奴ら
「まずいよなぁ……」
「嫌な感じだね……」
夕方を待たずに暗くなった空を見上げてため息がこぼれる。
今朝村を出る挨拶をして回ったときは、薄雲の爽やかな空だったのに。
ざっと辺りを見渡してみるが、屋根らしきものはない。しばらくは森ばかりの寂しい小道が続くみたいだ。
「降り出したら木で雨宿りだな」
「だねぇ」
この旅ではいつも、明確な行く宛はない。一つ村を出たらまた別の村に着くまで歩く。
そうやってきて、もう七年になる。
一番下の雪は十歳。ほとんどの時を旅の中で生きてきている。本当はきちんと腰を落ち着けて、心置きなく人との交わりを楽しめるようにしてやりたいけれど、なかなか上手くはいかない。
「あ、雨当たった気がする」
「えぇ……」
皆できょろきょろと首を巡らせて、多少立派に見える一本の木に目星をつけて歩を速くさせた。
最初分からなかった雨は段々雨らしくなっていく。それに合わせて段々速くなる足音の中で、ふと、違った音の聞こえた気がした。
とても、嫌な音。
思わずうなじに手をやる。
「ごめん、二手に分かれよう」
「えっ? ……あぁ、そういうこと……」
がらがらがら……
音が近付いてくる。重い車輪の音。
私と杏は木の影に屈み、凜と雪は小道から少し逸れた森の中をぱっと走り出す。
私たちの旅にずっと付き纏う面倒事。
がらがらがら……
前から曲がってきた荷車の姿をそっと見る。大男が牛に引かせている荷車は、子どもなら五、六人は満足に乗れそうな大きさだが、乗っているのは少しの荷物だけ。
いくらか距離を空けたその横を、凜と雪が気に留めない様子で軽く走り抜ける。荷物を頭にやって、いかにも突然降り始めた雨に慌てている姉妹のようだ。
男は二人を一瞥して、すっと視線を前に戻した。ほっと胸を撫で下ろす。
「いけた?」
「うん、大丈夫そう」
覗き込んでくる杏に頷き、木の幹を背に座り直す。まだ緊張は終わってはいない。次は私らの番だ。
「雨宿りしてる若い母と子ね」
「俺もう十三歳なんだけど」
「頑張って幼くなってくださいよ……。ほら、こっち来て。頭隠すからさ」
頭を隠すのは、杏の生まれつき明るい色をした髪を目立たせないためだ。小柄だから年齢は誤魔化せるよ、とは本人が嫌がるだろうから言わない。
「……分かった」
杏はやや不服そうに、私の股と胸の間に頭を収めて転がるような体勢になる。その頭を覆うように腕を乗せて深呼吸した。
「俺、寝てるていで良いよね」
「良いよ。いつでも逃げられる心の準備だけはしてて」
がらがらがら……
音がすぐ傍まで近付いてくる。
ぱっと見て目立つ場所ではないけれど、気付かれない保障はない。
下を向き、全身全霊で息を殺す。
じっとしている杏の心の臓が大きく打っているのが伝わってくる。かく言う私も人に言えたものではなく、弟も似たようなものを感じているだろう。
がらが…ら……。
ざっ、ざっ、ざっ。
視界の端に、大きな足が映る。
気付いていない。
母は子を抱いて一緒に寝ているのだ。
俯いて動かない女のうなじにかかる髪に、大男の指先が触れる。
ぱっ。
仕方なく、顔を上げた。
空いているほうの手で、後ろの髪を軽く梳かす。
「びっくりした……。何ですか……? あなた……」
肩を強張らせ、顔を上げきらずに目だけで男を見上げる。知らない大男に突然首筋なんて触られたら誰だって怯えるだろう。きっと。
杏の頭にやっている左腕をきゅっと寄せる。子を守ろうとすることも忘れない。
「……親はどうした」
一度杏のほうに目をやってから見返す。
「私の……子でございます……!」
「ほぉ、随分と若い……」
男は屈んで私らのことを舐めるようにじろじろと見る。普通に考えれば馬鹿みたいに失礼な態度だ。
「い、良い加減にしてください……! 何かご用ですか!」
すっかり怪しまれているようだが、あくまで無関係な人間を演じる。杏もいる手前、荒事にはしたくない。
でも、男にしてみれば、この女の正体が怪しんだ通りのものでも本当にただの若い母であったとしても、手を出してそう困ることはないのだ。
男は、母の訴えには答えず私の襟に真っ直ぐ手を伸ばす。
ぱんっ
その手をはたいて襟口を締めた。
どうせろくに聞く耳を持たない輩と、こんなやり取りをしていたって意味のない気がしてくる。
にやりと笑う口元が見えた。
男は二歩三歩と下がって距離をとる。
「お前、壱だろう」
あぁ嫌だ。面倒臭い。
多少諦めたせいか、いつの間にか私の胸のうるさいのは静まっていた。
ため息を付いて立ち上がり、腰の紐を締め直しながら杏と男の間に入る。
「一体、何のお話をなさっているのか……。雨止みを待つ親子も黙って過ごせぬほど、暇なのかい?」
認めずとも、もう大して聞いてもいない男は言い終わるや否や勢いよく地を蹴った。
風を切って一瞬にして目の前に迫った手刀を屈んでかわす。屈んだ勢いのまま一気に跳び、男の肩に足を掛けてその顎を力いっぱい蹴り上げた。
後ろに跳びながら振り返ると、既に距離をとり始めていた杏の伺うような視線とぶつかる。
「大丈夫、離れてて。絶対捕まんな」
杏は小さく頷くと荷物を持って森の奥へ走り出し、するすると木の上へと姿を消した。
雨が強くなり、辺りも暗くなってきている。あの葉の生い茂る中へ上がってしまえば確かに男が私と闘いながら行く先を追うことは難しいだろう。
「いつまで余所見してんだよ!」
ぱっと横へ跳ぶと、一足遅く残った髪を男の足が音を立てて蹴り抜ける。
「本当、良い加減ほっといてくれないかな……」
私の訴えは誰に届くこともなく雨に溶け、仕方なく私はまた地を蹴って男に向かった。
早くしないと、大事なあの子たちが雨に濡れて風邪でも引くといけないから。
「遅かったね。さては捕まった?」
「まあね。最悪」
「怪我は?」
「ないよ」
凜とお決まりのようになった会話をして、どうやら無事らしい三人を見て安心する。杏もちゃんと二人のところまで辿り着けていたようだ。
杏が目だけをやって無言で荷物を渡してきたので、「お疲れ様」と返しながら受け取る。
「やっぱり母と子じゃ無理あるんじゃん」
「普通に姉と弟でいったときも駄目じゃなかった?」
さっきあったことなんて気にしないふうに会話が始まる。きっとみんな毎回怖いし寿命さえ縮まる思いだけど、困ったことに、もう慣れっこでもあるから。
「それはもう陽の目つきが相当悪いんじゃないの?」
凜がにやにやしながらからかってくる。
「そんなことないでしょ、一番柔らかいよ?」
「そうだよ、凜のほうが怖ーい!」
しばらく顔を強張らせていた雪も、すっかり砕けた表情でふざけ始めている。
「ほらほら、早くどっか良い木見つけないと風邪ひくよ」
「一番風邪ひかない人がなんか言ってらぁ」
「それは凜でしょ」
どしゃぶりの雨で、人の姿なんて全く見えない中、私たちの喋り声、笑い声だけが響く。
大丈夫。今日もなんとかなった。
私たちは時々、「奴ら」に狙われる。
「奴ら」は国のあちこちに拠点のある大きな組織で、荷車を引いてある日突然どこにでも現れる。大抵はがたいの良い、喧嘩っぱやい大男。
そして、「壱」の名を揃って口にする。
できることならあいつらの頭から残らず消してしまいたい不快な言葉だ。
なんとか逃げてきたから、捕まったらどうなるのかは分からない。でも、きっと今の四人で暮らしている自由を奪われるのは確かだから、逃げるより他にはない。
私らが七年も彷徨い続けている原因のひとつは間違いなく「奴ら」だ。
「……いつんなったらゆっくり暮らせるんだろ」
「何? ついに陽も参ったの?」
すっと凜が隣に来て小声で笑う。
「ううん、ただ、きりがないなぁって」
「本当にね。……まあ、どうしようもなくなったら森拓いて村作っちゃおうぜ」
「ふふっ、何それ。思い切りが良すぎない?」
凜の冗談に笑いながら、衣で擦れたらしくちりりと痛んだ気がして、そっと腿をさすった。