2 ネイルスティック
声を聞いた瞬間によぎった嫌な予感は的中した。
175センチ近い長身を屈めるようにして、ひょいと顔を覗き込んできたのは、高校のクラスメート、新井だったのだ。
なんで、よりによって、この瞬間に声をかけてくるのか。見なかったふりをして、そっとしておいてほしい。
なんてわたしの内心の抗議には全く気がつかなかったようで、新井は実に楽しそうににやにやと笑った。
「なんだよ、家島、西中だったじゃん。もっと駅の向こうの方に住んでるんだと思ってた。何でこんなところにいるの? もしかして近所?」
「近所ってほどじゃないよ。自転車で十五分くらいはかかる。北中、けやき小の学区。でも、中学の途中で、西中学区から引っ越したから、越境通学認めてもらってたから」
「へえ」
もう。こんな時間に出歩いている以上、新井にだって自分の用事があるんだろうから、さっさと行ってほしい。
努めて何でもない風に世間話を受け流したわたしの、必死の祈りも空しく、新井はわたしの頭のてっぺんからつまさきまでを無遠慮に眺めまわした。
「で、何してんの。新手のダイエットか何か? やめとけって」
「よけいなお世話!」
太ったって言いたいんだろうか。確かに、お正月にお餅を食べ過ぎて少しだけ増えた体重は、バレンタインシーズンのチョコレートの誘惑や、ホワイトデーからイースターシーズンのクッキーやマシュマロの陰謀のおかげで、全然元に戻っていなかったけれど。
「お、ネイルスティック。ダイエットなら、乗って動かなかったら意味ないだろ」
足元に目を止めて言う。
ネイルスティック。
妹がサンタさんにおねだりした手紙にも書いていた、このキャスターボードの商品名だ。
子どもたちの多様な好みに合わせて、お気に入りの一台を選べるようにカラーバリエーションを豊富にそろえた商品展開は、確かに、化粧品コーナーにならんだ色とりどりのネイルエナメルの小瓶を思わせたし、特徴的な二枚のパドルは、言われてみれば爪の形にもよく似ていた。なるほど、上手く名付けたものだ、と思っていた。
だが、普段妹のかわいい声でしか聞かないその言葉を、声変わりをすっかり済ませている級友の声で聞かされると、ちょっと場違いな感じがして、おかしかった。
「さっきから、ダイエットダイエットって、うるさい。別にいいでしょ」
平気なふりをして、ふてくされたような返事をしていたけれど、実際にはわたしの全身の筋肉は、不安定な足元に限界を迎えていた。さりげなくボードを降りて、がっちりと私の両足を支えてくれる確かな地面に、普段感じたことのない感謝を捧げていると、新井は嬉しそうにわたしが降りたばかりのボードを指さした。
「今やらないなら、ちょっと借りてもいい?」
「わたしは休憩しようと思ったところだからいいけど。妹のだから壊さないでよ」
何でもない風に言って、サーキット横の噴水に向かう。シーズンオフのため水が止められ、枯れている噴水だが、座れる高さの縁石がベンチ代わりになっているのだ。内ももからふくらはぎの筋肉が軽く痙攣している気がしたが、そんなことを新井に悟られるのは嫌だったので、気合でその十数歩を乗り切った。
わたしが歩いている内から、背後で、がーっという軽快なホイール音が聞こえ始める。
ベンチにたどり着いて、振り返りざま座り込んだわたしの目に映ったのは、ミントグリーンの雲を乗りこなしている新井の姿だった。
妹よりよほど早いスピードで、サーキットをもう半分近く回っている。
新井も乗れるんかい。
悔しすぎる。
わたしは一人ではりきって公園にやってきたのに、結局、妹を連れてきたときと同じ場所に座って、他の人が乗っているキャスターボードを眺める羽目に陥っている。そのことに気がつくと、また少し、おかしくなった。
何でこうなってるんだろうな。
見ていると、新井は、ボードを大きく蛇行させて、サーキットの道幅いっぱいに往復しながら周回したり、そこそこのスピードで走行しながらの状態で、後ろ側のボードに重心をかけて、前輪を宙に浮かせて左右に振っては地面に落すリズミカルな動きを入れたりしている。
あんな技もあるのか。
いつのまにか、わたしは新井の滑りに見入っていた。
妹や他の小学生は、ボードに乗って足をできるだけつかずにサーキットをぐるぐる回ること、スピードを出すことが楽しいようで、ただただ走らせているだけだった。だから、こんな風に曲乗りができるボードだなんていうことさえわたしは知らなかったのだ。
新井のボードはS字や8の字を次々に重ねて、複雑な軌跡を描いている。ほんのすこし身体を傾けただけに見えるのに、ごく小さな回転半径でボードがしゅうっと弧を描きながら向きを変えるのが不思議だった。
ボードのやつめ。さっき、わたしの言うことは、ちっとも聞いてくれなかったくせに。
八つ当たり気味のそんな感慨を持て余しつつ、わたしは新井とボードが共犯して重力を裏切るように軽やかに滑るのを眺めていた。