなのだ。
哲学的思考と言うのか、私は昔から他人とは違う考えを持つようにしていた。
そうすれば自分のことを価値のある特別なものと思い込めるからだろうか。
自分でもわからない。
昔から何かに執着するのはASDの症状だと思うのか、それとも自分自身本来の性格なのか。そんな事を考えたって病気がなくなるわけじゃない。
だから私はそれも含めて私なのだと思うようにした。
他人とは違う事を誇りとするか恥とするかで人は大きく変わる。
いわゆる厨二病というやつか、それともナルシストというものか、どちらにせよ世間からはほとんど白い目で見られる。
タレントだとかアーティストだとかのキャラ付けならば許容されるだろうが私のような一般人がそんなことをしては恥でしかない。
小説を書く上で飽きる事はないのだが、自分の思い描いた物語を文字に起こすのが苦手だと言ったら怒られるだろうか。勉強を怠ったツケが回ってきたのかも知れない。だがそれも小説家としてのキャラクターだとしたらそれはそれでいいのかもしれない。
人は自分にないものを欲しがる。
金銭、地位、異性との関係、そして才能。
昔話をするつもりはないが、自分を語るうえでは昔話以外にはすることがない。
私の父は地域の消防団の団長を務めていたくらいしっかり者だ。だが同時に怠惰な一面も持つ。
仕事はしっかりやるが家ではだらしない。
そんな父が好きだ。
少しこだわりは強いがそれでも父は父だ。
母もよく怒るが、こんな私に寄り添ってくれる。
だがなぜだろうか、そんなことを思い出すと涙が流れるのは。
自分が惨めに思える。情けない。
私の叔父は自衛官だ。もうすぐ辞めると言っていたが現時点ではまだ家を離れてしっかり仕事をこなしている。
うちの家系は、母の家は沖縄から、父の家は熊本に血が流れている。
沖縄は狭いのでみんなまあまあ近い親戚だということも少なくはない。
実際私もプロ野球選手の近い親戚だ。
しかも薄くはあるが琉球王朝の血が流れているだとか。そんなことを言ってしまえばこの世のみんなアダムとイブの血が流れているのだからみんなとてつもなく遠い親戚であることは変わりない。
知り合いに体の強い人が多いからか、自分だけが弱いと思える。
私の近くには私よりも優れた人間が集まる。
私はその人たちに何も誇れない。何も特異な点がない。
特別じゃないとだめなのか?だめだ。
平凡は取り柄じゃない。
平凡であることで自分を失ってしまうようだ。
だが考えてみたら自分は他とは違う。
それが障害を持つ人間だとして、それを悪いも良いもつけれない。
それは個性であるのだと。
障害という言葉はネガティブに聞こえる。
何かが欠けているとか思われる。
だが世の中には人よりも何かが多くなったことで起こる障害もある。
だからといって完全に自由だとは言えない。
人間は誰しも自由なんて持ってないのだから。
好きなことができて、好きな生き方をできるなんて、一人で何でもできるのならば社会なんていらない。
社会というのは皆が平等にあるためのルールを守らせるために皆が協力することで成り立つ。
誰かが自由を独占できるのならばそれはいわゆる神様のような人以外にないだろう。
人の夢なんて実は大したことはないのだろう。
叶わぬ夢というのは自分の人生では到底ゴールできないほど長い時間が必要なものだろう。
ならばなぜそんな夢を掲げるのか。
それは簡単だ。夢は人間の生きる唯一の理由だからだ。
目標もないならば死んでしまえばいい。
極論を言うとそういうことだ。
ただ、簡単に死ぬなどと言うと色々とうるさい人間がいるのでこの話はよそう。
端的に言うならば人間は無意識的に目標を持つ。
それがどんなに簡単でくだらないものでも、目標は目標だ。
私は今将来の夢というものがわからない。
自分が本当になりたいものがわからない。
自分のキャラとして自衛官になるだとか言っているが明確な理由もない。
本心を言うならばこのまま小説を書いていたいとも思うし、絵を描いて生きるのも悪くないと思う。歌でもいい。自分のできることならば何でもいいのだ。
だがこのまま死にたくはない。
勿体ないと思った。
すぐに死ぬだとか殺すだとか言ってる若者がいるが、無責任にも程がある。
本当に追い詰められて自分の生きる意味を失った人間がいたとして、そういった暴力的な言葉を浴びせるとその人はその言葉を目標と捉えるだろう。
そうしたらどうだ、目の前で本当に死んでしまうかも知れない。そういった時に責任は取れるか?
いや、取れない。なぜなら頭が悪いから、まだ社会を知らないから、世界というものの仕組みを理解できていないから。
人間は簡単に死ねる。だからこそその命を軽んじることは許されない。
私がこの少ない人生を歩んできて唯一理解したことは命の重みでも尊さでもない、人間の愚かさ、無責任さそして矛盾性だ。
たかが16年でもそのくらいは理解できる。
人間は他人に対して優位に立とうとする。
そういう性質を持つ。
ただの種でしかない。
自らを特別だと思いたいのは定めだろうか。
そんな事は今はどうでもいい。
私は最近学校というものが大層嫌いになった
自らを失いそうになる。
自分を装う虚像として世間では通っている。
じゃあなんだ、私はいらないのか?
知らないさ。
だが誰かが私を必要とする日が来る。
そう信じていたい。
ハイデガー哲学というものがあるが、私はその考え方で生きてきた。無意識的にだ。
そういう考え方を持つ人間が少なからずこの世にはいる。
何も急ぐことはない。
誰も必要としないなんて見える範囲の話でしかない。
必要とされたいのならばもっと広い世界を見るといい。
私が言えるのはこれだけだ。
私は今小説を書いていない。
深く落ち込んでしまっている。
続けるか否か。簡単だできるまでやる。
これはただの日記だと思ってくれ。
いつか私は大きくなる。
いつか私は誰かに認めてもらう。
いつか私は
本当の夢を持つ。




