4 バランス感覚
「最初は、落ち方から練習するんだ」
「え、意外」
「ケガしない落ち方があるんだよ。降り方つったほうがいいかな。つま先側に重心をかけて、ボードを倒して、向こう側に降りる。利き足、右?」
「うん」
「じゃあこっちの向きだな。利き足が後ろ板」
新井は、わたしがさっきつかまっていた常夜灯の支柱の横に、ボードをおいた。わたしの正面、左が進行方向だ。ボードに進行方向がある、というのは、辛うじて妹から聞き出していたけれど、利き足が関係あるなんて初めて聞いた。
「進もうとか、そもそもボードの上に立とうなんて思わなくていいから、最初は、乗ったらぱたんと向こうに倒す。そのまま降りる」
新井は、わたしの側に向けていたボードを、キャスターを地面につけて上向きにした後、反対側に向けて倒して見せた。
「恐いから、後ろに降りようとしがちなんだけど、それやると、転んだとき後頭部を打つんだ。それは危ないから」
「前ね」
わたしは支柱につかまりながら恐る恐るボードに乗った。
「そう、そんで、そのままパタンと」
言われるがままに爪先を踏み込むと、簡単にボードは反対側に倒れる。細くて不安定な車輪が二つついているだけなので、自転車を起こして反対側に倒すだけ、みたいな自然な動きだった。
つんのめるようにわたしはボードの前方に降りた。
「そうそう」
すかさず新井の声がかかる。
「何も考えないで十回ぐらい、やってみ」
乗る。パタン。降りる。
乗る。パタン。降りる。
繰り返すうちに、乗ったところで一、二秒静止できるようになってきた。
「これな、準備運動にもいいらしいよ。降り方を身体に思い出させておくとケガが減るんだって」
「へえ!」
「そしたら次は、支柱につかまらないで乗る、前に降りる」
「イエッサー!」
わたしはおどけて敬礼を返すと、また、ワンステップ進んだ先の単純な反復練習に取り組んだ。
「うまい、うまい。じゃあ、手を持っててやるから、ちょっと乗ってみる?」
新井は、妹が最初の頃練習に使っていた、パッと見には平坦に見えるごくゆるやかな傾斜を指さした。
「腰が引けてると進まないから、重心意識して」
ボードの反対側に立つと、わたしの手を取って、乗るのを助けてくれる。
男の子と手を繋ぐなんて、もう、五、六年ぶり以上だ。いや、ひょっとすると、幼稚園以来かも。新井にまったく他意がないのはわかっているけれど、やっぱりちょっとドキドキする。
それに、幼いころに繋いだもう顔も覚えていない誰かの、お互い子ども同士のぷにぷにした手の感触と違って、新井の手は思ったよりずいぶんがっしりと骨ばって、大きくて、男の人っぽかった。
そんな諸々を意識するのは、なんだか不純な気がして、わたしは意識の端っこにそれらをおいやると、ボードに集中した。
しばらく傾斜のある辺りを下っては、ボードを持って元の位置に戻り、と繰り返しているうちに、次第に、手を持ってもらっている状態のままではあるが、後ろ側においた右足を揺らしてボードを漕ぐ感覚がつかめてきた。
「やっぱ、家島、バランス感覚いいな。結構乗れてんじゃん」
独り言のように、ぽろっと新井は言った。
「一輪車は乗れるからね」
「まじで? あー、俺の小学校でも女子はみんな乗ってたなー」
「もはや、女子は乗れるの当たり前って感じだったよね、あのころ。……あれ? やっぱって何? さっき言ったよね」
「あ、なしなし! 聞かなかったことにしてよ」
「やだ。気になるじゃん」
わたしが追及すると、しぶしぶ、新井は口を割った。
「……いや、さ。家島、ハナエン部だろ」
うちの高校独特の、華道・園芸部の略称である。
「うん」
「毎朝、花壇の水やりしてるじゃん。あの、花壇の細い縁石の上、家島は全然苦もなく、すうっと歩いて渡るだろ。重そうなホースやじょうろを持ってるときでも。あれ、他の子は結構苦労してんだぜ」
「うわ、そんなん見てたの。ハナエンは女子ばっかだよ。ラッキーちらりとか、期待してないでしょうね」
わたしの軽口に、新井はちょっと赤くなって目をそらすと、ぶっきらぼうな口調で言った。
「ばか。そんなんじゃねえし。だから言いたくなかったんだよ」
わたしだって、本気で言ったわけではない。ちょっとからかっただけのつもりだったので、こんなガチ目の新井の返答は意外だった。気おされて、つい謝ってしまう。
「ごめん。本気で、新井がそんな不埒なこと考えてるなんて思ってたわけじゃなくて、冗談だから」
なにせ、わたしが転ぶか転ばないかの生殺与奪の権利は、たった今、新井が握っているのだ。新井に手を離されたら、わたしにはつんのめるか、しりもちをつくかの二択しかないのである。
「……うん」
やっぱり根は紳士なのか、新井はわたしの手を離したりはしなかった。
キャスターボードでわたしの身長は数センチかさ上げされている。それでも、新井の視線はわたしより少し高い。肩幅も広い。
距離の近さを、つい、意識してしまった。途端に、右足でとっていたリズムが崩れる。
「わわ……っ」
バランスを崩しかけたわたしを、新井の腕がぐいっと引き寄せた。
「あっぶね」
「ごめん」
「いや、謝んなって。転ぶのが練習だから。こっちこそ、変に機嫌悪いみたいな態度取ってごめん」
「そんなのいいって、元はと言えば変な冗談言ったのはわたしなんだし」
謝られて、わたしは慌ててとりなした。
ちょっとヘンだ。今日の新井。
前から、誰にでも親切で性格がいい人間だと思っていた。でも、こんなに面倒見がいいタイプだなんて思っていなかったし、わたしがこんなに話しやすく感じるのも初めてかもしれない。なのに、当の新井の方が、調子の悪いスマホみたいに、時々、ぎくしゃくした言動になっている。
もしかして何か用事があったのに、ばったり出会ったクラスメートを放っておけなくなってしまったのなら、申し訳ないな、と思い至った。
「それより、教えてくれてありがとう。時間、いいの?」
わたしは新井に尋ねつつ、ふと気になって公園の時計を見上げ、驚いた。
思ったより時間が経っている。もう、八時過ぎ。休日でのんびり朝寝を決め込んでいるはずの両親だが、起き出してきたとき、わたしがいなければ、びっくりするかもしれない。ホワイトボードに行き先は書いてきたけれど。
「いや、軽いランニングのつもりで出てきただけから。平気。あー、でも確かに結構やったな。家島、もう、足の筋肉ヤバいだろ」
わたしはこくんとうなずいた。ひとたび立ち止まってみると、疲労でぷるっぷるなのがよく分かった。
「ちょっと座ってろって。待ってて」
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次話で最終話となります。短いお話でしたが、最後までお付き合いいただけたら光栄です。