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コーヒーが飲みたくなる話

作者: 松下柚子


雨が降っている。

ザーザーという音とほの暗い空が、部屋の空気を重くしている気がした。


朝起きて、まずため息が出た。雨の日は心が重い。休日でよかった。こんな日に仕事に行きたくはない。とはいえ、雨なので外に遊びに出たくはないし、一人暮らしの家で特別することもない。二度寝をするためにベッドに戻ってもいいが、一度目が覚めてしまった以上、このザーザー音の中でゆったり寝られる気もしなかった。


とりあえず何か飲むか食べるかしたいと思い、ふらふらとキッチンの方へ向かう。昨日コンビニでなんとなく買ったクッキーが目に入った。まあ朝ごはんはこれでいいだろう。我ながら雑な生活が身についてしまったものである。クッキーに合わせるなら、飲み物は牛乳がよいだろうか。牛乳に浸したクッキーは最高だと思う。しかし、冷蔵庫の中には牛乳がなかった。


「あー、牛乳ないじゃん。何飲もっかな」


ついつい独り言が漏れる。一人暮らしを始めてから、かなり独り言の回数が増えた。誰も聞いていないことへの安心感と、誰からも返事がないことへの寂しさが同時に襲ってくるから、独り言が出た後の心の中はなんか複雑な感じになる。でもそれにももう慣れてきた。一人暮らし二年目の私は随分と強くなったのだ。


さて、牛乳の代わりを求めてキッチンをうろうろする。ふと目に入ったのはコーヒーだった。普段からそんなに飲むわけではないが、眠気覚まし用に常備している。たまには眠いとき以外に飲んでもいいかなと思った。

 

コーヒーを入れるといい香りが部屋中に広がった。まだ飲めなかった小さい頃からこの香りは好きだったと思い出す。お父さんが毎朝飲んでいるコーヒーが羨ましくて、ねだって入れてもらったのに結局一口しか飲めなかったあの頃。笑いながら残りを飲んでくれたお父さんの顔が頭に浮かんだ。


「あ、牛乳ないのか、そっか」


懐かしい思い出に浸りながら、ふと気づいて呟いた。苦いのがあまり好きではないので、いつもは牛乳で割って飲んでいるのである。まあ、ないものは仕方がない。今日はブラックで飲むことにした。


コーヒーとクッキーをテーブルに運び、床に座る。雨の音だけが聞こえてくる部屋では空気が澱んでいるような気がして、反射的にテレビをつけた。適当にチャンネルを変えていくと、バラエティー番組をやっていたのでそれを見ることにする。ちょうど地元の近くの街が取り上げられていた。


「いただきます」


クッキーとはいえ朝ごはん代わりなので、ちゃんと手を合わせる。こういったことは親に結構厳しく言われて育った。今となってはそのありがたみがよく分かる。行儀はよいに越したことはない。


まずはコーヒーを飲もうとカップに手をかける。冷たい牛乳で割っているいつもとは違い、今日はかなりホットである。このまま口に含めば舌をやけどしかねない。フーフーと息を吐いて、なんとか飲めるくらいの温度まで冷ました。そして一口。口の中に広がった香りが鼻を抜けていく。最初に熱さを感じた舌は、徐々に苦味を察知していった。


「にっが……」


つい声に出していた。でも不味くはない。むしろ美味しいと思った。苦いが美味しいなんてこれまで信じられなかったが、今この瞬間理解した気がする。お父さんもこんな気持ちだったのだろうか。なんだか大人になったように感じた。


次にクッキーを食べようと盛り付けたお皿に手を伸ばした。コーヒーの香りの中にバターの香りが混ざる。一口サイズのクッキーを口に放り込むと、甘さが舌を包んだ。そして、さっきのコーヒーの苦味と混ざりあっていく。苦さと甘さがちょうどいい塩梅で、コーヒーとクッキーの相性のよさに驚く。これは牛乳とクッキーの組み合わせを超えるかもしれない。



コーヒーを啜りながら、クッキーを食べる。しょっぱいのと甘いのがずっと食べていられるように、苦いのと甘いのもずっと食べていられる気がした。


テレビのおかげか雨の音はあまり気にならなくなってきた。しばらくは降り止まないそうだから気は重いが、不思議とそこまで嫌に思わなかった。雨が続くのなら、こうやってコーヒーでも飲んでのんびりしていればいい。空は暗いし、ザーザーと音がするし、そのせいで部屋の空気は重苦しい。でもそんな気持ちも、コーヒーと一緒で美味しく感じられるのではないか。そんなふうに思った。


最後の一口を飲み干すと、急に手持ち無沙汰になってしまった。テレビはそんなに真剣に見ていなかったので、内容があまり頭に入っていない。何をしようかと思いつつ伸びをすると、充電器に繋ぎっぱなしになったスマホが目に入った。画面をつけるとメッセージアプリの通知が来ていたので、中身を確認して返信する。特段重要なことはなく、友達同士の戯れ程度だ。ただ、一人ぼっちで家にいる時、そういう戯れはなんだかんだとても嬉しいものである。


返信し終わった後も、適当に色んな人とのメッセージを見返す。ふと目に付いたのは、お父さんからのメッセージだった。一番最後にやり取りをしたのは一か月前。改めて見返してみると、私の返信はとてもそっけないものだ。お父さんが嫌いなわけでも、反抗期なわけでもない。寂しい気持ちを見せたくないからそっけなくなってしまうのである。たまには電話してみようか、そんなことが頭をよぎる。家族が恋しくなったのもあるし、何よりブラックコーヒーを飲めたことを報告したい気分だった。三回目のコール音がなり始めたタイミングでお父さんは電話に出た。


「もしもし」

「もしもし、お前が電話してくるなんて珍しいな。何かあったか?」


聞き慣れた声がスピーカーから流れてくる。こうやって声を聞くのはかなり久々だ。


「別にたいした用はないんだけど……」

「じゃあなんだ、寂しくなったのか?」

「なっ、そういうわけじゃないし」

「えー、父さんは寂しいけどな」


本気なのか冗談なのか分からないトーンで言われて、答えに窮する。ここで、私も寂しいなんて正直に返したら、笑われるんじゃなかろうか。この人はそういう人だ。


「……じゃあ、今度家帰るよ」


遠くはないが、頻繁に帰ってしまったらもっと恋しくなる気がして、あまり帰れていない実家。なんだか今は無性に帰りたい気分である。


「え、めっずらしー。じゃあ、お酒でも用意してようかな」


お父さんの声が一段と明るくなる。ちゃんとは言わないが喜んでくれていることが伝わってくるようだ。


「あ、お酒じゃなくてコーヒーがいい」

「コーヒー? 好きだったっけ?」

「さっき好きになった」

「はは、なにそれ。まあいいや、コーヒーね。美味いの用意しとくよ」


それから二言三言交わして電話を切った。来週末、久しぶりに実家に帰る。その時は雨は止んでいるだろうか。まあどちらでもいい。美味しいコーヒーさえ飲めたらそれでよかった。


なんだかもう一杯飲みたくなってきた。空いたカップを持って、私は再度キッチンへ向かった。

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